エデンの園 永遠の中から救い=イエシュアの手段や方法 罪の赦しの方法は1つしかない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人の世界で語られる教えは、エデンの園から昇天迄と、

昇天以降とでは、救い、贖いの方法や罪の許しの手段、内容が

違う!と解説しているので、それらは聖書の教えとは最初からずれているので完全なる誤解が生じているのです。

では聖書にはイスラエルの神の性質と神の言葉がどんなものだと

書かれているのでしょうか?

 

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、

主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばき真実であって、ことごとく正しい。

 

7節にある主のおきてとはヘブライ語では、トラット イェホヴァ=モーセ五書=父の教えをさして話しています。

主のあかし、証と言うヘブライ語は、エデウト=これもモーセの五書=聖書を指して使われる言葉なのです。

あかし=トラー=聖書=神の教え、インストラクションを表す

類似語です。

 

8節の主のさとし、これもピクデイ イェホヴァ=トラーの中にある、ある特定の神からの指令です。

主の戒め=ミツボット、これもトラーにある特定の教えの事です。全て100%モーセの五書を指して表している類義語=言葉なのです。

9節の主の裁き=ミシュパット、これもトラーの中にある教えの

こと、裁きです。ミシュパットと言う言葉は、家族と言うヘブライ語と同じです。そして神のミシュパット=裁きは真実=真理と言う言葉で書かれています。真理=エメット。

アーメンと言う言葉と同じ語源です。信仰と言う言葉も同じです。信仰=エムナ。神の言葉の性質を同じ語源で表しているのです。真理である神の言葉が歴史の途中で変化すると言う教えが

完全に聖書とは異なる主張である事は聖書を学んで行けばその事実を突き止める事が出来るのです。聖書に書いてある通りに学ばないで、人の教えを混入させたら神が伝える永遠不変である真理は人の目から隠されてしまうのです。だから人の教えの混ぜ物は

全て排除して、純粋な神の言葉、神が主張し、人に伝えている

神ご自身が語る言葉だけに戻らないとならないのです。

 

神の言葉は完全=タミン非が無い、欠損が無いと言う意味です。

タミン=欠損、非が無い、完全無欠である神の言葉なのにどうして途中で変化する必要があるのでしょうか?その様な神の言葉に対する記述は聖書の中には記されてはいませんけれど、異邦人が創作した教えが流通し続けてしまったので、神の言葉は以前は

仮の不完全なもの、昇天以降に新しい教えが出現、新しい教え=神のトラーが破棄される別の教えと言う宗教の教えにすり替わってしまったのです。

 

詩篇や箴言などは異邦人クリスチャンの中でも良く読まれ、語られているものですが、詩篇や箴言はモーセの五書に書かれた神の教えの知恵に生きる宝庫が記されています。モーセの五書以降の全ては100%モーセの五書を指して語っている事実に目覚める必要があるのです。聖書にはモーセの五書以外の別の教えなど

1つも書かれてなどいません。あると言うならば、それは宗教が作った教えを注解として挿入しているだけです。それは神の純粋な言葉ではなく、人の思想、宗教の教え、哲学に過ぎないもの、それは初めから存在してはならないものなのです。

 

ダビデの歌などを読んでも、ダビデもイエシュアの救い、贖い、許し、自分の罪が削がれてイエシュアの贖いの血で新しくされる体験を賛美している事が詩篇の至る

所に書かれています。そして個人的に主と繋がり深い関係にある事実が記されています。救い=イエシュアは1つ、救いの手段、方法、道は一つしか無いと聖書には書かれています。

 

詩篇34:18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

34:19 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。

34:20 主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

34:21 悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。

34:22 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。

 

贖い、救い、許しも1つです。歴史の前後で変化するものでは無い事はトラー、預言書、諸書を読めば明らかに記されています。

 

イエシュア=救い、ハマシア=油注がれたものは昨日も今日も

永遠に変わらない!と言う聖書に書いてある通りの神の性質に

基づいて考えない限り、非聖書的な教えは後を絶たない路線を

爆走し続けるのです。

異邦人の世界の教えは、イエスキリストは、昨日も今日も永遠に

変化する神ではなく2000年前に変身し、父なる神の言葉を変えたのである!などと教えているのです。

この思想は、神の伝える事を偽るものであり、神の言葉を真っ向から否定する教えである!と言う認識が、神の言葉を書いてある通りに正しく理解するためには絶対に必要不可欠なのです。

 

罪の赦しは動物の血では出来ない!と最初から神が伝えている通り、聖書に書いてある通りだからです。それは永遠に不変です。

それでは何のために神殿の祭壇でその様な動物の血が捧げられる儀式が行われ、教えられているのか?と言う事を知る必要があります。

それら一連の教えは一時的な仮の罪の赦しなどでも無いのです。

モーセの五書、レビ記を読む前提からしてずれているから書いてある内容を誤解してしまうのです。

仮の赦しとか、イエシュアが来るまでの一時的な赦しなど初めから存在しないのです。許しはどの時点でも与えられ、神の前に新しくすすがれた体験をする、それはズレた状態から離れて神の性質に生きる事に常に戻る、クリスチャンの世界では悔い改めと言う言葉を使いますが、ヘブライ語ではシュヴァ=戻る〜何に戻る?神のトラー=神の教え、インストラクション、神の性質に

生きる本来の状態に戻ると書かれています。

ごめんなさいと言って、その後神の性質、神が伝える人間の生き方を知らない、それに戻らないなら、その告白は意味が無いと書かれています。行動が伴わないものだからです。

ヘブライの世界=聖書は思想ではなく全て人の”生き様”=行動を語っているのです。だから行い=生き方が伴わない信仰は死んでいる、意味がないと書いてあるのです。

 

地上で、天から永遠の中に与えられている、この世の礎が造られる以前から、神が用意してくださった救い、贖い、罪の赦しは

存在している。

それらはこの地上のどの時代のどの時点でも同じ、どの人種にも

同じです。

レビ記の中に書かれている一連の儀式の意味を学ぶとイエシュアの贖いの業、神の前に義とされている事実、贖われた人は神に喜ばしい存在である事実、神の子らは神に罪削ぎ落とされ新しい人

と神の目には写っている事。

そして人がズレたらどんな代償がつきまとうのか、実際に動物を

屠る事でも体験するのです。尊い命、動物を自分の手て屠る、

それを祭司が脇に居て助けるだけです。インパクト大きいです。

そして二度とズレてはならないと言う決意、全ての思索をイエシュア、ハマシアに照らし合わせて生きるとパウロが言ったのは

この神殿での一連の事を知っているからでしょう。

 

そして、それら身を引き裂かれる様な悲しい出来事の後には、

祭壇を囲んで皆でバーベキューをして頂く。バーベキューの匂いって特別に良い匂いですよね。それを嗅いで、そして皆で和解して一緒に食事をする。

神の家の祭壇は、お茶の間です。そのテーマは、一体。

関係修復。神とそして人と人との和解した状態です。

罪が神と人を隔て、人と人を隔てている。それが取り払われ元の

状態に戻る、それが本来の修復の意味です。

神の家族が1つであり、神の前に和解してシャロームな状態で

生きると言う事を神殿の中の一連の出来事を通して教えられているものなのです。

実際に今神殿がないですが、聖書が書かれている間は神殿が

存在して居た、ヘブル書が書かれている時には神殿が崩壊して

居たかもしれないと言う説もあります。

でも少なくとも使徒やパウロは神殿で昇天以降も変わらずに

その中で行われる儀式に参加し、神殿で3つのハギム=都上りの

祭りを祝って居たのです。

 

地上の神殿で教えられている中身は、イエシュアの救い贖いの意味そして、神の前にどう近づくのか、神の子らは罪注がれ、天の

中に受け入れられ、芳しい香りとして神の前に新しくされている

事実を祭壇にまつわる一連の儀式で教えられているのです。

キッザニア、体験型神の子らの生き方学習場所、それがエルサレムの神殿なのです。この地上で唯一神の臨在がその神殿に存在した理由があるのです。ここに戻れ!です。そして世界の中心で

あり、全ての人がここに上る、1つ神に1つ家族として加えられる事実を表しているものでもあるのです。聖別された場所、聖別された生き方をする人=神の家族=地の塩、世の光とはそう言う

意味です。世界へ神の教え、性質を生きて灯台=チェラビムの

役割をする人達。

 

もしエルサレムの神殿の周りに住む人、又は祭りでエルサレムに詣でる事が出来る人しか罪の赦しが可能でなければそれは極々少数の人に限られてしまいます。

ユダヤ人とて全ての人がエルサレムの神殿に向かう事など出来ませんでした。しかもエルサレムの神殿には都上りの祭り=ハギム

しか行く事が出来ない、生涯何度行けるのか?健康状態の悪い人

歩けない人、老人、エルサレムに上れないのです。

その場合は、家族の代表が祭りに行ったのです。

 

代表。イスラエルは神の子らとして世界へ神の教えを伝える代表として選ばれました。福音はユダヤ人から伝えられた事実は誰一人否む事は出来ないのです。それが事実だからです。

そして世界の中でたった1つの国、イスラエルと言う国を神が

選び、それを地上での神の国=天の国を反映させて生きる人達

イスラエルと言う国民で治めると神が決めたのです。

その理由は、イスラエルが他の人種と比べて優秀だからとか、

能力が高いからとかそんな事ではない、どうしてか分からないけれど、神がそう決めた!それだけなのです。

そして同じイスラエルの神、イエシュアを通して父の元に繋がれた人はもれなく同じイスラエルの神の家族、イスラエル家に加えられたと聖書ではずっと書かれています。

 

教会と言う造語=言葉は聖書にはありません。最初から神の家族は同じ言葉で語られ歴史の途中で2つのグループは出現して来ません。

カハール、ケヒラ、エクレシア。どれも神が呼び出された人々、

神の声に応答し同じ契約に生きる家族に加えられた人達の群と言う意味です。その家族は分裂した状態で生きると書かれていません。分裂=別の教えを生きて、別の記念日を生きる、分裂した

家族は神のトラー=教えの中には最初から存在しないからです。

昇天以降、契約=トラーから遠く離れた異邦人も、隔ての壁=

人が作った当時の様々な規定=ユダヤ人でなくては神の子らとは

認められないと言う人の教えなどが崩壊し、同じ契約、天の相続を受け継ぐものとなったとはっきり記されています。

 

長男の役割をするイスラエル、神の子らの生き様を世界へ伝える役割、それらの人が神の教えと反する事を生きたら、異邦人より厳しい訓練が待ち受けた記録が書かれています。

なぜでしょう。世界へ正しく神の言葉、教えを伝えなければならない人が、別の教え=人間の教え、異教の神々の教えと混じった

生き方をしたら、それは弟、妹を惑わす生き方を示してしまうから絶対にダメだからです。

別の教えと混じった教えでも良いと考えるなら、それはどこまでもずれた方向へ行く事になるのです。

 

 

 

続く