イスラエルの神ご自身が解説する神の言葉の性質 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2週間前のパラシャ、トラーの箇所は創世記25:19ー28:9”トルドット”と言うヘブライ語のタイトルが付いているもので

した。毎週毎週そうなのですが、トラーの中にはたくさんの深い

教えが詰め込まれているのです。深い深いものです。

この深い深い教えの中から、イエシュア、使徒、パウロが解説する短い文章が福音書以降には書いてあるだけなのです。

トラーとは別の教えは聖書には記されていません。

噛み砕いて、味わい知るには永遠が必要です。

だから地上の生涯も”神を知る”と言う事を追求し続ける意味、

必要があるのです。

 

パラシャとは、イエシュアがあるシャバットで会堂に於いて、

イザヤ書=預言書を朗読した下りでも分かります。

1年サイクル、3年サイクルで、トラー=モーセの五書をシャバットに読み続ける伝統があります。あらかじめ朗読箇所は決められており、イエシュアが勝手に選び出した箇所を読んだのでは

ないのです。神の権威、主権の下あの日あのシャバットでイエシュアはご自分に関するイザヤ書の箇所を読んだのです。

 

使徒15章にも、パリサイ派のグループに新しくイエシュアを

信じた異邦人達、もちろんモーセの五書の中にどんな神の教えが

書いてあるのかも知らない人達が、パリサイ派の交わりに参加するならば最低限の神の教えをまず知って参加してと言う下りにも

毎週シャバットにトラーを会堂で読む伝統がある事が書いてあります。

 

使徒15:21 古い時代から、どの町にもモーセのトラーを宣べ伝える者がいて、安息日=シャバット=第七日目ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。

 

この様な伝統があるのは神の直接の仰せだからです。

 

申命記6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主で

ある。

6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、

あなたの神、主を愛さなければならない。

6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、

6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

 

異邦人の神の言葉に対する意識とは全く違うものが、契約を受け継ぐユダヤ人の中には根付いているのです。

 

神の言葉を神の口から直接伝えられた言葉なのです。

聞け!とあるのは、シェマと言う言葉で、従うと訳されてしまっている言葉ですが、この言葉を”従え!”と言う様な言葉を使いそれを文字で読んだら、受ける印象はまるで違うものになります。

まるで軍隊のトップ司令官に上から強い口調で命令されている感じがしてしまいます。従え、従うと言う言葉はヘブライ語の本来の意味を反映していない事は何度も書いてきました。

 

その言葉一つで全く違う印象を与えてしまいますね。

アヴラハムも神から同じトラーを教えられていた事が記録されています。神の言葉、教えは永遠から永遠に同じだからです。

厳しい口調で神が語ったのではなく、神は直接アヴラハムに

話しかけたのです。

そしてアヴラハムも神と直接の親しい関係の中で神の声、言葉を

聞いたのです。

個人的な深い親しい関係の中で、神が優しく諭す様に話しかけている、それが神が人へ話している様子なのです。

 

そこには、神の優しい声音、愛に満ちた子供を何としても害、毒

から守ろうとする表情があるのです。

でも神の言葉を最初から厳しい呪いの律法だ〜などと教えられている世代の異邦人達には、神の言葉は”従え!”と言う厳しい声音と険しい表情の神の顔が浮かんでしまうのです。

 

神の言葉をガードする、それらをする事を”ミシュマレット”と

言います。

シャマ=ガードする。従うと言う翻訳の裏にある本当のヘブライ語の意味は、シャマです。同じ語源であるのは聞いただけで分かると思います。

 

神の言葉を聞いた人達は、神が言う通りを理解すれば、神が言う

通りに行動し生きると言う事をするのが人間の本来の生き方なのです。

ガードすると言う意味は、単純な意味ではないのです。

命がけで守る!と言う意味があるのです。それはイスラエルの

古代、今でもありますが街に入る場所には門があるのです。

旧市街に行くと分かりますが、入る場合にはいくつも門が存在します。そしてそこには外敵、危ない人達が侵入して来ない様に

門番がいるのです。寝ずの番をするガードは中途半端な意識では

その街の中に住んでいる人の命の安全は守れないのです。

それくらいの度合い=命に匹敵する度合いで守らないとならない!それらがあなたの命を守るからであると書いてあるのです。

命を守るプロテクトガード=神の言葉をないがしろにし、破棄、

終了であるなどと言う教えが完全に非聖書的であると気が付かないと始まらないのです。

 

モーセの五書=トラー=教え、インストラクションを表す類義語

が聖書に書かれています。福音書以降も全く同じ意味です。

神の言葉=契約は異邦人が解説する様に歴史の途中で変化など

しないからです。

それらの言葉を、ミツボット=ある事柄に対しての特別なインストラクション。ミツボタイ=わたしのミツボット。

フカット=命令と訳されていますが、条例、権限 色々な意味があります。フコタイ=わたしの命じる事、議会に関しての様々な

法則も含まれます。

トロット=神の教え、インストラクション、トラタイ=わたしの

教え、インストラクション。

その他、ミシュパットと言う言葉がありますが、神の裁きとも

訳されています。

全て類義語でトラー=神の教え全体のある性質を指して話しているものなのです。

 

トラタイ=わたしの教え!と神が宣言するものを人間が否定しても、それで神の教えが無効になるのでは無いのです。

そして、神の言葉、教えを無視すると言う代償、弊害、危険を

本当に考えなくてはならないのです。

誰が神の言葉から意識を逸らしているのか?と言う単純なトリックに気が付けば良いのです。聖書の記述から気が付く必要が

あるのです。蛇は巧みに人を騙したのです。それを考える。

 

最初の最初にエデンの園で、人類が神との離別、隔たり、関係の

中に死、本来の性質に対して死、肉体が朽ちる死が入り込んだのか、そこに書いてある意味を本当に理解しないとならないのです。

以前私はキリストが来たら全部帳消しなので、罪の代償はあまり

無いのかと思っていましたが、それは違う事は経験から分かると

思います。人間誰でもデザインに反した事をしたら、刈り取る結末が必ずあり、信用を失い、関係は壊れ容易に修復が出来ない事

そして自分が人を傷つけたら自分がもっと傷付く事は多くの人が

経験上知るところです。

だから神の言葉を無視して勝手に生きてしまう場合には、必ず

代償が伴う事は永遠の真実なのです。

 

創世記 26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

ここに書いてあるヘブライ語は、アヴラハムが神の声の中で神の言う事を聞き、神の言葉をガードし、神の命令を安全にガードし

ミツボタイ、フコタイ、トラタイをガードしたと書いてあるのです。同じ神のトラーをアヴラハムも聞いていた。

それらが契約と言う正式な儀式=シナイ山の上で天が降りてきて

天と地が証人で与えられたのが、文字で記されたトラー=モーセの五書なのです。

儀式を通して正式に与えられた契約は途中で変化する、又は人種別に違う教えであると言う思想自体が聖書とは全く異なるものなのです。

もしトラー、預言書、諸書を読み、学び、それらが理解出来ない

ならば、聖書に書いてある意味通りを把握していない!と言う

単純な理由があるのです。

 

だから神の教えをどこまで、寝ても覚めても考え、学び、そして

神が伝える通りを子孫に伝えよ!と神が直接語っている理由が

あるのです。神が伝える内容とは違う教えを世界へ浸透させたら

それは神の栄光、神の性質をそのまま反映している事にはならない、神の伝える事をそのまま天の祭司=代表として世界へ伝えている事にはならない。宗教に変形した教えを伝える事こそが神の意図、考え、計画を妨害する事である事にいち早く気がついた方が安全です。

 

トラドットとは”系図”などと訳されていますが、この中には正式に全ての人の家系図が記されているのではないのです。

家族の中の重要な歴史、それらに関わった人達の記録でもあるからです。だから誰かの名前が抜けていてもそれは問題は無いのです。

マタイ1章は、創世記5章と重なっています。マタイはトラーに書かれている事を考えて記しているのです。マタイはヘブライ語で書かれているのです。

イエシュアに繋がる系図、それらに関わった人の歴史が書かれているものだからです。

トラーとトラドットと言う言葉は繋がっています。

このトラドットと言う言葉を翻訳するのに皆苦労します。

だから、ある翻訳では家系図、ある翻訳では記録、ある翻訳では

お話など様々に違う訳をしているのです。

 

この言葉の最初に”セファ”=書と言う言葉が来るヘブライ語で

書かれているものがあります。セファ トラドット。

家系図が書かれている時には、その中に出てくる登場人物の人生の出来事で意味があるものが書かれているのです。

出エジプトから申命記は、実際にモーセが体験した事でもありますから、記録がしやすいですが、では創世記は?と言う事になります。

もちろん神から掲示を受けて書き記したものですが、その中には

アヴラハム、イサク、ヤコブなどが持っていた記録、トラドット

の様な家族の歴史に繋がる記録が聖書には挿入されているのです。

古代中近東にはクネイフォムと言う粘土の上に記した手の平サイズの印がありました。そこに書かれている記録、そして誰が著者であるのかも確認出来るのです。

それらの記録が聖書にも挿入されているのです。神の主権、判断によりそれらを聖書に加えると言う事をされたのです。

 

家族の歴史を通して、様々な出来事だけを見たら意味不明で見えないのですが、こう言う事です。

1つ1つの筆で書かれた絵画の一部だけではなく、下がって全体像を見ると言う事をする必要があります。

その中で起きた出来事、家族の争い、妬み、憎悪、復讐心、

それらがどの様に回復されるのか?神の目を通して人生の出来事の一つ一つを見ると言う事にも繋がる事です。

そして歴史の全ての出来事の中に、個人の出来事の中に、神の

絶対なる主権が存在している事・

 

モーセの五書を学ばない、預言書、諸書を深く学ばないなら

福音書以降に書かれた短い解説はほんの少しの画像だけしか浮かんで来ないのです。

だから本文=最初の部分を知る必要があるのです。その上で初めて聖書の最後の30%に書かれた意味が実態が、神の意図している通りに浮かび上がって来るのです。

 

続く