聖書を書いてある意味通りに把握する 神の言葉を曲解歪曲してはならない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に書かれている真実な内容を塗り替えて、2000年前に

初めて福音、救いが登場し人に与えられ伝えられ、初めて聖霊が人の内側に住まう様になり、古い仮の教えは2000年以降破棄されたと解説されてしまっています。この様な聖書に記されている事実とは異なる伝説、宗教神学の教えが、神の言葉の事実を覆い隠してしまっています。

 

神の言葉、教え、救い、福音は最初から永遠の中から変化進化しない同じものである!草は枯れ花はしぼむ。しかし神の言葉は

永遠に固く立つと言う聖書に書かれている大前提の事実からだけ神の言葉を読まない場合には、人の創作した神の言葉が

変形する!と言う前提の仮説、人の教えがどこまでも編み出され続け何千と言う人の教えが出現してしまい後を絶たない事になっているのです。

トリックは2つ別の教え、別の種類の救いの手段方法が時代を

経て存在出現したと本気で信じている事なのです。又は人種別に違う教え、異邦人には関係ない教え=モーセの五書、神の言葉が

2000年前に破棄され無効になったなどと解説している。

聖書を旧新と言う2つのタイトルで区分仕分けし、あたかも最初の部分の70%に書いてある神の言葉と福音書以降の教えとでは別物である、別の教えが記されているのだと言う人の教えにより錯覚を起こさせられてしまっている問題があるのです。

そしてモーセの五書、特にレビ記を読む前提が最初から全くずれているのです。

なぜなら、動物の血は罪を消さない!!!仮の赦しのために動物のコバンがあるのではない事がはっきり最初から神の口から伝えられその言葉が聖書に記されているのに、西洋宗教の教えは、

2000年以前は動物の血による仮の許しが与えられていた、

2000年以降は初めてメシアの贖いの業を通して本物の救いが与えられたと言う変化球の教を唱えているからです。

その様な神が解説している聖書の事実、真実ではない、人の肉の目から見る発想の教えを通して聖書を読んでしまっているから

聖書に書いてある内容を誤解して受け取り続けてしまうのです。

動物の血は罪の仮の赦しのためではない!!!と言う大前提が

あるのです。では何のために動物が捧げられるの?と言うことを神が解説する教えから理解しないとならないのです。

神の神殿、天にある神の家のレプリカの意味、現実を地上で

そっくりそのまま反映する意味を理解する必要があるのです。

あなたがたは地の塩、世の光と言う内容と繋がるものです。

 

地上の神の家は何のためにあり、なぜその中でコバン=

生贄と訳される=近くと言う意味の捧げ物がされているのか?

と言う事が見えれば理解できます。

天の現実、神が創造された神の似姿の子らの生き方、天の現実を

地上で正確に反映させ生きる、鏡の役割があるからです。

そして更に地上の神の家エルサレムの神殿、そしてそれ以前は

移動式神の神殿を通して、神の子らの個人、家族としての神のデザイン通りの生き方を教えられている場所、そしてイエシュアがされた業の意味をコバンや神殿の中の出来事、シャバット、

新月、祭りを通して教えられていた、実体験型教育ツールなのです。

しかも考えたら分かるのです。古代飛行機や電車や車の無い時代

エルサレムの神殿周辺に住んでいない人達は、都上りの祭り以外エルサレムに徒歩で旅するなんて容易に出来ません。

神殿で日常の生活を過ごす事が出来た人達はエルサレムの神殿に無理なく歩いて行ける距離に住んでいた人達に限られてしまうでしょう。そうすると、その太古の地上の世界でたったの0.000000001%の人達だけ限定で仮の罪の許しがあったと言う事になってしまい、世界の中でほんのゴクゴク極少数の人だけに与えられた助けや救済策しか存在しなかったとなってしまいます。

ユダヤ人でさえもエルサレムの神殿に行く事が出来ない人達

生涯動物を捧げる機会を得ない人もいたのです。

そうすると、2000年前は動物の血で仮の許しがあったと言う

教えは全く成り立たない事実なのです。これこそがイスラエルの神像とは異なるある時期まで特別な人だけ助け、後の人類は放置する神であるなどと言う偽のイスラエルの神像を世界へ伝え続けてしまっている思想なのです。

神はいつの時も共におられる神で信仰により同じ様に救い=

イエシュアを受け取る人の内側に住まっており、同じ助け、

許し、力を与えて下さるこれは時代により変化進化などしないのです。イスラエルの神を誤解していては聖書の正しい理解は始まらない。。神は人を放置し捨てておかない方だからです。

実際に動物を捧げなくても、神の前でどの時代の人も永遠の中にあるイエシュアを通して父と繋がる、神の中に取り戻され

修復され、癒される術を与えられていた事は、トラーや預言書

諸書、特に詩篇や箴言などを読んだら明らかに理解出来るのです。ダビデも同じイエシュアにより許しを得て修復を得てドロ

ドロのズレ=的外れ=罪の縄目から贖い出され解放され癒され、

明るくなり力づけられ賛美している下りがたくさん記されています。聖書に登場する人物が限られているからと言ってこれも特別な人だけ聖霊が内側に住んでいたなどと言う創作の教えを解説してはならないのです。

同じイエシュア=救いは1つしかない、人が神の前に修復される

方法はどの時代のどの人種も同じ方法=イエシュア=1つの方法を通してしか存在しないと言う神が伝える事実に気が付けば見えてきます。

それを異邦人の世界では別の福音別の救い、別の方法などと語るので神が伝える真実が覆い隠されてしまっているのです。

大体タナック〜トラー、預言書、諸書と、福音書〜黙示録に書いてある教えや内容が異なる!と信じ込んでいるなら、聖書に書かれた事実ははっきりとは見えなくなるのです。

神の教えは永遠不変で、同じ教えしか聖書に記されてはいないからです。

昇天以降も変わらずに、使徒2章のシャヴオートの祭りでも変わらずに、動物のコバンが捧げられ祭りが祝われていたのです。

使徒2章以降も神殿が70ADにローマ帝国により崩壊する時迄神殿がエルサレムに存在している限り昇天以前も以降も神殿では変わらずに動物が捧げられ、同じ様に神殿は機能していたと言う事実を考えてみると理解出来ると思います。イエシュアが昇天されたから神殿での教えは全て終了ではないからです。今は神殿が存在しないからそれらが行われないだけで、再びイエシュアが地上に戻り、エルサレムから世界を統治する時が来たら再び神殿は同じ機能をし、そこでコバンが捧げられる事実が聖書には記されています。

神の教えは最初から永遠に同じ!と言う事実、聖書に書かれた神の言葉で解説されている永遠不変のイエシュア=救い、同じ福音であると言う事実を把握しないと真実は見えないのです。

部分的真実、半分事実、半分嘘それが神が伝えている真実を見る事を妨害する曲者なのです。

救い=イエシュア、道は1つと言うなら、その意味を聖書から

正しく理解する必要があります。神は永遠不変、神の言葉も永遠不変と言うならそれはどう言う事実を神の言葉が意味しているのか、知らないとならないのです。1つの道=救い=イエシュアは2つ別物にはならないからです。永遠に同じ救い=イエシュア。

イエシュアが教えた教えは100%父の教えです。

父の教えと書いてある意味は100%父の教え=モーセの五書、トラーに書かれた教えの事です。これを多くの場合勘違いし、

イエシュアが今まで人が聞いたことのない別の新しい教え、

モーセの五書とは異なる教えを教えているなどと誤解した解説がされてしまっています。聖書に記されている内容を逸脱し、
ヘブライ人の世界を理解しないなら、聖書の内容は歪曲し、
別の教えに変身させてしまうのです。
 
人が聞いたことのないトラーとは違う教えをイエシュアが解説
したのではなく、当時の人達=ラビや賢人が伝えるトラーとは
違う教え、解説とイエシュアが伝えた教えは天直送のトラーの
真実を解説したから、伝統の教えに固執する頭の固いリーダー達はイエシュアの聞きなれない解説を煙たがり、伝統の教え=律法の行いと呼ばれる人の教えに反しているから、イエシュアに挑戦しかけて来たのです。今も同じです。
自分が聞きなれない教えを言われたら、それが神の言葉の真実であるのにも関わらず、猛反対ブーイングの嵐を仕掛けられるのです。同じです。自分が理解していない、理解出来ない、聞きなれない内容イコール異物の教えだ!などと早合点し誤解し、聖書とは違う別の教えである!と考えてしまうからです。
聖書とは違うのではなく、人が創作した聞きなれた定番の解説とは違う!と言うだけです。
大事な事は自分はもしかして真実ではない事を真実であると信じてるのかもしれない、その可能性は誰にでもあると言う思考回路が必要だと思います。だから常に聖書だけに戻り書いてある通りを探る必要があるのです。伝統の教えに固執するばかりに目の前に記されている神の言葉の事実を全く素通りしたり無視したりする事をしているからです。そして考えない、疑問にも思わない。矛盾を矛盾とも思わないと言う危険が潜んでいるのです。
 
この下りも神の祭りの時期、秋の仮庵の祭りを祝っている最中の
出来事なのです。西洋宗教の祭りは聖書に書かれた祭りとは
異なる、人の創作した祭りではなく、神が創造した祭りを祝っている事が書かれている箇所です。
聖書に書かれている内容だけを辿れば、100%1世紀の信者
たちも太古の人達と同じく皆、モーセの五書を生きて、神の創造した記念日を生きていた事実が記されている事を発見出来ます。
人の教えを通して考えると聖書に書いてある内容事実が目の前に書いてあるのに見えなくなってしまいます。この箇所はよく知っているさと考えている、でもその様に考えないで初めて読むが如くに書いてある通りを聖霊に目を開いて頂いて真実を把握すると言う努力は常に必要なのです。神の言葉の真実を受け取らない頑な頭脳は固い大地のごとく、神の言葉=種が植わり成長する土壌ではない、神の言葉が正しく根を張る妨げになってしまうからです。
ヨハネ7:14 祭=仮庵の祭りも半ばになってから、イエスは宮に
上って教え始められた。
15 すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうしてトラーの知識をもっているのだろう」。

7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教は

わたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教で

ある。

7:17 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、

わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、

わたし自身から出たものか、わかるであろう。

7:18 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、

自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、

その人の内には偽りがない。

7:19 モーセはあなたがたにトラーを与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、そのトラーを行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。

 

当時のあるユダヤ人達がどうしてイエシュアの語る内容に違和感感じたのか理由があるのです。今の世界でも分かる様に、一般に

教えられて来た伝統の教え=人が編み出した教えや解説にどっぷり浸かり続けている場合、聖書=神の言葉を書いてある内容通りを正しく直接聞かされることがないなら、例えば神の言葉は変化しない!と書いてあるのに、変化する!と教えられ、そう信じる人達には異物の教えだと認識されてしまうのです。それと同じです。当時のラビ達、賢人達が伝統で語り継いで来た教え、彼らが編み出した彼らの考えである教え、それをパウロも”律法の行い教え”と解説しているのですが、それらはモーセの五書=トラーとは異なる人が解釈して編み出した様々な教えや行いに付いて

パウロは語っているのです。

 

 

続く