エルサレムでシャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエル🇮🇱最後のシャバットはエルサレムで過ごしています。

 

暑さで昼間は余り行動したくない時間帯ですが、昨日は旧市街

神殿の壁まで行ってみました。この暑さは灼熱と言う言葉が

ぴったりで、水が無いと危ないです。

 

シャバットを迎えるので旧市街の中のショッピングセンターも

4時位には閉まり始めました。

今回のイスラエル滞在は振り返ると色々有りましたが、益々自分が把握している世界は本当に本当に少なくて、知らない事だらけであると言う事が分かります。

そして、それぞれが自分の中にある思考回路を通してだけ考えていると言う事、だから何かを知っているなどと思わないで、

知らない世界、まだ見えていない世界が常にあると考える事は

本当に大事だと思いました。

そして、ある真実は把握していても、ある分野では完全に偽情報を信じていると言う事もあり得るのです。

 

世界の中の闇や悪が様々な事を通して表面化しているこの時代

嘘と誠を見分ける識別力は、神の言葉を正しく理解する事、

そして正しい情報と偽情報を見分ける事、柔軟〜真実を受け入れる良い地=思考回路、態度が必要なのです。それには正確で丹念なリサーチが必要であると思います。それ無しに、全ては自分

よがりの思想、考えであり真実ではない事の中で考え続けると

言う事をしてしまうからです。

 

聖書に書かれた神が選び出した人物、彼らの人生に起きた出来事を通して様々な事を神が人に教えている事が分かります。

 

聖書に出てくる出来事は、歴史の中で起きた事なのですが、

聖書に記されている事は全て神が意図的に選択し、神の目から

見て重要な出来事、それらの人に起きた事を神の言葉、教えとして記しています。特にモーセの五書に記されている出来事は、

親子代々で並行して同じ出来事を繰り返している事を見る事が出来ます。同じ教訓を神が人へ伝えています。

 

どの出来事も根本的な共通点があります。

人類全ての人はもれなく、神の中、家、自分の本来の居場所、

創造主から離れて飛び出た事。そしてどの様に修復に向かうのか?と言う事です。

エデンから出て、エデンに戻る、その過程を人類歴史を通して、

個人個人の人生の出来事を通して、神が修復の道を教えている事

です。

エデン=喜び=神の中から飛び出た結果は、本来の性質から離れた生き方を学習してしまう結果を生み出しました。人は理屈抜きに最初から1人の人から創造されていて、全ての人が一人の人=アダムと繋がり1体である事実が聖書に書かれています。

だから、アダムとエバの犯したズレ、失敗、罪が全世界の人類

全てに行き渡り、彼らのした出来事から罪が全ての人に浸透し

全ての人が神から離れると言う事実を負ってしまったのです

同時に一人の人〜イエシュアを通して全ての人が回復を得る道、

救済策を与えられているのです。この救済策は、永遠の中から

存在し、同じイエシュア=救いの事実、実態が最初から与えられ

それは時代ごとに変化するものでは無いのです。

人の創作する教えは、神が伝える永遠不変の救済策を塗り替えるものなのです。どの時代のどの人種も、性別、職業、立場に関係なく等しく同じ救い=イエシュアが与えられている、イエシュア

を通して以外の救済策はないから、誰一人イエシュアを通してでなければ誰も父の元=元の場所に戻る事は出来ない!と宣言しているイエシュアの言葉の方が人が編み出した神学より真実なのです。人の考えついた教えは神の教えに匹敵しないのです。

人の教えと神の教えの違いに、聖書の記述から気が付くという事は聖霊が神の言葉の真実をその人に教えている事なのです。

聖霊=言葉=神=メムラ=イエシュアであると書いてあるからです。

誰か一人の行動が善でも悪でも影響を与える事を誰でも体験上

知っています。神のデザイン、性質以外を生きる時にこれらは

悪=ズレを生じ人の中に歪みや破壊をもたらすから、これらを

する場合に、その毒素=悪は民から絶たれなければならない=蚊帳の外に追い出されますと書いてあるのは納得行く事です。

 

ズレを容認して放置するとは、羊の囲いの中に狼を入れる事と

同じ事だからです。今の世界は、神のデザインを塗り替えやりたい放題、その人の考えに従ってやれば良いと教えます。

イエシュアを信じる人でさえ、神の言葉ではなく、その人が考える事を選択して良いなどと教えていますが、その様な教えは聖書ではないといち早く気が付く方が安全です。

 

具体的にはどんな事?分かりやすい所では、今はどの日も安息日と言う教えがありますが、そんな教えは聖書にはありません。

安息日とは神が指定している聖別された日であり、第七日目以外は普通の日と書かれています。神の言葉は曲げたのは、2世紀以降に出現した西洋教父たちの教え、モーセの五書、反ユダヤ思想の人達が編み出した教えである!と言う事実に気が付けば良いのです。人の教えが神の教えと考える時点で、騙しに合ってしまう

危険があるのです。人の編み出した伝統で語り継がれている教えと神の教えを区別しないとならないのです。神の言葉が変更、

今は無用と言う類の教え全ては神から出たものではない偽物の教えであるとまず気が付けば良いのです。自分は神の教えを生きるのか、それとも人の教えを伝統として生きるのか?それは個人個人神の前の選択であり、誰も口出し、人に命令など出来ない領域です。神の前に個人が神の教え、言葉を聞くと言う事をすれば、

神の言葉から回答を得るからです。神の伝えた通りを聞いて生きるのか、それとも神の言葉を無視して違う事を生きるのか?それは完全にその人個人の選択なのです。

でも神が言ってもいないことをあたかも神が言った、神が神の

言葉を変更したと言う事を言う場合、命に匹敵する重さのズレであると書いてある事に気が付かないと危険です。

 

今朝朝食を作る時に沢山のトマトが冷蔵庫にあるので使ってと

言われて開けてたらあるものは腐りかけていました。

腐ったもの隣にあるトマトも同様に腐敗が進みます。それらを

まず全部取り除き捨てました。

それと全く同じで誰かの犯すズレは必ず周りに悪影響を与えてしまう、だからそれらをしてはならないと言う事は明らかです。

 

イスラエルが荒野で40年もの時間を要したと言う事は、

それほど長い年月をかけて、歴史の中で人類の中に浸透してしまったズレた思考回路、ズレた行動、歪みや歪みや傷を修復する、

新しくされた人として再学習するには必要な時間であったと言う事、それでもなお最初の世代は、神の目から見る事を学習しないまま荒野で死に絶えて約束の地には入れなかったとあります。

 

荒野自体、本当は神の地であるのです。でもそこに定住する事は

出来ないと言う事です。定住〜本来の生き方に根付く生き方と

そしてその場所にたどり着く必要があったそれが荒野の旅だった

のです。新しくされた人の頭脳で、聖別された神の国を生きる、

これが神の意図した事だからです。ズレた状態で聖別された場所=神の国に生きる事は出来ないからです。

 

個人の人生を振り返っても、どれほど学習に時間がかかるのだろう、なんで何も変わらない時間を長々と過ごして来たのか?と

考えると思うのです。でも同時に神の言葉に根付き生きると決めて、それを実践し続ける場合には、神が伝える通り自分の中に

約束の地、頭脳が神の思索に沿った生き方を学習すると言う事実が書いてあるのです。救われても自動的に変化しない!と言う事実があるのです。だからあなたは命を選びなさい!と神が言われたのです。荒野を生きたイスラエルと少数の異邦人の人生の出来事でもその事が書かれているのです。自動的に奇跡のごとく変化すると考えているなら、神の国の共同相続人として生きる事に

参加していない事になります。

 

ずれた生き方は命をもたらさないし、何も生み出さない。

人が人を破壊したり傷つける事は、自分自身を傷つける事である

事に気が付かない。今の世界はそれらが顕著に現れ出て来ている

時代になりました。

地の塩世の光である人はどの様な生き方をするのか、神が神の

言葉の中ではっきりと教えて下さっています。

神の言葉を神が伝える通りを正しく把握して実際に生きて世界へ

地の塩世の光として生きる事、これは神の子らに与えられた

光栄なる実態であると思います。神の性質に沿った生き方ほど

麗しく美しく命をもたらす生き方はないからです。

 

ヘブライ語を見ても、礼拝とは、日々の仕事の全てなのです。

賛美したり踊ったり、それは主への愛の表現でもありますが

それだけでを礼拝と言うのではないのです。人の生きる全て、

それが礼拝と書かれています。

礼拝に繋がる言葉で、奴隷、使用人、主に仕える者とあります。

人の生き方により、奴隷にもなれば、主の前に主の意図通りを

生きる神の子らの状態になる、分かれ目があるのです。

 

仕事と言えば社会的に目立つ仕事も様々にありますが、それぞれがする全ての事、どれを取っても何をしていても神の意図通りにする事、それらが本当の礼拝であると書かれています。

祈りも、神のみ旨通りに照らし合わせる軌道修正の行動なのです。

日々の雑用、仕事、労働は神の前には全てが礼拝なのです。

掃除したり洗濯したり子供の世話をしたり、社会から何も評価も

価値や値段も付けられない労働も、等しく神の前には尊い礼拝で

あると考えるなら、いい加減な生き方は出来ないと思うのです。

 

与えられた時間、与えられた仕事、それが何であれ、それらを

ちゃんとする事。心を尽くし、思いを尽くし、主なる神を愛すとある言葉は、自分の全存在〜ネフィッシュ、全ての要素を持って、神が創造された自分のエッセンス通りに生きよと言っている事がヘブライ語では見えます。

いい加減な仕事をする人、丁寧な仕事をする人、その仕事の中身でもその人の態度、生き方が見えるからです。

そしてきちんと忠実に仕事をこなす人が信頼できるから、責任を託そうと思うでしょう。

小さい事に忠実な人とある通りの生き方をする。

フル活用と言う言葉がありますが、自分に与えられた事をフルに

生きれる事、それは喜びの源泉に繋がる事でもあります。

それがたとえ金銭の値段で評価されなくても、神の前には神の

意図通りであると言う事なのです。

 

 

 

嘆きの壁。シャバット前でも多くの人が居ました。

 

エルサレム周辺はこんな感じの場所です。

 

 

 

 

 

シャバット。早めにスタートしました。楽しいひと時でした。

image