パウロの書簡を正しく理解するためにパウロが100%タナックを語っている事実を把握する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

変化する神、怒りの神、恵の神、怒りの時代、恵の時代
中国の秘儀、変面のごとく神は時代ごとに人相や気性、性質を変え、神の教えや義の基準がコロコロ変わると主張する異邦人創作の思想は、神が神の言葉で伝える神の性質、神の言葉の性質〜

永遠不変、神は移りゆく影や変化が無いと伝える、永遠から永遠に常に恵みに富み、許しに富み、憐れみ深く、愛に満ちていると神が紹介する性質とは異なる教えをしています。

 

聖書の中に書かれた細かい事は全て理解出来なくても、少なくとも神が伝える神の性質、神の言葉の性質=移りゆく影はない、

変化しない!!!と言う神が伝えている事実から絶対に逸れないで聖書を読めば、神が人類に伝え続けている永遠不変の真理、

真実が掴める様になります。

一番大きな誤解は、2000年前にイエシュアが地上に肉体を

取って来られるまでは、全てが仮の教え、仮の生贄が与えられて辛うじて仮の赦しを得ていた、果ては2000年前の人達は

皆救いが与えられておらず地獄に落ちた、2000年前の人達には特別な人にしか聖霊は与えられていない、住まわなかったと

言う様々な思想、別の福音が語れています。道は1つ、救いの

方法は1つ、常にどの時代もどの人種も同じ、イエシュアは永遠から永遠に時空に妨げられるに存在し、タナックの中でも実際に神の臨在が地上にあり、イエシュアが人に直接現れた事が至る所に記されています。

非聖書的教えの全ては人が創作した、肉の目から見た思想であり聖書=タナックそして福音書以降にに記されている神が人に伝える事実ではありません。

預言者達が神から託された教えをタナックの中で記しています。

人の生きる必要の全ての詳細がタナックの中には書かれているのです。神の教えを捨てたら実際に何を生きるのか分からなくなります。1世紀の人達、福音書以降を記した人達は、100%

タナックのみを指して語り、トラーとは異なる新しい別の教えなど福音書以降のどこにも書き足してなどいませんし、福音書以降を書いた聖書記者、使徒やパウロはそれらの書を互いに交換し合い、読みあってもいない、パウロは福音書も読んでなどいないのです。

どの時代の人でも聖書の中に記されている事、預言者達が理解していた通りに理解していた人、いない人それぞれ個人により差があるのです。皆が皆同じレベル、同じ度合い、深さで全て共通して理解していたのではないのです。ある事実は明らかに皆が理解していた、ある事実、奥義は理解する人はしていたのです。使徒達もイエシュアの最初の到来を、タナックに書かれた通り、敵の国の支配から救い出し、エルサレムから世界をイエシュアが統治して下さるのかと考えていたから、以下の様な質問をしたのです。

ローマの最高刑で木にかけられ処刑されて、死に葬られた後、

復活のイエシュアが過越の祭の後、シャヴオートの祭までの

穂を数える7週の間、復活したイエシュアが弟子達に何度も現れ出て様々に話し合っている、その時に以下の様な質問を弟子達がしていたのです。イエシュアが世界を今から統治して下さるのかと考えるのは当然、復活のイエシュアが弟子達に現れて下さったからです。

使徒1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、

この時なのですか」。

1:7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。

 

1世紀のユダヤ人はイスラエルの国を復興し、メシアがエルサレムから世界を統治する未来をタナックから知っていたから、使徒達もその様にイエシュアの最初の地上の到来を考えていたのです。

だから、イエシュアが罪のために子羊の血で表されるイエシュア

の流された贖いの血の事実が最初にまず地上でされる事をはっきりとは捉えていなかった事実が、イエシュアが処刑された過越の祭の一連でも分かるのです。ある人は理解していた、ある人は

タナックに記された内容をはっきり理解していない。

タナックに書かれた内容を1世紀当時の使徒達もある部分は、ぼやけたまま、はっきりとよく理解していなかったと言う事です。

 

聖書に書いてある内容、タナックには、選び出された人の人生を

通して、ストーリー形式で語られています。そのテーマ、教訓、彼らイスラエルの辿った内容はずっと同じです。神が人に伝える教え=言葉=トラー=モーセの五書に書かれた生き方からズレて、刈り取るべき結末、訓練を通る。

そして、又悔い改めて神の教え=性質を生きる事に戻るが、

又ずれて同じ事を繰り返す、この繰り返しが書いてあります。

異邦人クリスチャンの聖書解釈、解説は、神の言葉は厳しすぎて人が生きられる様なものではなかった!呪いの律法は、イスラエルに与えられ、どれほど人間がズレていて神の教えを生きられないか試す見せしめに与えられたものである、だからイエシュアを2000年前に送り、これら全ての厳しい掟と、そして完全なる罪の赦しを与えて、2000年以降は、これら神の教えを生きる必要がなくなった、又は自分の判断で意見で選んでも良いと解説します。とんでもなく逸脱した思考回路、人間至上主義、神を横へ追いやり自分の感覚、意見、悟りに頼れ!と教えている事に気が付かないと危険です。イシュアが来られるまで動物の生贄で

かろうじて許されていたが、イエシュア到来後、完全なる生贄が捧げられたのでそれらは全て終了し、罪を告白するだけで

許されるといます。

よくよく考えてみれば見えます。2000年前以前、エルサレムの神殿でコバン=近く〜動物を捧げられたのはエルサレムの

神殿周辺に住む人達です。祭りで年3回エルサレムに上って来る人達のみです。では他の人は同じ救い、贖いを受け取っていなかったのでしょうか?そうではないのです。エルサレムの神殿は

神の家!人間の生き方を教える世界の中心であるモデルハウスです。天の神の国のレプリカ、地上で神の国、家、神の家族がどう生きるか体験的に実践し教える教育ツール、神の国実際体験の場所であるのです。そして、イエシュア昇天以降、神殿が存在する70ADまで、何も変わらず、同じく動物が捧げられ、神殿の中は同じ様に機能していたのです。使徒2章のシャヴオートを祝ったと言う意味は、祭りの時に神殿で動物が同じ様に捧げられていたのです。パウロも神殿で動物を捧げナジル人の請願をし、モーセの五書に100%忠実に生きている証明をしている事が全く

辻褄合わなくなるのです。使徒21章。

それ以降、使徒に書かれている除酵祭り=過越=種無しパンを

祝った記録が書かれ、パウロの書簡にも書かれています。

祭りを祝う、エルサレムの神殿で変わらずに動物が屠られ、

BBQされ皆でそれを食している事実があるのです。

 

今それがされないのは、70AD以降神殿がエルサレムに無いからであり、未来に第三神殿が建てられ、イエシュアがご自分の家=神の宮から世界を統治する日が来たら、世界中が同じ様にエルサレムの神殿で神の祭りを祝う!その時にはコバン=動物が屠られBBQされるのです。ゼカリヤ14章。

動物の血は罪を消さないと最初からはっきり書いてあるのです。

動物の血は罪の仮の赦しのためではないからです。

動物が神の祭壇で捧げられるのは、イエシュアがされた業を

実際に体験し、学ぶ事、イエシュアのされた業、そして神の前で

どの様に修復し、関係を回復し、自分本来の自己像を神の目から

見る通り見る、それら全て癒しのプロセスの内容を教えているものであるのです。当時も今も、赦しはイエシュアの完了の業以外

を通して与えられるものではない、動物の血を通して与えられるものではない!と言う永遠の事実を聖書から把握すれば見えます。

考えたら分かりますが、実際に自分が動物、子羊や鳩、その他の

動物を自分の手で屠ったら、自分のズレのための命の代償がどんなに大きいものか実体験するでしょう。暴れる動物を祭司と共に抑えて屠り、動物の鳴き声を聞いたら、むやみやたらにずれて生きる事を本当に金輪際絶対にやめよう!と決意し考えると思うのです。自分のズレが自分自身に周りにどんな影響を与えるか、

はっきり考え始めるからです。そのズレを直す、修正する。

キッザニアの様に職業体験施設、実際に神の家でイエシュアの

された業を体験し、学ぶ。五感を通して学ぶ、学んだら学んだ事

から離れずに生きる、それが神殿でされていたのです。

 

神の伝える純粋な言葉=教えとずれる、神の言葉を変えると、どんな教えにでも変形可能になってしまうのです。2014年に起きた人災ともう言うべき事故、セオール号の船長がある宗教に

入っていた事が大きく取り上げられました。

キリスト教福音浸礼会=クウォンパと言う宗教だそうですが、

その中に、この様な教えがあるそうです。

 

悔い改めを繰り返すのは救われていない証拠であり、悔い改める必要はない。律法は完全に撤廃されたので、盗み、強盗、殺人、姦淫なども罪に問われないと言うそうです。

 

この様な意識が異邦人クリスチャンの中にもあると思います。

神の教えがほぼ撤廃、破棄されたと同じく主張しているからです。

もちろん普通一般の常識、倫理観、道徳観念、良心の自覚があれば、盗み、強盗殺人、姦淫は罪と考えられると思いますが、

ある意味、罪を犯しても免罪符=許されて帳消しになるからOKさと考える意識がどこかに潜んでいるのです。

しかも、道徳的な事とは違う、神の宮である人達の聖別された

生き方は、普通の感覚や、良心では知りえない内容なのです。

聖別の定義の詳細はレビ記に記されているのです。それらを

正しく把握し理解しないなら、自分勝手な聖別になるのです。

場所、自分の聖別と時に対する聖別がレビ記の中に書かれています。神の言葉=モーセの五書=トラー以外で聖別の全貌の詳細を知る方法はありません。神の言葉で解説する聖別を知らない場合

自ら定義した方法で聖別してもそれは神の前の聖別=神の目的通りに分かたれた生き方ではないのです。

そして聖別を汚す事ほど神が忌み嫌い、イスラエルが異教の地へ

追いやられた一番の理由でもある、それに気が付いたら神の教えを捨てる事、神が伝える警告、ズレた生き方が何か普通の知識や自分の悟り考えでは知りえない内容がある!と言う事実があるのです。神が伝える事、神の教え、言葉を捨てる代償=知らない

間に自分に対して汚れ、神の前に腐敗を取り入れて生きていても

全く気が付けないと言う代償=神の子らの性質、姿を失う!と言う事です。

赦しはあっても、刈り取りべき代償は残されます。普通の社会で罪を犯したら、罪の償いがあ理、実際に刑務所に入る、刑を受けて最高刑までも受ける事が可能です。罪に問われなくても、

人間関係は破綻します。人に与えた傷や損害、そして関係の回復

社会的信頼を失ってしまう、とても困難な事になる事は普通に

考えたら分かる事です。

神のトラーが撤廃になったと言う教えは、これほど逸脱しなくとも同じ危険な路線に乗っている事に気がつかないとならないのです。

今の時代、神の創造のデザインから外れた自由選択を世界は主張し、それが堂々と当然のごとく、罪ともやましいとも感じない

ほど当たり前に世間では受け取られ、それらに反対する人達が

偏見を持つ、人を差別するのであると非難される様になってしまいました。終わりの時代、ソドムとゴモラ、ノアの時代で表される時代に突入した本当の原因は最初から同じです。

エデンの園であった出来事=神の言葉に嘘の教えを混ぜてエバの

耳に吹き込んで、そしてエバはそれをアダムに伝え、アダムは

神の言葉からずれた教えを正し、エバを本来の場所=神の声、

言葉だけを聞く意識に戻さなくてはならなかったのに、それを

怠り、もしかしたら〜神は本当の事を隠して知らせてくれず、

これをしたらもっと良い事が起こる、神の様になれる〜実際に

アダムとエバは神の性質通りに造られていたのに、蛇に騙されて

もっと付け足してやらなくてはならない!宗教で教える教えの様に余計な行動、ずれた行動に駆り立てて、人類の中に死をもたらしてしまったのです。

 

続く