シャヴオート 使徒2章以上に大きな出来事だったシナイ山での婚姻契約を受け取る祭り  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャヴオートの祭りは、豊かな収穫を神に感謝する事を意味する祭りでもあります。イスラエルの国を相続として与えた、そして

収穫は、神からの祝福として与えられると言う約束です。

それには、条件があります。神はイスラエルに神の教えを伝えて

たのですが、イスラエルは必ず神の教えに背く事を預言しました。全人類全く同じ、同じ警告なのです。神が難しい教えを

2000年前に終了したなどと言う異邦人創作神学を信じる人には神が人に伝えている永遠不変の教え、人間の生き方など全く

通じなくなってしまっているのです。神の言葉を捨てる行為は

神の思索=考えから離れた場所の中に飛び込む閉じ込められると言う事である事に気が付いたら早いです。神の言葉を捨てる、

聞かない、読まない、知らないなら、神の考えなど分からなくなり、神の教えではなく、自分の悟り、自分の発想、憶測に頼る事になるからです。その様な事が現実に起きているから、世界には

何万と言う無数の非聖書的教えが編み出され続けているのです。

 

申命記30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、

および死と災をあなたの前に置いた。

30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を

愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従う=聞いて生きるならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。

主を愛する=神のトラー=戒め、定め、おきてとを守ると書いてあるのです。イスラエルに住まないから関係無い教え!と言う人はイエシュアとも何も関係が無い!神の国とも関係無い、異邦人でも同じイスラエルの神の国の一員として加えられ、地上の

諸外国に住まっている天の祭司であると言う現実を全く自覚せず自分には関係無いイスラエルの神の教えさ〜と言う事を言って

いる事に気が付けば良いのです。天の祭司が神の教え=トラーを捨てたらどの様に祭司の役割を、神の国を治めるのか分からないまま自分の勝手気ままに振舞ってしまう事になるのです。

イエシュアが教えられたのは、この父の言葉=トラー=モーセの五書のみであり、トラーとは違う別の新しい教えなどイエシュアは教えたりしませんでした。

聖書にはトラーとは違う別の教えなど1つも書いてないのです。その事実から考えて聖書の真理の中だけに留まり考えたら永遠不変の神の言葉の意味を聖霊が解き明かし、教えて下さいます。>

 

30:17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、

30:18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは

必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって

行って取る地でながく命を保つことができないであろう。

30:19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する

証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。

 

命=神の教え=トラーに書かれた神が創造された人の性質を生きる!それが神の命に繋がること、そして死=神の伝える教えとは

異なる教えを生きること、神との隔たり=神との関係が薄れる、希薄になる、離れて死んだ場所に飛び込む、死を招くと書いて

あるのです。

シャヴオートの祭の2つ目の意味は、”初穂”を捧げると言う事です。初穂=神に属する者、収穫物の初穂と長子は全て主に属している事を意味します。私達、イエシュアの血=子羊の血で贖い出された人達は、イスラエルの神に属しているのです。神が私達の

所有者である事を表しているのです。初穂=イエシュア=長子に連なり、そしてこの初穂に次々これからも多くの人達が加えられる印でもあるのがこの収穫物=初穂を捧げる意味があるものなのです。長子と初穂は神に捧げられるものなのです。神殿がある時は、エルサレムに上って来る人達はカゴの中に収穫物を入れました。麦の初穂と果物の初物を取り置いておき、カゴに入れて都上りの祭りでエルサレムの神殿に向かったのです。

神がイスラエルと言う国を地上で神の国を表す場所、神の性質を

生きる人達を代表する、世界へ示す場所として選ばれました。

イスラエルに住む人達は神の国の実態を決して汚してはならない

と言う重い責任があるのです。世界へ神の性質を生きて表す代表者として神に選ばれたからです。これを大分失敗し続けて来た

歴史があるのですが。異邦人も同じイスラエルの神に贖われ買い取られた人は、同じイスラエルの相続人であり、同じ契約に加えられた同じイスラエルの神の家族である事をパウロも説明しています。エペソ2:11−13

イスラエルの国と言う相続と、そして収穫物=祝福を約束している事を祝う祭りでもあります。そして、初穂にもっともっと収穫が加えられ続けると言う約束でもあります。

そして、過越では種無しパンを祝いました。でもシャヴオートでは今度、パン種を入れた最上の小麦で作ったパンを捧げるのです。この意味は、パン種=イエシュアの性質=初穂=最上の小麦

に入られた、新しくされた人を表しているのです。

パン種が入ったパンが捧げられるのはシャヴオートの祭の時だけです。そして、3番目のこの祭の意味は、イスラエルの神から

文字で記された婚姻契約を渡された事を祝うものなのです。

文字で記された永遠不変の証拠=神のものとなった人達の生き方婚姻契約書が渡された記念日です。

神は人へ、口頭だけではなく、文字で記された契約=言葉、教えを与えて下さいました。エデンの園から同じ神の教えが口頭で

伝えられて来た神の教え、約束、神の救済策、それが人類初、

神ご自身が文字で書かれた契約書を与えたのです。

神との関係にある永遠不変の保証がその中に書かれています。

 

今の様に聖書に書いてある記述さえ翻訳の中で曲げられて解説されているのに、もし口頭伝達だけで、神はこれこれと言ったと

誰かから言われても、照らし合わせる確かな証拠など存在しなければ、誰かの口から語られた言葉しか存在しないなら、その人が語る言葉が神が伝えた事なのか、嘘か誠か分からないのです。

でも文字で記された確固たる証拠=契約書を神から与えられているのです。神の言葉に照らし合わせて、人が語る教えが嘘か誠か見分ける事が出来るのです。私達は文字で記された神の保証

約束、教えの証拠が無ければ、神が本当は何を人に伝えているのか分からなくなるのです。ヘブライ語で書かれた聖書は神が

ガードし、人が改ざんしたり手を加えられない様に厳重に守られて来ました。歴史の途中、何度も焚書されたりしながら、ずっと神の言葉は守られて来たのです。例え翻訳聖書で、翻訳者の意図

思想により様々な言葉や文章や思想が付け足され、挿入、又は

人の注解訳で神の言葉を曲げても、大元のヘブライ語聖書は、

文字数も書かれている言葉も変わらないまま存在している、

その様な永遠不変の証拠を与えて下さっているのです。

聖書は聖書に対して名前を付けています。トラーの書、証の書と言うヘブライ語の名前です。

異邦人の神の言葉に対する態度とユダヤ人の態度と異なる事は、ユダヤ人は神の言葉に対して、異邦人の様な呪いの律法だ〜

廃れた恵みを捨てた時代錯誤の教えだ〜などと神の言葉に敵対する意識を持たされてなどいません。聖書の最後の部分にはモーセの五書とは違う教えが書かれているとか、神の言葉を捨てよとか

その様な思想自体が聖書では無い!と聖書から気が付かないと

危ないです。神の言葉、教えを捨てよ!神がそんな事いつ言いましたか?聖書のどこにそんな教えが書かれていますか?そんな教えは聖書には書かれていません。それはエデンの園の蛇の声が

出所の教えです。聖書の最初の部分に書いてある教えを知らない場合には、福音書以降にはモーセの五書だけが書かれているとは気が付けないのです。そしてこの事実からだけ考えて下さい。

 

聖書の記者は誰一人、福音書~黙示録を指して語ってなどいない

事実があるのです。どう言う意味か分かりますか?

それぞれが福音書以降の書簡を書いている時は、それらの書簡が

存在している事さえ殆どの人は知らない、気が付いていないのです。一部の書簡を受け取った人達が読んだだけだからです。

そしてそれら使徒達が書いた箇所が聖書と認められたのはずっとずっと何世紀も後の時代であり、そして手書きのコピー〜福音書以降は、一般に広く流通などしていないのです。

16世紀の中世でさえ異邦人の世界ではカトリック僧侶しか聖書など所有していないのです。しかも文盲が普通の時代。ユダヤ人の様にヘブライ語のタナックを口頭で丸暗記している人など一般には異邦人の世界では居なかったからです。ユダヤ人の世界の

タナックの教育は異邦人の世界とはまるで異なります。

先祖代々今に至るまで世界中のどの場所でもずっとタナックを

一年に渡り学び続けているからです。

 

福音書~黙示録を書いた聖書記者には、タナックしか存在していない、そして福音書以降はタナックの短い解説でしかない、

聖書記者は皆100%タナックだけを指して語っている。

この事実をずっと考えれば、聖書記者はタナックを否定する教えなど誰一人としてしていない事実は明らかに分かるはずです。

福音書以降もデイスペンセーション神学の様な教えの色眼鏡で

聖書を読まなければ、聖書記者が100%タナックしか語らない 新しい教え=反モーセの五書の教えなど聖書には実は書かれてなどいないとと言う永遠不変の神の言葉の真実、事実に目覚めます。神の言葉の真実からだけ聖書を読めば創世記~黙示録に書かれた内容は1000%トラーであることが見えて来るはずです。

自分達に与えられた神からの大事な契約書と、愛の証、永遠の

保証!神の言葉に対しての熱意、愛、感謝があるのです。

これは全ての人ではないですが、神の言葉を理解する人、神の

言葉、契約の意味を理解する人達は少なくとも、異邦人の様に

イエシュアを愛すると言いながら一方で神の言葉に敵対する意識を持つと言う大矛盾な思想を持たないのです。

仮庵の祭りをイスラエルで体験した時、祭の最後の日に街の

広場でお祝いがあり参加しました。トラーを持ち出して皆がトラーの巻物を高く掲げて喜び踊り、トラーに触れ、キスをし神に

神の言葉に対する愛情を目一杯表現しているのです。この様な

光景は呪いの律法だ〜それを生きることは恵みを捨てた生き方に戻ることだと信じる異邦人は、なるほど神の言葉に対してその

言葉の通り神の言葉=契約に対して敵対する意識を持つのだから、その様な神の教え、考えを知ろう!と追求する熱い思いや

態度など無いのは当然であると理解出来ます。

聖書のある一部だけ!それが神の言葉!と信じている異邦人の

使徒信条。古い箇所は廃れたと信じている信仰。

でも神は神の言葉の一点一画全て今も有効な永遠不変の神の言葉と教えているのです。この矛盾に気が付けば、異邦人使徒信条、信じている内容と実際に生きている事が聖書に照らし合わせて

矛盾している事に気が付けます。

使徒2章に書かれたシャヴオート以上に電撃的ショッキング

全世界へ向けて大々的に示された事件があったのがシナイ山の

出来事なのです。

過越から7週目のこの時期、シナイ山でモーセと長老70人が

山の上、雲の中に降りて来た天で神と直接顔を合わせて祝宴した記録が書かれています。これはイエシュアと直接会ったことを

示唆しています。

出エジプト 24:10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、

そのの下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡る

おおぞらのようであった。

24:11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。

 

イスラエルの神=足がある!イエシュアです。イエシュアはある

人々に何度も現れている事がタナックには書かれています。

福音は最初から聖書に書かれているのです。2000年前に

初めて救い、贖いが有効になり、初めてイエシュア=救い主が

人々に紹介され、初めて聖霊が人の中に住まう様になったと言う異邦人思想を信じ、聖書を丹念に読まず、探り学ばないなら、

聖書の中に福音が最初から記されている事実には気が付かないのだと思います。

古代のラビ達はタナックにイエシュア=救い主が書かれている事を実によく知っていたのです。知る人、知らない人、それぞれの時代に存在していたのです。全ての人が同等の理解をしていたのでは無いからです。今も同じです。それぞれ人により理解の内容度合いや、信じている内容が違う事でも分かると思います。

 

十把一絡げにこの時代まで神は真実を明かされないから、真実が

知られていないなどと言うデイスペンセーション神学思想で神の言葉を考えたら真相は見えないのです。どの時代でも、神の言葉から神の伝える真理、真相、真実を知っていた人、いない人が

居た、それは個人個人により神の言葉に対する理解が違うだけと言う事です。

 

続く