6月4日土曜日日没 2022年 シャヴオートの祭 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今週の6月4日土曜日の日没は、シャヴオート<ヘブライ語=週>ペンテコステ<ギリシャ語=第50>過越からの7週が終わり

春の最後の祭り=シャヴオートが来ます。聖書に記された神が

紹介している神の記念日に基づき考えれば分かると思いますが、シャヴオート=ペンテコステはレビ記23章に書かれた神の定めた記念日、三大都上りの祭りの1つです。

 

神の祭りは全部でワンセットであり、全ての祭りの中心はシャバットなのです。神の時は7を中心に創造されているのです。

一週間に一度の第七日目を祝い生きて、新月、春と秋の祭を祝い一年を巡る、それが神が聖別した時、神が聖別した人たちは神の聖別した記念日=時を生きる様にデザインして創造しているのです。

祭りの日の始まりと終わりの日は、曜日に関わらずシャバットとして止まり、祝う。神が呼び出した記念日に普段の仕事や学業、作業の手を止めて、神が呼び出した目的通り神の前に神の

子らは集まり、祝う。神の目的通りに分かたれた生き方=それが

聖別の神が人に伝える定義なのです。イスラエルの国以外の、

異教の地に住む場合、その祭の日が休みではないかもしれない。

でもその日がなんの日か、そしてその日の中で止まって祝う事は

出来ます。今回のシャブオートは土曜日の日没ですから、休みの

場合が大多数だと思います。

 

神が伝える神の暦=時=神の記念日では無い日に自ら聖別して

それを聖日、主日と呼んでも神はその様にそれらの日を聖別し

名付けてなどいないのが事実です。神が指定した聖別した日、

それ以外は普段の日であり、神が神の子らを呼び出してなどいない普通の日、労働、活動日神の聖別された日ではない事実は

永遠に変わらないのです。人の理由付けやゴリ押しで神の創造

された聖別された記念日は変更しないからです。

そこには神が意図している現実は存在しないし、神の目的通りの

会見も実際にも存在しないのです。勝手にやって良いよ、自分の大事だと思う日を記念日にしなさいとパウロが言ったと誤解していたら、神が人に伝える永遠不変の真実は永遠に伝わらないまま、祝福、宝を奪われてしまっていても気が付けないままになります。

神の記念日をどれか一つだけ取り出して自分の考えに従いランダムに祝うと言う祝い方を神はデザインしていません。又は人の

考えで神の記念日を変えたり、仕分けたり、改ざんしたり、

終わらせたり、その様にする事を神は断固として禁じているのです。神の意図とは違うことを言ったり、やったりすること、

これは神の意図が人に正しく伝わらなくなってしまう妨害でしかありません。

 

神の記念日はどの様に祝うのか神が人に伝えているのです。

人は神が創造したものに手を付ける権利もないし、変更する力も

権限も与えられていません。ヤラベアムの罪で表される様に神の

教えとずれた事をする事を神は厳重警告しています。

他者に神が伝えている真実ではない別の教えを伝える事は、神の

真実がそのまま地上に現れ出ない事になるからです。神の栄光

神の現実をそのまま地上で映し出し表して生きる様に神に呼び

出された子らはそう神に伝えられているからです。

一年に渡りシャバットを祝い、そして新月、春秋の祭りを祝う。

全部合わせて1つの完全なる神の創造した記念日であるのです。

その記念日の全てはイエシュア、完了の業、預言的祭りそして

福音を網羅する内容でもあるのです。

この神の創造された記念日や祭りをクリスチャンの間では、神の意図通り、意味の内容を教えられる事はないですし、実際に祝う事もしないのです。1世紀後半から異邦人は神の記念日を祝う事と決別し、ローマ皇帝教の教えに移行しました。それなのに、神が昇天以降神の教えを変えたのだ!と聖書にも書かれていない事を教えられ信じているのです。神が神の言葉や記念日を変えたと言う幻想、神話は、神が伝える真実ではない!と神の言葉の事実に目覚めれば見えます。単純な事実なのです。

聖書に無い教えが蔓延し伝達され続けているから、だから人が

教える人が創作した教えではなく、聖書に書いてある通りを把握し理解し、学ぶ必要があるのです。

 

神の言葉を学ぶとは、神の思索、考えを自分とぴったり同化させる、神の思索が自分の脳回路にインプットされ実際にそれを生きる意味を理解し、行動に移す継続をする、その結果御霊の実、

神の性質通りを生きる熟練者になるからです。神の思索を知る、

それが祈りの本当の意味です。神の考えに照らし合わせ、神の

教え=考えとは異なる事を修正する、神のみ旨に常にぴったり

周波数が合わさっている状態=目覚めている=神の真理の教えに

目覚めた状態で生きていなさいと言う神からの教えだからです。

 

神の言葉を重要ではないと考え、だから読まない、学ばない、

正しく聖書を教えてもらえない、それらの思想、行動は何を生み出すか?神が伝えている神の考え、教えがその人には伝わらないままになるのです。本当にシンプルな事実なのです。

 

律法時代の古い教えと教えます。そしてペンテコステに関しては

少々話題にしますけれど、その祭りの意味や内容を教えられたり

実際に祝ったりもしません。

そしてペンテコステも聖霊降臨祭りと言う神が付けた名前とは

違う名前に変えて、神がその祭りに与えた意味も知られてはいません。神の教えを捨てる、否定する教えなど神が人に伝えた

教えではありません。聖書にだけ戻れば神は人に永遠不変の真理を教えている事がはっきり書かれています。神は人を惑わす神ではないからです。昇天以降、神の古い教えに戻る事が恵を捨てた生き方であると信じるのは、神が新しい生き方を教えたのに、古い律法に固執するのは、神の恵みを無駄にした生き方だと言う

異邦人創作の教えを信じているからです。神の永遠不変の教えを

生きる事が罪!!!などと教えているのです。神は神の言葉を

どの箇所も変更などしていません。聖書=神の言葉の事実に照らし合わせれば、そら恐ろしい教えを本気で伝達しているのです。神の教えを捨てる、否定する、終了させる事こそが今の時代の

正義!と主張している、正気では無い、神の言葉に真っ向から

反逆する冒涜的教えです。

福音書〜黙示録に書かれた内容はモーセの五書の短い解説でありその中に書かれているのはイエシュアが示されたモーセの五書の教え、そしてモーセの五書に書かれた福音、タナックに書かれた救い主が地上に現れ、最後は天と地が一つになり、エデンに戻る記録が書かれているだけです。

 

そして聖書に書かれている、イエシュア、使徒、パウロ、1世紀の人々が生きていた教えが100%モーセの五書であり、彼らが祝っていた記念日=イスラエルの神から与えられた婚姻契約の印でもある記念日を祝っていた記述が書かれているのに、

全くその事実に気が付かないまま聖書に書かれた記述を完全に

読み違いえているのです。

今の世の中、悪が堂々と現れ出て、顕著になって来ました。

目覚めている人達は何が行われているのかに気が付いている。

気が付かない眠った状態の場合、言われる通り自分の身に危険を

招き入れてしまっている、その事からも神の言葉に目覚めて生きると神が警告していることがどれほど重要であるのか、見えて来るのです。神の言葉をどの部分でも否定する教えは神から出たものでは無い!と言う事実を聖書の記述から理解している人は幸いです。騙されないために、神の語る言葉だけに目覚めていなさい

と神が伝えたからです。

これから来る春の最後の締めくくりの祭り、春の祭りは全て地上で実際に実現し、表された預言的祭りです。私は救い主を信じていると言いながら、これらの祭り、神の記念日のなんたるかを

一度も聞いたことがない、教えられた事もない、実践して祝う事もない、その様な貧しい聖書教育環境に長年ありました。

失われた日々は取り戻せないけれど、神の伝える真理の中を生きる事に取り戻されたら、もう人の教えなどは不要!完全に全部排除!神の言葉に敵対する関係のない創作話など生きる事は無駄!と分かりました。神の教えだけに戻り、神の伝える生き方を生きる!これこそが神を愛する実態と神が伝えているからです。

”わたしを愛する人はわたしの言葉=仰せを愛して生きる!”

この様に聖書の記述に戻る!と言う多くの異邦人クリスチャンが

世界中に起こされているのです。終わりの時代がやって来たからです。秋の祭りは、これから未来に来る、再臨に関しての預言的祭りです。

異邦人クリスチャンの世界では聖書に書かれた神が創造された

記念日を祝いません。それらの記念日は古い律法時代の律法主義者が祝う記念日だとも考えている人もいます。私はそう教えられ

ました。そして、今は新しい教え、新しい記念日を祝うのが

キリスト者としての生き方であると教えられましたが、それは

聖書に書いてある教えなどではありません。

イエシュアが何を生きたか、聖書には何が書いてあるのか?

使徒やパウロ、世界へ同じ福音=タナック=モーセの五書、諸書、預言書に書かれた教えを教え、生きていた事実しか聖書には

記されていないのです。1世紀後半以降、神殿崩壊以降、出現した異邦人が編み出した新興宗教=ローマ教の教えは、聖書には

記されていません。それらはイスラエルの神に属する教えではない、神が創造された記念日ではない異邦人が創作した教えであり記念日だからです。

伝統で祝われている、全世界の異教徒までも祝う祭り、ハロウイン、イースター、クリスマス。でも神の記念日はイスラエルの神に属する人の印であり、神の子らが祝う記念日、だから異邦人

異教徒はイスラエルの神の記念日を祝わないのが普通なのです。

 

異邦人クリスチャンの世界では使徒2章以降、違う教え、違う契約、違う福音、そしてモーセの五書は廃れて、恵の時代、教会時代、モーセの五書を破棄した生き方をする時代に入ったととんでもなく勘違いした非聖書的教えだけを教えられています。

そして使徒2章の祭りが、レビ記23章の春の最後の祭り、

三大都上りの祭りの1つである事実も教えられません。

そしてシャヴオートの祭りを、聖霊降臨祭などと言う聖書には無いコンセプトの名前をこの祭りに付けています。

聖霊は人類の最初、エデンの園を出た後、信仰により神が伝えた

同じ福音、同じイエシュアを通して義とされた人は誰でも内側に

聖霊を受けていた事実が聖書にはずっと記されています。

使徒2章に初めて聖霊が人の内に住まう様になったと言う教えは聖書に書いてある内容を把握していな結果生まれる、空想話

デイスペンセーション神学思想を語る、前の時代は終わり新しい時代が来て、新しい働き〜聖霊が初めて人の内側に与えられたと言う思想を聖書であると勘違いしているのです。

 

シャヴオート=ペンテコステの祭りは、どんな意味があるので

しょう?人々は神に何を祝う様に教えられていたのでしょう?

シャブオートの祭りには4つの内容が祝われています。

 

その前に過越からシャヴオートは繋がっていますから、

過越の祭の意味をはっきり知る、そして実際に祝ってみると

神の知恵、教えが本当に深い事、そして何より神の創造された

記念日は、イエシュア、使徒、パウロ1世紀当時の人は祝って

いた、その意味、その事実に気がついて、どうして今異邦人

クリスチャンは、それらの記念日を祝ってないのか真剣に聖書から考えたら良いのです。

理由、答えは簡単!異邦人はそれらを祝うことが律法主義に戻る

古い教えの名残を生きていると信じこまされているのは、日本人が戦後愛国主義、国を大事にする事は悪い、日本人は悪い事をしたからだと言う刷り込み教育の産物思想と同じ現象なのです。

 

 

 

 

続く