人の創作した教えと神の純粋な言葉=教えとを識別する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に書かれたことを書かれた通りの意味で忠実に学び続け、

読み続ければ、聖書の記述と人の教え、神学、仮説思想と神の教えとに大きな違い、人の教えの間違いの矛盾を多く発見します。

神の言葉は完全である、永遠不変であると神の口から人に伝え、言いながら、どうしてイエシュアが来たら完全なる神の言葉が

不完全、無用、変更になるのだろう?と単純な疑問を抱かないとならないのです。

神が人に伝える言葉は完全であり、訂正の必要などないのです。

神が人に伝える人間の生き方は創造主=デザイナーであるお方が唯一人間に伝える事が出来るのであって、人は神が伝える言葉

教えとは違う、勝手な教えを唱えることなど出来ないのです。

神が伝える人間の生き方を、人間が途中で変化したと主張するなら、それは神が伝える言葉とは異なるものであり、私達は進化論のごとく体もDNAも変化するのだと言う同じ仮説を信じている事になるのです。

人の教えで思考が完全に洗脳されると、神が人に伝えている真実が見えなくなってしまうのです。聖書に書いてある文字が別の

意味に頭の中で変換されているでしょう?気が付きませんか?

どうして7が1に、永遠不変が一時的と言う意味に変化させて

聖書を読んでいるのでしょうか?と自問し疑問に思わなくては

なりません。神の教えをどの箇所でも否定する教えは、進化論や

偽科学の仮説を信じる事と全く同じです。

この世界は何十億年前に出来たとか、太陽や天体は何万光年先にあるとか、地球が時速1600キロで回転しているとか、全部

仮説であるのに真実であると主張され信じ込む、神の創造された世界とは別の仮説を解説する事は神の性質を見えなくさせるものです。

進化論=偽仮説は神の現実を見えなくさせるものです。なぜなら、偽の教えは神の真実を見させる事を妨害しているからです。神は人が神を知らないと言う言い訳が出来ない理由を伝えているのです。神が創造された世界を見れば、神が存在する事が分かるから!と書いてある通りだからです。神の創造された世界を観察すれば、嘘の仮説が偽物である事が理解出来ます。

 

ローマ1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて

明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の
余地がない。
神の性質も神の言葉も変わらない!と言う事実は、聖書に書いてあり、ヘブライ語では神=言葉と書いてあるのです。詳しく説明するとヘブライ語と同じ言語のアラム語ではクリアーにその解説をしています。言葉イコール神、神の性質は神の言葉と同様と書いてあるのです。その意味の解説はヨハネの福音書を知る手がかりでもあります。聖書、福音書、書簡を読む時に、その書の背景を知る必要があります。その知識、情報無しに読めば、勝手な憶測で解説してしまうからであり、著者が何を考えて話しているのかが分かれば、意味、意図が飛び出す絵本のごとくに飛び出して来るからです。

詩篇119:151 しかし主よ、あなたは近くいらせられます。

あなたのもろもろの戒めはまことです。

 

もろもろと訳されているヘブライ語では、”全て” 全ての神の仰せ=モーセの五書に書かれた全てどの言葉教えも漏れなく100%神の言葉、教え、仰せは全てまことであると書いてあるのに、

どうして2000年前から神の言葉は不完全、破棄するものに

変化すると言う解説をするのですか?矛盾だらけです。人の教えは、イエシュアが来られたら古い律法は破棄されたと言う空想話のプロパガンダを流し続けて、その嘘の教えに騙されているからです。聖書に記載されている神の言葉の性質と、置換神学、デイスペンセーション神学=人間が語る教えとは異なる、人の教えは神の言葉に対して真実ではないので矛盾が生じるのです。

殆どの異邦人クリスチャンは日曜日がシャバット=安息日に変更されたと異邦人の創作した教えや記念日を神から出たものであると誤解して信じて実践し続けています。でも1世紀のイエシュア、使徒、パウロ、ユダヤ人、ユダヤ人異邦人イエシュア信者、現代のユダヤ人、そしてユダヤ人イエシュア信者、そして神の

言葉は永遠不変であり異邦人にも同じ神の教えであると言う

真実に気が付いた異邦人信者達は、神の教え、神の創造された

オリジナルの記念日を生きた、生きているのです。聖書の記述を確かめてもイエシュアが使徒がパウロが、1世紀の信者が何を生きて、どの記念日を生きていたのか記されています。春の記念日である過越や秋の祭りの仮庵、そしてシャバットを祝っている

記録はあれど、クリスマスやイースター、日曜日礼拝に変更し

祝っている記録など一度も書いてもない、書いてあるはずがないからです。そんな事は考えつかない、実践もされていないからです。聖書が書かれている時代にはそんな思想や別の記念日など

創作されていないからです。

どうして、2つ別種類の神の記念日があるのでしょう?

聖書のどこにそんな変更された教えや記念日の事が書いてあるのでしょうか?

異邦人も、家畜も、使用人も、イスラエルの神を愛し、神の仰せを神が伝える通り愛して生きる人達は、皆同じ1つの教え、

同じ記念日を祝う!と最初から書いてあるのです。

神が聖別した日、聖別=神が神の目的通りに分かたれた、

普通の特別な事を区別、境界線を敷いている事が書かれているのです。

神の記念日と、人が創造した聖書に無い記念日を別の日に別の

趣旨で祝い、異邦人は神が聖別し神が呼び出している日に応答していないだけ!神の伝える真実を人の教えに妨害されているので、気が付かない、知らないからです。人の教えに応答していて

神の仰せではなく、人の教えを生きている事に全く気がついて

いないからであると言うのが本当の理由、事実なのです。

異邦人の世界では個人個人、それぞれの人の嗜好や趣旨で何曜日でも礼拝日、聖日と言う人がいますが、それは神の言葉を無視しているから言える発言なのです。聖別は神だけが定義出来るのです。どの日に集まろうと、どの日に聖書を学ぼうと、どんな趣旨で会合を開こうと全く自由であり、制限などありません。

でも神が聖別した日は神はちゃんと文書にて人に伝えているのです。人がたとえ聖日と呼んでもそれが神の聖別した日でなければ、それは神が聖別した日ではなく、神の前に、聖別した日ではなく、何の意味もありません。人間が作った記念日=神の記念日をすり替える記念日は、神の記念日は永遠不変、代々に渡り祝われる”わたし=主の記念日”と言う神の言葉を無視しているだけです。

口だけで神を敬い、実際の生活では神の伝える事を実践しない

神の仰せでは無い別のことを生きると言う事に何も矛盾を感じないのは、人の思想に洗脳され違う教えに妨害されて、神の伝える真実がその人の中には伝わっていないからです。神の真意が伝わらないから、神が伝える真実を理解出来ないと言う現象が起きているのです。

神の教え=トラーを否定する行為は、実質上、神の戒めはまことであると信じていないと言うことになります。

口先だけで神を敬い、実際には神の教えをないがしろにしているとテトスにある通りのことを知らない間にさせられてしまっているのです。

テトス1:16 彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。<神の教えを拒否し否定し、神の教えを

部分的にしか生きない、又は人の教えを生きている。>彼らは

忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。<神の教えのどの言葉でも否定する

行為は、神が伝える生き方を否定する行為である。>

ローマ6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、

だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、

義にいたる従順の僕ともなるのである。
人の教えの奴隷にさせられてしまうのです。
神の言葉を否定する教えが神の教えなのか?それとも単純に人間が創作した教えなのか、聖書に基づき自分の頭で考えないとならないのです。
どの日が神の指定している記念日ですか?

簡単に聖書から答えを見つけられるのです。

土曜日、それとも日曜日?それともいつでも良い?

神の祭りはいつ?春の祭りはイースター?それとも過越、種無しパン、初穂、穂を数える7週、そしてシャブオート?

何が聖書に書いてあるのかの事実だけに戻らない限り正しい答えは神から得られません。人の創作した教えは答えにはなりません神から伝えられた言葉=聖書だけに戻らないとならないのです。伝統の教えと聖書に記述された神の真理は異なるからです。
人の教えに従っていたのだと気が付ける多くの人は、聖書の事実にハッと気が付く瞬間があるからなのです。それはずっと聖書の事実だけを考え、どうして聖書の記載と実際の行動に矛盾があるのか疑問に思い考え聖書から答えを見出しなさいと神が働きかけて下さるからです。まとめてみるとこうなります。

 

1 異邦人は神の仰せではなく人の教えに聞き従ってしまいました。人が神の聖別した日、神が代々に渡り永遠不変に祝うと命じた”シャバット”=第七日目の記念日を日曜日に変更し祝う様に

命じました。神は人に神の仰せや記念日を変更するなかれ!

と命じている事に反してこれらを気が付かないまましてしまいました。聖書の記述と人の教えの区別を聖書を学び確認する事が

ないため、人の思想、神学を教えられ続け、聖書の記述を曲げた教えを信じ込んでいるからです。

もっとも忌まわしい重い罪=神の言葉を歪めて変形させ別物を

編み出した罪を犯した代表として”ヤラベアム”の罪と書いてあります。彼の犯した罪は、神の教えと記念日を変えた事、そして

高き所で偶像礼拝の教えと混じり合った事が記されています。

一番曲者は混ぜ物の教え!とエデンの園の最初から教えられています。半分真実、半分本当=何が本当なのか見分けられないと

言うことが起きるのです。

異邦人クリスチャンの世界で語られる教えの全てが非聖書的ではないのです。ある事柄は真実です。特にイエシュアの業を信じて

義とされ、贖われ救われた事実=新しい命を得る。信仰により

受け取る事、この事実は聖書です。

でも救われた後の、それ以外の教えはどう教えられていますか?

神の古い教えは、廃れた、終わった。神の教えは生きる必要がなくなったと教えています。旧約新約聖書と言うタイトルページは人が挿入し、その思想を刷り込まれ続けている。

それらの教えの出所は神ではなく、1世紀後半から出現した

反モーセの五書、反ユダヤ思想を持つ異邦人の思想であり、神が伝える教えとは全く異なる思想です。そして、イエシュアが来るまで贖い、救いもない、聖霊は人の内側に住まわなかった、動物の血でかろうじて一時的に罪が許された!と教えますが、神は

最初から動物の血は罪を購えない、消せないと伝えているでしょう。動物を捧げる儀式は罪の赦しのため、目的などでは無いからです。イスラエルと異邦人とは別の教えを生きる。別の記念日を

生きる、未来永劫永遠に天と地の別の場所で、クリスチャンは

天でユダヤ人は地上を治める、こんな思想は聖書ではありません。最後は天が降りて地と1つになり、エデンに戻り皆神の創造された生き方、神の似姿=トラー=モーセの五書に書かれた

イエシュアが完全版として生きた生き方に戻る!と書いてあるからです。

それが新しい契約=新しい=再更新され全ての人の頭脳に割礼があり、神の言葉の意味を理解し、神の性質を生きる!とエレミヤもイエシュアも言われた通りの世界が来るからです。

たくさんの誤解した教えを異邦人クリスチャンの世界では教えられているのです。

 

続く