パン種処分 偽の福音 偽の教え 非聖書的神の言葉を曲げて塗り替える全ての教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

家の中のゴミを全て処分!と言うのが流行ってますよね。

ゴミ=不要=家の中に置いておく価値意味が無い。

ゴミに自分の有効に使える場所を占領されてしまうからです。

 

神の教え=聖書に書かれていない教えを自分の中から全部完全

処分して、偽の教えのパン種を除去し、純粋な神の言葉、教えだけを自分の脳に搭載し考え続けることをする必要があります。

パン種除去、毒麦の種の教えでそれが語られています。

神の言葉=教えに属さないものを常に排除する必要があると

主が教えているのです。人の教え=思想に頭脳が占領されたら

神の伝える本物の教えが自分の頭脳には届かなくなってしまう

からです。

人の創作した教えで頭脳が占領されてしまうほど危険なことは

ありません。人の創作した教えは神の教えを知る妨害をするからです。

誰がシャバットを土曜日から日曜日へ変更したのか?

 

世俗の法律がシャバットを土曜日から日曜日へ変更したのです。

聖書が書かれている1世紀の時代、使徒達が生きている時代には

シャバットは日曜日に変更などと主張する人達は一人も存在して

居ませんでした。

しかし、弟子達の死後、神の仰せではない、人の仰せでシャバットが日曜日に代替えされる事が行われる様になりました。

この状態は一気に変化したのではなく、徐々に行われて行ったのです。以前に書いた通り、シャバットを土曜日に祝う事、神の教え、トラー、神の教えや記念日を祝う事を辞めたのは、異邦人達です。その理由は、ローマ帝国による重税と処刑の迫害のためです。モーセの五書に書かれた生き方、記念日を行うとユダヤ人と

同等とみなされ4000USD相当の純金での税金支払い、

支払えなければ、家族の一人が投獄され食事も与えられず死ぬと言う処刑をされてしまったからです。

だから、ユダヤ人達は抵抗し、又はエルサレムから出る、又は

税金を払ってもモーセの五書に書かれた神の教えをガードしたのです。

異邦人は神の仰せを生きる事から離れ身の保全を図ったのです。

異邦人の世俗的な又は異邦人グループの定めた法律ではこんな

記録があります。

”最初の法、市民、宗教上に関してのシャバットが土曜日ではなく

日曜日になったのは、疑いの余地なくAD321年コンスタンチヌスのニカイア会議でシャバット変更の勅令により変えられたものである。”

Chamber's Encycolopeida ”日曜日”

”これが最初の日曜日に関する歴史の法令である。

コンスタンチヌス1世による法律上の変更である。

<即位AD306ー331年>

 

敬意を払うのに値する”太陽”=太陽の日は、市内に住む行政官と市民は休み、全ての店は閉じる様にする。

田舎では、農業に携わる人達は自由に法的に仕事を継続して良い。それは種まきや刈り入れがその日以外にそぐわない場合が

あるからである。豊作をないがしろにしてしまうかもしれない

からである。AD321 

 

日曜日が安息日に変更というコンスタンチヌス1世の最初の法。

"Codex Justinianus," lib. 3, tit. 12, 3; trans. in Phillip Schaff "History of the Christian Church" Vol. 3, p. 380.

コンスタンチン1世の法律は何を要求するか?

”全ての裁判官と街の住民、全ての商人は経緯するべき太陽神の

日に休む。しかし、田舎に住む人々は自由に農作業をして良い。

トウモロコシを収穫したり葡萄畑を植えたりしなくてはならないので、その日を逃してしまわないために。人は天の恵みの日曜

生活必需品を失ってはならない。”

"ハーバード カレッジ USAによる原文の翻訳による。

 

コンスタンチヌス皇帝は圧倒的に太陽神礼拝に傾倒していた人物です。だから、異邦人宗教の教え=キリスト教の教えをひいきに

していた訳ではなく、敬意なる太陽神の日を尊重していたのであり、この時代の大衆がこの太陽神と太陽神の日=日曜日を尊重し

礼拝していた事で、ローマ帝国の拡大とローマ帝国皇帝としての大衆の支持を得るため、大衆を統治するために地場宗教である

太陽神の慣わしを新しい宗教の中に取り込む事が一番の目的で

あったのです。政治的理由が目的!と言う事なのです。

 

異邦人グループの法律がシャバットを土曜日から日曜日へ変更した。

当時の異邦人グループは、ローマ帝国では土曜日は止まる日ではないから。日曜日が彼らの生活に沿う日であった。

<ラオデキア会議での日曜礼拝に付いて>

 

ラオデキア会議、異邦人クリスチャンはユダヤ人化されては

ならない、ユダヤ人化する事を禁じる。<イエシュアやユダヤ人の使徒達、パウロ、1世紀の信者達が生きた様には生きてはならない。>異邦人は主の日を尊重するべきである。

<異邦人達は聖書に記されている主の日の意味を知らないのです。主の日とはレビ記23章に書かれた記念日、そして神が特別な業をされる一定期間を指して主の日と定義されている事実を

まるで知らないまま、主の日=日曜日であると勝手に勘違いして

定義しこの様な教えを編み出しました。>

そして、日曜日にクリスチャンとして休むのである。 
Encyclopedia Britannica, 1899 Edition, Vol. XXIII, page 654.

 

神はいつ止まる日であると言いましたか?日曜日ですか?

それとも第七日目ですか?聖書から確かめたら永遠不変の神からの答えは書かれています。

 

これはコンスタンチヌス皇帝の法律で日曜日の律法がAD321年に執行された16年後に作られた法律です。

”クリスチャンはユダヤ人化されてはならない、土曜日に

休んではならない。<土曜日にシャバットをしてはならない>

土曜日には働くのである。しかし主の日=特に日曜日はその日に

敬意を払い、クリスチャンとして可能な限り労働してはならない。もしクリスチャンがユダヤ人化=モーセの五書を生きるなら

彼らはキリストから追放されるべきである。

<イエシュアが安息日の主であると言う意味が分かっていないのだと思います。イエシュア=ユダヤ人です。イエシュアを信じる事こそユダヤ人化であるのです。>

ラオデキア会議 AD337年。Canon 29

 C.J. Hefele, "A History of the Councils of the Church," Vol. 2, p. 316.

ユダヤ人化とは、シャバット=神のオリジナルの記念日第七日目を祝う事です。異邦人クリスチャンは皆この様に人の教えを神の教えであると誤った思想を教えられ続けているのです。

異邦人は主の日とは日曜日であると、神の伝える主の日の定義を勝手に塗り替えているのです。聖書=神の言葉、定義では日曜日は主の日でもなく、聖別された日ではない、普段の日=労働の

第一日目であると書いてあるその単純な事実も聖書から読み取れなくなって人の教えに洗脳されてしまっているのです。

パウロとペテロも偽教師、別の福音を伝える教師に対しての

警告をしています。

 

使徒20:29 わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。

20:30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが

起るであろう。

1テモテ 4:1 しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、

信仰から離れ去るであろう。

1テモテ4:2 それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。

2ペテロ2:1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるで

あろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、

自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。

 2:2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、

真理の道がそしりを受けるに至るのである。

 

偽教師、偽預言者=神の言葉=トラーを否定する、破棄する様に教える教え、神の言葉を曲げる事をする人達の事です。

偽の教理、別の霊から出た教え、それらはイエシュアが日曜日に復活したのでシャバットの休み、記念日が土曜日から日曜日に

変更したと教えているのです。聖書とは異なる教え=西洋教父異邦人ローマ皇帝が創作した教えが聖書であるとして、神の言葉を

塗り替えている事実にさえ聖書を読んでも気が付けないほど

その思考が乗っ取られてしまっているのです。

パウロや使徒やイエシュアが、モーセの五書を破棄し、今まで

に無い新しい教えをしているという空想、幻想を信じていたら

神の言葉に敵対した教えを言い続け信じ続け実践し続けていても全く気が付く事など出来なくてなってしまいます。

イエシュアは何と言いましたか?

マタイ19:17 ”わたしの戒めをガードしなさい”

わたしの戒め=父の教え=モーセの五書に書かれた人間の生き方

神の似姿に創造された人間本来の実態を生きなさい!と言って

いるのに、何をイエシュアが言われたのか、新しい戒め=

モーセの五書とは違う教えだと勘違いしているのです。

イエシュアが地上で教えられた全て、人に示された業、行動は

100%モーセの五書に書かれた父の教えであると言う事実に

盲目にさせられている人の教えを聞き続けるのをやめたら、

雲が晴れた様にイエシュアの言葉が理解できます。

しかしモーセの五書に書かれた内容をしっかり書いてある意味

通りに知らないとならないのです。福音書以降を理解するには

聖書の最初の部分を正しく理解している事が絶対前提なのです。

ニカイア会議やラオデキア会議はユダヤ人など一人も参加していません。ローマ皇帝は自分が創作した混ぜ物の新しい宗教の

教理に反対する人を誰一人ニカイア会議に参加させませんでした。異端の教えが持ち込まれ、それが新しい時代の宗教として

4世紀に作られた、それが神の教えであると異邦人の世界へ偽物の教えを浸透させた事実に一早く気が付けば、嘘と誠が見分けられます。神の言葉だけに戻り自分で確認する事をお勧めします。神の言葉を否定している異邦人創作の思想を再調査すると、

聖書の記述とのたくさんの矛盾が見つかると思います。

 

マタイ19:17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。

<戒め=トラーに書かれた神の教えの事です>

 

テトス1:16 彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者で

あって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。

 

滅びに至る門は広い。

マタイ7:15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。

 

どうして神の言葉はイエシュアが地上に来られた後終了した

神の記念日は終了し、シャバットは日曜日に変更したと言う

聖書に書かれてもいない教えを信じるのか、それは人の教えが

伝統的に語られ実践し続けられているからです。

そして日曜日にイエシュアが復活したからであると解説する

これも聖書に書かれていない事を根拠に語って、復活を記念して

日曜日をシャバットに変更したと勘違いしているのです。

何曜日にイエシュアが復活しても神の永遠不変の教えやシャバットや祭りは変更など無いと言う聖書の事実に目覚めないとならな

いのです。

 

続く