反モーセの五書思想はイスラエルの神から出た教えではない それを一掃すれば神の永遠不変の言葉が見え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に根拠の無い空想、創作架空の教え、人間が作り出した教えを信仰の土台としたら、その信仰は、砂の上に建てた家、

いずれ傾く、部分的に傾く、崩れて行くとイエシュアも教えて

います。

 

伝統的に語り継がれた異邦人の間で語り継がれる教えの数々

実践されている儀式や記念日が、実は聖書では無い、異邦人に

より変形されたものであり、聖書に根拠が無い、人間が作った

思想や実践である、それらが1900年近く語り継がれたとしても、それらは永遠に神の語る真実とは人は認証しても、神には

永遠に認証されない、やがて嘘の教えが語られる事も終わる!と預言されています。

 

異邦人の世界で当然の様に語られている教え。

マルキオン〜1世紀後半に生まれたグノーシス主義思想の時の

異端者とレッテル貼られた人の教えの1部を取り、ルカ書と

パウロの書簡1、2だけ読めば事足りる!”旧約”=古い、悪い

”新約”=新しい、良いと言うマルキオンの考えを聖書に、

タイトルページとして挿入し付けてしまいました。

神の言葉に対して、人にとんでもない誤解の刷り込みを日々

今も与え続けてる邪魔なページ。

そんな人に誤解を与えるタイトルページを付けてはならない、

挿入をやめないとならない。

 

神の言葉に対する異邦人クリスチャンの世界の最大の誤解は

”神の言葉が変化した、進化した、聖書の最後、福音書以降に

こそ最新式の最も優れた最も霊的な教えが神から伝えられたのであ〜る”と考えている事です。

よくよく考えたら分かる事です。福音書〜黙示録に書かれている

内容、そこに登場人物100%全て、彼らの聖書は、タナック!

それのみしか存在していないのです。ダビデはモーセの五書だけから詩篇にモーセの五書の知恵、生き方、福音、修復された現実を書いてます。福音書以降が聖書と認められたのは、ずっと後です。4〜5世紀、何百年も後。それ以前に個人個人は聖書など

所有などしていない。異邦人の世界では聖書など知らない。

それが普通の状況です。現代と同じ。異邦人は聖書を知らない。

そして、福音書以降にはモーセの五書に反する教えや、モーセの五書とは違う新しい教えは1つも一文字も書いてないのです。

異邦人クリスチャン達は福音書以降には、モーセの五書を破棄して、新しい教えが書かれていると本気で信じて

いるでしょう?聖書の最初に書かれている内容、満遍なく原典に書いてある意味通りには学ばないからそう考えているだけです。

もしくは置換神学や、デイスペンセーション神学思想から聖書を曲げて読む教えだけを聞き続けているからそう考えているだけ。

 

聖書に聖書はと書いてあったらそれは全て100%タナック=

モーセの五書、預言書、諸書のみ!を指して語っていると言う

事実であり、それらが聖書を正しく理解する重大な鍵、ヒントである事に気が付いて下さい。神の言葉は100%同じ!どこの

箇所も互いに矛盾しない!と言う永遠不変の真実に立って初めて永遠不変の神の語る言葉、教えが見えてくるのです。真実を曲げる=歪んで壊れてぼやけた鏡には正確な神像、神の言葉を反映する事が出来ません。

イエシュアが来られて、父の言葉=モーセの五書の教えを破棄したと言う異邦人の空想は、聖書のどこにも書いていない人の語る思想、誤解した解釈です。聖書に書いてあるのは、永遠不変の

神の言葉のみです。神が神の言葉を変えた、神が怒りの神から

恵の神に変身したと信じているとは、神は嘘つき、不誠実、

二心の神と言う歪んだ神像を信じていると言う事に気がついて

下さい。

何度も書いている通り、今の様な7万以上の宗派、教派、

グループ、様々に分裂した思想、教え、分裂したグループや

人造神学が出現した本当の理由は、1世紀後半から、異邦人が

ローマ帝国の政治的迫害、重税、処刑を逃れるために、ユダヤ人とユダヤ色そのものであるモーセの五書に書かれた神の教え、

インストラクションに生きる事から決裂したからこれが本当の原因です。神の言葉を捨てたから!はじめの愛から離れたから!

神の言葉を人間が曲げ続けているから、この様な事が起きたのです。

神の言葉は永遠である。神は神の言葉=契約を変えていない、

神の言葉を変えたのは、人間、異邦人が解説する反モーセの五書

を土台とする思想を反映させた聖書概念、聖書解釈なのです。

 

エデンの園に居た神の言葉に敵対する物の目的は、人を神の言葉から引き剥がす事です。それがずっと今も続いているのです。

完全に引き剥がすのではなくて、半分嘘を混ぜる!混ぜ物の教えに人を引き入れているのです。

 

そうするとどうなりますか?神が伝える本当の言葉、福音が

人の目にはおおいがかけられてしまい、見えなくなります。

自分の本当の自己像が見えなくなります。だからずっと違う自己像、人と比べる、又はずっと救われても罪人であると言われ続けて、その自己像通りを歩んでしまうのです。来る日も来る日も

何も変化しないまま、ジレンマだらけになってしまうのは、

新しい人として神の性質=言葉に根付いて生きる練習を省いて

いるからです。それには、神が伝える人間の本当の性質、

生き方、自己像を隠す事をする、神の言葉に触れさせない事が

一番なのです。

神の言葉は聖霊そのものだからです。命の源だからです。

言葉=イエシュアと神が伝えている通りだからです。

神が伝える贖われた人、本来の人の本当の姿を知らせないため。

アダムとエバも元々神の似姿そっくりそのままだったのに、簡単に騙されました。疑う=神が言った事は本当はそうでは無いかも神は自分達から何か真実を隠して見えなくしているのかも、神の言われた事の他に何か付け足してやらないと神の様にされている自分が得られないのかも?

それらは全部あの動物が言った嘘だったでしょう?その嘘を食べたら死を招いたのです。この重大事実に気が付かないまま、同じ嘘=神の言葉は初めと終わりとでは違う、時代ごとに人種別に

違うなどと言い続ける、異邦人が作り出した空想話を本気で

信じ続け、それらの思想を信仰の土台とし、神の言葉を退け、

神の言葉ではなく、人の教えに聞き入り生きているのです。

いや人の教えなのにそれらが神の教えであると勘違いして

何が人の教えで、何が神の教えなのかの区別さえも付かない。

 

神の言葉は神が伝える神の考え、思想、神が伝える神が創造された神の似姿に創造された本来の人間の自己像、生き方です。

神は誰か、神の定義する罪=ズレ=人間の本来の性質では無い

生き方、神が定義する神が造られた本来の性質の人とはどう

生きるのか?神が伝える聖別とは何か?それらは、日常の中で

生きる事の実際の中で教えられている事なのです。生きる事=

キリストとある通りです。何をしていても、神の性質通り

神の教える生き方を生きる事。神の記念日を通して、食べる事を通して、神の子らの生き方の詳細、この世とは分かたれた聖別された神の子らの性質、その聖別の詳細は、モーセの五書を読まない、学ばないと分からない様になっているのです。福音書には

ほんの少ししか書かれていません。全ての人がモーセの五書に

書かれた事を理解している前提で福音書以降が書かれているから

神の教えの全貌は重複して書かれてなどいないからです。

 

それら=神の教え、契約の命に生きる生き方を捨て、忘れ、破り生きた神の家族の代表=イスラエルがどうなったか?

神の教えからずれたらどんな代償があるのか?

預言書を読まないと諸書を読まないと分からないのです。

 

それなのに、その箇所を読まずに、福音書以降だけ読めば事足りるなどと考えているのは、反モーセの五書思想の異邦人の教え

だけを聞いているからであり、福音書以降の箇所だけ読んでも

何を語っているのかの真相ははっきり見えません。

 

動画を見ていて、様々なノーハウを教えているものがありますよね。DIYとか、スポーツでもスノーボード、スキー、サーフィンに関してetc どの様にするのか教えている。楽器でも、バイオリンやピアノ、その他様々な事を教えていますが、それらを見て

理解したと思っても、実際に実践して練習しなければ自分のものにはなりません。

 

異邦人の世界では、それ以前に、神の教えている教えの内容さえにも触れない!知らない、だから実践しない。

プラス、何を教えられているのかの全貌が見えない。

神の言葉を破棄せよと言う異邦人思想を信じている通り実行しているからです。

そして神の教えを実践、練習しないから、解説の最後の部分だけを読んで、ちょろっと誰かの解説を聞いて、実際に実践する内容の手引きの殆どを知らない。この様な練習、実践は不十分なのです。ヘブライの世界は全て動詞の世界。異邦人の様な思想を語る

世界ではない、実際に生きることが全てなのです。

 

聖書の最初の箇所は呪いの律法、廃れた!と言う教えを聞いたら

それはどう言う意識を生み、どう言う態度、行動を神の言葉に

対してしてしまう事になりましたか?

神の教え=重要、大事な部分には触れない、真面目に探らない、

開かずの間の扉と同じく、宝の山がその扉の奥にあるのに、

その中身を確認しないまま、宝のもちぐされ〜と言う言葉の通りの事が起きているのです。自分の家の土地の下に、石油と、金、銀が大量に無限に眠っているのに、その事実に気が付かないまま

同じく宝の持ち腐れをしている。

聖書にはそう書いてあるからです。祝福は神の性質通り、神の

伝える通りを生きた時に本当に享受できると書いてあります。

それは、今は何を生きても良いと考えるなら、それは同時に、

何が危険なのかにも気が付かないでいる状態です。神は人に

生きる内容の全貌を聖書の最初の部分で伝えているからです。

 

神が伝える本来の人間の生き方からズレるとは、神と人との本当の関係からずれる事です。その状態では、神が与える祝福を

本当の意味では楽しめない、味わえない場所に飛び出してしまう。

それらのサインは自分の内側で分かるものでもあります。

喜び=エデンに蓋がされた状態に陥る。そして実際に歴史の中で

イスラエルが体験した事。約束の地では、実際に雨が降らない、そして余りにもずれたら約束の地から国外追放になったのです。

 

今も同じ永遠不変の神の教え。気が付かないと危険だから、厳しい方法で訓練されたのです。将来、イエシュアが地上に再び戻られたら、神の教えを生きない人、神の記念日を祝わない人の上に実際に雨が降らないと預言されています。神の言葉を軽く見て

笑いますか?自分には関係ない教えであると異邦人の教えを信じますか?

それとも、神の言葉は永遠に真実であると本当に信じますか?

異邦人の世界は神の言葉を本当に軽んじている、だから捨てて

いる、気にも止めない、読まない。知らない。だから神の言葉が終わりなどと言う冒涜を言い続けて何も危険を感じないでいる。この様な危険、腐敗にいち早く気が付かなくてはならない所に

来ているのです。

 

 

続く