世界には様々な教えが流通しています。あるものは聖書のどこを
取ってこんな発想、思想が出て来るのか?と吹き出してしまう
くらいおかしな内容まであります。ジンクス、迷信並みの教えを
聖書を引用して変な思想を語り解説しているものまであります。
異邦人クリスチャンの世界ではこんな教えが一般的に流通して
いると思います。
イエシュアが2000年前に地上に来られるまで、贖い、救い
許し、聖霊が内側に住まう事実がなかったと教えます。タナックに書かれている記述を読み取ってはいない結果生まれる教えだと思います。イエシュアも言われました。モーセ、預言書、諸書に
わたしが書いてあると。1世紀の人達の教科書はタナック=モーセ、預言書、諸書しか無いのです。どの時代のどの人種でも、
どの場所でも同じ贖い、救い、許し、恵、祝福を受けていた。
聖徒=イエシュアの業を通して、上から生まれる事実を誰でも
気が付いた人は受け取っていた事実がタナックにはクリアーに
記されているのです。アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、
モーセ、ダビデ、預言者、ルツ、エステル、誰でも同じ。
信じてイエシュアの業を受け取っただけ。
2000年前まで人を放置し、救いも恵も、許しも、祝福も何も
与えない神の時代であったなどと考えるのは異邦人思想で、
別の神像=怒りの神と言う偽物のイスラエルの神像を考えているからです。変身する神。変化する神。変化する神の言葉。
聖書とは違う思想を異邦人の世界ではふんだんに語り、
聖書とは違う教えが浸透し刷り込まれてしまっています。
だから聖書を歪めて見ている事実に気が付かないのです。
進化論を信じる信仰と同じです。
イエシュアが2000年前に処刑されたのは、神の言葉=トラー=インストラクション、教えを破棄するためなどではありません。まず、異邦人クリスチャンの世界で語られている聖書に対する概念=大前提から掛け違いがある事を知るべきです。
そして、神の言葉=トラー=教えを、律法と言う言葉で解説していますが、それは不適切な翻訳です。聖書の中には、神の言葉、教えを指して律法と言う言葉は言語で使われていないのです。
そして、古い律法に書かれた神が伝える生き方は終わりましたと言いますが、聖書のどこにイエシュアの地上での処刑により、
神の言葉が帳消し、又は大部分の神の教えが今は無効になりましたと書かれていますか?又は自分の悟り、感覚で生きて良いなど
いつ神が神の言葉をないがしろにして、その様な人間至上主義的な生き方をせよと教えましたか?イエシュアでさえ、父の言葉、
教えから離れて何もしない、出来ないと言っているのに。
自分の感覚、悟りに頼る思想を、聖霊に導かれるとか、キリストの律法を生きると言う意味不明な解説をしているのです。キリストの律法=福音書〜黙示録であると言うなら、それらは100%モーセの五書の実態を生きる事なのです。福音書以降にはモーセの五書の短い抜粋が書いてあるだけ!と言う事実に気が付かず、
モーセの五書とは違う教えをイエシュアが教えている=キリストの律法などと言っているだけなのです。
イエシュアは父の教え=モーセの五書以外の教えなど1度も
されていません。トラーを破棄したと言う非聖書的虚しい不真実な別の教え、解説をするのではなく、確立=クウム=成就するために来たと言われた通りを知って下さい。
まして、父の言葉=に反する教えなどイエシュアが出来るわけ、するわけがありません。もしモーセの五書とは違う教えをするならば、それは偽救い主であり、父に遣わされて来た子の役割を
しない偽者と言う事になる事に気が付いていますか?
悪霊が悪霊を追い出したらその国が立ち行かない。神が神の聖霊=言葉を破棄したら、神の国も立ち行かなくなるのです。そんな事ありえないでしょう。ウルトラマン太郎、ウルトラの父を撃退するの巻みたいな空想話を聖書を使って異邦人は創作して語っているのです。
前提からして、聖書に何も根拠の無い、1世紀後半から出現した
教え=反モーセの五書の教えにすり替わった教えがされているのです。言葉尻に騙されないように、一体何を人が言っているのか
聖書の事実は何を伝えているのか、聖書に基づき考えないとなりません。
イエシュアの死=モーセの五書=律法に書かれた神の教え、神が人に伝える生き方を神から要求されるた事が終わりましたと言う
異邦人思想を前提として語っているだけなのです。一見、一聞、
それなりに聞こえますが、聖霊に導かれ、心に書かれたキリストの律法を生きるとはどう言う定義か?聖書に基づき正しく把握
理解しないとならないのです。イエシュア ハ マシアは、
昨日も今日も永遠に変わらない。神の言葉も昨日も今日も永遠に変わらない。キリストの律法とは聖書の意味通りの正しい言葉に直すと、ハ マシアのトラーです。イエシュアのトラーは
モーセの五書=父の教えであり、モーセの五書以外の教えなど
は無い!と言う事実を聖書から知らないとならないのです。
完了とは終了!と言う意味ではありません。創造の最初に全ての業を終えて=完了して=止まった!イコール終わり!と書かれていますか?神の業が完了=全てが完成し、その中に人の生きる
全てが備えられた!その事実から生きる事が始まったのです。
完了=終わり!などと言う聖書に無い意味を解説してもそれは
聖書の真実ではなく、神が人に伝える真理ではありません。
そして、使徒2章以降は、新約時代=教会時代と名付けていますが、これはデイスペンセーション神学の思想なのです。
教会という言葉も教会時代と言う言葉も、新約時代などと言う
言葉も概念も聖書には存在しない言葉、概念です。
全ては最初からの継続でしかないのです。神の業は最初から同じ
だからです。
神は、どの時代にも、どの人種に対しても、同じ教え、同じ義、同じ聖別、同じ罪の定義、同じ教え=人間の生き方を神が伝えている、聖書に書かれている事実からのみ考えないとならないのです。
神の教え=トラー=婚姻契約=父の教え=モーセの五書が終わり
なので、それらの律法に縛られなくなったのが新約時代であると
異邦人クリスチャンは主張しています。
福音書〜黙示録の中には、タナック=モーセの五書、預言書、
諸書のみが書かれており、それらはタナックのほんの少しの
引用、解説しか書かれていないのです。新しい教会時代は、
キリストの律法=書簡の中に書かれている教えを指して、それを生きるのだと言いますと解説していますが、よく考えて下さい。
福音書以降には、モーセの五書とは違う新しい教えなど1つも
書かれていません。イエシュアが教えられ、語られ、生きたのは
父の教え=モーセの五書のみである事実を、聖書の記述から読み取っていない=詰まりモーセの五書に書かれた神の教えを原典
から学んでなどいない証拠でもあると思います。
もしタナックを書いてある通りに、イエシュアが解説した通り、パウロが理解していた通りに同じ様にタナックを学んでいるのならば、福音書以降に別の教えが登場したなどと言う非聖書的思想は一ミリたりとも思い浮かぶわけがないからです。人の思想=
置換進学や、デイスペンセーション神学を信奉しているから、
神の言葉の真相が見えないだけなのです。
そして、十戒を唱えながらカトリックの教え通りに、今の時代は
恵の時代、自由の時代になった、そしてキリストの律法は
シャバット=第七日目をガードして祝う事を要求しませんと
主張しています。プロテスタントでありながら、多くの点で
カトリックの教理を今も共有し、信じ、実践しています。ユダヤ人は何教でも10把一絡げに、”カトリック”と言うのは、同じ様な教え、同じローマの記念日を祝っているからそう見えるのです。では神はイエシュアは何と言っていますか?
イエシュアが祝っていた、使徒達、パウロ、1世紀信者達が
祝っていた週一度の神が伝える永遠不変である大事な記念日が
いつであると教えているのか?聖書の記述から知れば良いのです。シャバットは日曜日には変更されてなどいないと言う人もいます。そして新約時代の異邦人クリスチャンは神の教えに縛られる事がなくなったので、どの日を自分で取り出して自分で聖別して安息日としても構いませんなどと言うイエシュアの教え、
父の教えに真っ向から反する大矛盾を平気で語っているのです。
その教えこそがこの箇所で話している事です。![]()
エゼキエル22:26 その祭司たちはわがトラーを犯し、
聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、
清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、
こうしてわたしは彼らの間に汚されている。
神の教え=トラーを汚し、神の記念日を汚す定義は永遠不変で
変わらないのです。それなのに、神の目に汚れ、神の聖別を汚す事を平気で推奨して教える教えは神から出たものではありません。神は神が伝える事実、シャバットを聖別し、神のトラーを
生きる事を永遠にガードせよ!と教えているのです。その事実が、異邦人思想を信じる人の頭脳に届かず、自分創作の教えを
聖書を否定して平気で伝える鈍い眠った状態に陥ってしまって
いるのです。
詰まりどう言う事を異邦人クリスチャン教師が教えているのか
と言うと、安息日は変更なし、でも同時に神の教え、仰せに縛られる事もなくなった、そして人間至上主義を教えているのです。その代わりに今の時代はそれぞれが好きな日に、神が聖別した
日ではなく、自分が決めた日を聖別し安息日、記念日とすれば
良いと教えているのです。それって聖書?完全に神の口から出た教えに反逆している教えである事は聖書が証明します。
自分の感覚、自分の好み、自分の悟りに頼って良い=恵の時代
自由な時代、神の律法に縛られない自由な時代、とんでもなく
非聖書的な教えです。不法を働く者=あなたはわたしに関係ないとイエシュアは言われました。イエシュア、使徒、1世紀の信者はその様な教えなど一度も聴いたことなどないのです。
神=イエシュアとの関係に入った印、それがシャバットで表されています。神の子らになったと言う意味は、神との関係に入ったと言う意味は、神が提示する永遠不変の生き方=婚姻契約の
実態の愛に生きると言う事が条件なのです。
命と死、命=神の伝える人間本来の実態を生きる事、それが
モーセの五書に書かれた人間の生き方、死=神の教えから離れて
神の教えを否定し、別の生き方をする事、それを死と伝えているのです。命の木、知識の木、命と死は食べ物でも表されています。神が言う通りを生きる=命に繋がる、神が言われた事と違う事を生きる=死=別離、隔たり、距離、隔離の世界の中に入る
親しい関係の中に留まれない状態です。
神を信じるのも信じないのも個人の選択です。神の教えを生きるのも生きないのも個人の選択です。でも神は人になんと強調し
伝えていますか?あなたは命=神の言葉、教え、神のトラーを生きよ!と伝えているではないですか?命の木から食べよ!と
同じ事です。神の言葉に反する教え=死、破壊を招く要因です。
神は然りは然り、否は否と人が迷わない様にはっきりと教えているのです。正しく聖書の内容を学ぶ人は異邦人思想で語る神学などは、聖書ではないことははっきり見分けられるのです。
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。声=神のコル=モーセの五書に書かれた神の言葉と人の思想との違いを識別出来る!と
言っているのです。それともイエシュアの肉声を聞き取れる誰の音声か識別せよ!と言う意味で書いてあるのでしょうか?
そんな訳ないです。私達は誰一人イエシュアの肉声など聞いていないからです。神の伝えている言葉=教えを聞き分ける=本物の羊飼いの声=神の伝える言葉か、そうでは無いか区別、識別
出来ると言う意味なのです。
目に見えない実態は神の深い考えは神の言葉の中にあるのです。
もしくは、人の思想に洗脳されてしまえば何を聞いても真実が
頭脳には届かなくなると言う事は起こり得るのです。
ユダヤ人とて同じです。
続く