マタイ13章 パン種のたとえ話も神の国に関して | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュアが解説されている譬え話は、当時のユダヤ人なら

誰でも知っていたたとえ話なのです。どうしてそんな事が分かるかと言うかと言うイエシュアが使ったたとえ話は当時のユダヤ人達なら誰でも馴染みのある既存のたとえ話だったからです。

主の祈りもユダヤ人の中にあった既存の祈りです。

イエシュアがアドリブでその場で創作した祈りではないのです。

モーセの五書を分かり易く一般庶民子供を含めて教えるために、ラビ達が編み出した様々なたとえ話が存在していたのです。

それらはユダヤ人の文献の中に記されているものです。

 

モーセの五書に書いてある神の教えの真髄、意味をたとえ話を

通して分かりやすく解説する、理解させる、考えさせる、

命を選ぶ生き方を選択させると言う方法は、当時のパリサイ派の教育ツールでもあったからです。イエシュアはパリサイ派の流儀を継承しています。過越の祭りもパリサイ派の儀式で最後の晩餐をしている事でも分かります。そしてパリサイ派が当時主流だったので、パリサイ派の会堂でイエシュアはシャバットに朗読

されたり教えられたりしていたのです。1世紀当時、異邦人教会と言うものは存在していないし、イエシュア信者だけのグループは存在していない。そして聖書に登場するイエシュア信者はほぼ

ユダヤ人です。極々少数の異邦人が諸外国のユダヤ人のグループに存在していただけです。教会と言う言葉は異邦人の創作造語でであり、聖書に書かれていないものです。

 

1世紀当時全ての信者は、ユダヤ人の会堂でシャバットごとに

トラーを学び、教えを聞いていた事が福音書、使徒行伝にも

書かれているから読めば理解出来るでしょう。パウロもシャバットごとにユダヤ人の会堂でトラーを教えられた!と書いてあっても異邦人クリスチャンには、教会という今までに無い場所で、

シャバットではなく日曜日にモーセの五書以外の別の教えをしているのだ!と言う、創作神学に聖書の記述の事実が覆われてしまい、本当に勘違いした聖書の読み込みをしているのです。

イスラエルは日曜日は労働の初日であり、誰も止まる=シャバットなどしないのです。神は日曜日をもともと聖別した日として

創造していません。聖書に書いてある通りに事実を曲げないで、神の言葉を否定する教えや思想神学は聖書でなない!と言う

神の言葉の真実だけに立って聖書を読み直す必要があるのです。

 

ユダヤ人ラビ達の文献の中には、福音書以降書かれている様な

たとえ話の教訓が多く記されて存在しているのです。それらを

見てもイエシュアが話している内容と一致するのです。

だから、その様な手がかりになる情報、文書を学ぶ事を教師達が

する必要があるのは、イエシュアが教えられている教えがどんなものなのか当時の文化、トラーの教育方法の中に沢山の手がかりになるヒントがあるからです。預言書を学ぶ時に、その時代に

何がイスラエルと近隣諸国にあったのか知る必要があるのと

同じ事です。聖書に書かれた真実の点と点が繋がって行くからです。日本人なら誰でもカチカチ山やウサギと亀の教訓的昔話を

知っていると言う事と同じなのです。

 

それらの下知識が何も無いまま、異邦人が自分達の思想や文化や慣わし、そして伝統で根付く創作人造神学や思想を通して聖書を読み込み、読み違いをしていたら、聖書に書かれた事実が見えて来なくなるだけでなく、聖書に書かれた意味や意図とは全く違う教えを創作し続けてしまう事をしているのです。異邦人が編み

出した神学を土台にし、例えばデイスペンセーション神学が語る

終末論的な教えをイエシュアのたとえ話に盛り込み、神の国が

サタンにハイジャックされる=カラシ種の木の中に悪魔が巣食うなどの勝手なこじつけの解説を編み出しているのです。

 

そして一番大事な事は神の言葉を決してどの箇所も否定しない、削除しない、破棄しない、捨てない、一点一画も変形したり、

付け足し差し引きしてはならない!とイエシュアがトラーに

書かれた言葉を人に伝えた通り、神の言葉は途中で変化しない、変形しない、破棄されない、変更されない、取り消されない、

モーセの五書以外の新しい教えなど聖書には書かれていない!と言う永遠不変の神の言葉の性質の大前提だけを土台に、内容が

詳しく分からなくても、聖書に書いてある通りを読み続ければ、伝統的に恒久化している神の言葉は終わり、パウロがイエシュアがモーセの五書を否定しているなどと考えている箇所は、すべて読み違えている臭い箇所であると言う事実に気が付けます。

偽情報を知るには、真実をキャッチする事に限るのです。

 

イエシュアがたとえ話を通して語られたとあるのは、一般の人が

理解出来る様に、当時のパリサイ派の教育流儀を使ってトラーに

書かれている教えを理解出来る様に解説しているのです。

 

その中に登場する物や人、例えばカラシ種や種まきの種はその裏には意味があります。カラシ種は本当に小さなもの、それが

最後には大きな木となり実る事が書かれています。

そして、その前にあった種まきの種は、種=神の言葉、

毒麦=神の言葉では無い別の教え、そして種が蒔かれた土地の

種類=神の言葉を正しく受け取る人、受け取らない人の頭脳、

神の言葉を理解しない頭脳として書かれているのです。

そして前の3つのたとえ話と同じく、テーマは神の国、

天の王国であり、同じ主旨なのです。

四番目の”パン種”のたとえ話は、前の”カラシ種”と共通する

テーマです。両方のたとえ話の中で語られているのは、

小さくて、土の中に隠れて見えないもの。カラシ種は土地の中に

そして、パン種は、小麦粉の中に入っていて見えない小さなもの。それぞれの種は、いずれ偉大なものになると言う教えです。

詰まり小さい始まりの中に、壮大な結末が既に入っていると言う事です。小さなもの〜やがて壮大、偉大、荘厳なものになる。

 

この様な性質、そしてイエシュアがされた業、それは最初から

永遠から存在し、地上で表されたのは2000年前ですが、

エデンの園の最初から神の業の種=同じ種は蒔かれて、神の王国=神の家族=カハール=神に呼び出された人々の1つの群れは

継続して人々が加え続けられているのです。

 

聖書神学思想が語る、分断された思想は聖書の真実では無いですから、それらの種を全部排除して、神はエデンの園から、同じ種から、同じ木から、同じ実りで天の王国を継続して建設している!と言う事実に立って聖書に書かれている事を読めば、神の

言葉の真実が1つにつながって見えて来ます。

この箇所に書かれている事は再び流動的な意味になるものです。

詰まり、”パン種”とはある時には良い意味で書かれています。

これは、過越の祭りを祝う、過越の祭の意味、シャブオートで捧げられる種ありパンの意味を学べばクリアーに理解出来る内容です。異邦人ははじめの愛から離れて、神が創造した記念日を祝う事から完全に離れたので、イエシュアが教えた、それらの教えを教えられていません。

過越の祭りについて、イエシュアの最後の1週間については

違う記事に書いて行きたいと思います。

 

イエシュアのたとえ話は、コンテクスト=内容により登場する

物の意味が変わるのでコンテクストに忠実に読まないとなりません。他の箇所でも”パリサイ人とサドカイ派のパン種”と

あります。マタイ16:6,11-12 マルコ8:15, ルカ12:1。

それらのパン種=彼らの中にあった教え=一部の人の中にあった

神の教えとは異なる教え=パン種は避けてと言う同じ意味です。

でも、パン種と言う言葉が使われる時に、良い意味、悪い意味

両方でたとえ話の中で使われているのです。

 

このパン種の論点の一番の中心は、それらの”パン種”に触れる

場合に周りの環境に浸透してしまうと言う事です。

小さな少量のパン種でも皆影響を受けてしまう。

イエシュアがある一部のパリサイ派を正していた内容、彼らの

伝統の教えで神のトラー=仰せの本質を本末転倒にしてしまっていると言う内容は、悪いパン種です。

 

そして、他のたとえ話で語られている”比喩”は、神の王国を

表すパン種です。神の王国は、復活されたメシア=イエシュアの

権限で統治する神の王国であり、それらは復活の命で変貌された

人々により構成される神の王国です。

 

異邦人クリスチャンは、イエシュアのこのたとえ話のそれぞれの

箇所を、聖霊、知恵、マリア、教会を表すなどと解説しています。

でも、それらの解説、たとえ話の解説は、”すべての小麦粉”の上を歩くと言う様なたとえ話にしてしまって、間違った内容、

誤った解釈へ導く思想なのです。

イエシュアのされている論点意図がずれた解釈なのです。

このたとえ話のポイントは、どんな小麦の中に入り込んでも

パン種はその小麦に浸透してしまと言う事がポイントです。

パン種は確実に小麦粉を膨らませてしまうからです。

 

マタイ13:33 またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。

13:34 イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。

譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。

 

この三サトンの粉とは特に重要な意味があるのでしょうか?

創世記18:16に同じ基準が書かれています。

18:6 そこでアブラハムは急いで天幕に入り、サラの所に行って言った、「急いで細かい麦粉三セヤをとり、こねてパンを造りなさい」。
サラが到来したばかりの客に食事を用意している箇所です。
良質=細かい粉ですぐにパンを造りなさいとあります。
ここにある3とは、三サトンで沢山の量の粉なのです。
1サトンとは、13リットルです。3サトンとは、40リットル
近い粉です!この粉で100人分のパンを作る事が出来ます。
ある人はイエシュアがこのたとえ話を話している裏に、
終末に来る”子羊の婚姻”を考えているとある人達は提案しています。でもこの様な発想はイエシュアのたとえ話の真意をはるか
遠くに押しやり飛躍させた内容に変形しているのです。
自分発想の創作話を作らないで、書いてある意味に忠実になる、
それには絶えず丹念な学びが必須である事は当然の事なのです。
イエシュアのたとえ話のポイントは、たとえどんなに小さなパン種でも、大量の粉に浸透し粉全体に影響を与えると言う事が
イエシュアの伝えている教えの一番大事な中核なのです。
 
神の国はアヴラハムに神が約束された通り、すべての国の国民に
触れると言う避けられない事実があります。
創世記 12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを
のろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。
 

アヴラハムの種に連なる人達、イエシュアの復活の命をアヴラハムと同じ方法=信仰により受け取り、神の性質、言葉、教えを

生きる人達は、アヴラハムと同じく、”地の塩” ”世の光”、神の命=トラーを生きて世界へ影響を与えるパン種=イエシュアを内側に秘めていると言う事に繋がります。

それは、このたとえ話の一番重要な事、神の国の別の側面を

述べている事です。福音=神の言葉の力は、膨張、拡大して

広がって行くと言う事です。パン種はパン生地の中に入り、

パン生地を膨らませる本来の性質があります。

パン種がパン生地を発酵させるからです。

イエシュアのたとえ話を通しての教えは、神の国に関して教えているものです。神の国は進展し、発展し、成長、拡大して行く。

同じ1つの神の家族であると言う聖書の事実をずらさないで

考えないとなりません。2つのパン生地、2つのパン種は、

神の国を構成する人の性質ではないのです

神のパン種=神の性質を受けた人は、神の言葉により神の性質を

神が創造された新しい人として生きて、神の国を発展させて行くそれが神の国の性質なのです。

イスラエルの神の国=神の1つの家族に属する人達は、内側に

イエシュア=聖霊を受けて周りの人達へ影響を与える事は避けられない、それが出来る人達であるのです。

 

そして、新しくされた人=復活のイエシュアの命を内側に受けた

人達は、神の救いを世界へ生きて証明、発信する事が出来る人達です。イエシュアに属する本物の信者達=イスラエルの神の家族の一員として、神の契約の命を生きる事に参加する人達は、

パン種が死んだ状態でないなら、パン種が生きて活動する状態

なら、必ず周りに影響を与える事が出来るのです。

パン種を実際に使ってパンを作った事がある人なら分かる事が

あります。パン種=イーストがダメな状態であると発酵しません。この事でも分かる事があります。湿気があるイースト

ドライイーストですが、別物が混入=カビや虫が混入したものは

使えません。イーストが活性化状態である事、イエシュアの命を

内側に得て生きている状態!神の性質=トラーに書かれた性質を生きて世界へ影響を与える人達、それが本物の良いパン種状態であるのです。

 

続く