マタイ12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、
その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立って
いた。
12:47 それで、ある人がイエスに言った、
「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
12:48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、
「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、
だれのことか」。
12:49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、
「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、
わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
イエシュアがたとえ話でモーセの五書の真意を話しています。
11章、そして13章もずっとたとえ話を通してイエシュアは
モーセの五書に書かれた父の教えをされています。
たとえ話を通して、神の言葉を解説する方法、教育方法は、
当時のパリサイ派の教育流儀であったのです。
イエシュアの言われた”主の祈り”もイエシュアが発案したものではない、当時ユダヤ人の世界に既にあった既存の祈りなのです。
モーセの五書を教えるために、その要素をある形、教えを
通して伝承して行く、それらの伝統は聖書にぴったり沿った内容性質であるならば、良いものでもあるのです。
これから過越の祭りがやって来ますが、”過越の晩餐”を祝う時に
される事、儀式も語り継がれた伝統にのっとりやっているものです。
イエシュアも当時のパリサイ派の流儀で、”セーダー”順序と言う名前のついた晩餐の儀式をしていたのです。これは過越の祭の
解説の中でしたいと思います。
イエシュアの周りには多くの人が取り巻いていた事がこの記事からも、他の記事からも分かります。イエシュアが弟子たちに教えていた所へ、群衆がやって来たり、イエシュアがシャバットで
会堂やその他の場所でトラーを教えていたりすると、この様に
大勢の人々が集まってイエシュアのトラー解説を聞きに来たのです。だからイエシュアの周りを人が取り囲んで、家族がイエシュアに話しかけられない場所に居たと言う下りです。
48節で、”わたしの母、わたしの兄弟とは誰か?”とイエシュアが言われました。そして、イエシュアは家族以外を指して、ここにわたしの母兄弟が居る、わたしの父のみこころを行うものが、
誰でも私の兄弟、姉妹、又母であると言われました。
ここで、すらっと読むと、分かった様で分かっていない事実が
あります。異邦人クリスチャンの世界では、イエシュアが
モーセの五書からだけ教え、解説している事、父の言葉とは
シナイ山で語られ与えた婚姻契約=トラー=モーセの五書の事を
指して話している事、そして、み心とあるこの言葉は、テルマ
その裏にあるヘブライ語は=ミツボット=神の仰せ=モーセの
五書に書かれた仰せの事である事実をはっきり認識しないと
ならないのです。
イエシュアは、聖書の中身は全て100%どこの箇所もモーセの五書を話している、解説していると言う聖書に記載された事実から決して離れてはならないのです。特に福音書以降には、モーセの五書を否定した新しい教えが書かれているなどと言う異邦人が創作した架空、空想、偽りの教えを土台に聖書を読めば、
本当に神の言葉の真意が見えなくなります。
教え、仰せ、いましめ、おきて、知恵などなどで表される言葉は、全て父の教え=モーセの五書に書かれている内容を表す言葉なのです。神の教えの出所は、モーセの五書以外にない。
だから、イエシュアが父の御心、神の教え、いましめ、仰せを
生きる人が神を愛すること、神の家族と言ったら、モーセの五書に書かれた神が創造された神の似姿の性質通りを生きる人が
神の本物の家族の一員!と言っている事に気がつかないと
ならないのです。
父の御心と言われても漠然としているでしょう?どう言うことが
御心?それは時として個人個人に行うべきことは違いますが、
その根、性質は100%全て父の言葉=モーセの五書に根付いた
性質を生きることなのです。読んでいて、漠然と理解していると思っても、よく考えたらそれって一体何を生きよと言われているかと問われたら、多くの異邦人クリスチャンは不明だと思います。詳細が分からない=モーセの五書に書かれた意味が分からないからです。
何故なら、モーセの五書を生きることは律法主義と異邦人クリスチャンは常に教えられているからです。その教えこそイエシュアが教えている事とは異なる聖書とは異なる、異邦人が創作した
教えである!と言う事実に聖書から気が付く必要があるのです。
この場所でイエシュアの言葉=モーセの五書をたとえ話を
通して語られる解説を聞いていた人達は、10000%全員、
イエシュアの教え=モーセの五書!を話してると知っていた事は当然、当たり前であり、モーセの五書以外の教えをするものは、偽教師と認定されるのです。モーセの五書を否定する教えをする教師など誰からも相手にもされないし、誰もそんな教えを聞きには集まらない。だいたい聖書の中にモーセの五書を否定する
トラー教師など存在しない。誰でも歌舞伎を見に言って、
その中身がフラダンスだったら別物と分かるでしょう。
そう言うことはあり得ないのです。
反モーセの五書の解説するイスラエルの聖書教師は1世紀には居ない。異邦人西洋教父は反モーセの五書の教えを説きましたが。
もし居たらそれは異邦人の世界の、異教の神々の宗教=異教神の神殿に仕える異教徒祭司が彼らの異教の教えを唱える、
それ以外にないのです。
誰も現代の様な異物の教え=モーセの五書を終わらせた別の
新しい教えが出現したとか、反モーセの五書などの思想など
存在しない世界の話が福音書以降に書いてある事実に気が付いて聖書を読まないとならないのです。
神の教え、インストラクション=トラー=モーセの五書を生きる
人達こそが、”わたしの家族、兄弟姉妹、母である”と言われた
イエシュアの言葉に基づけば、モーセの五書に反する教えを生きる事を教えたり、行動する人は、神の家族の性質とは異なるものである!と言う事をここで話しているのです。
マタイ5章にあるイエシュアの言葉を思い出さないとならないのです。
マタイ5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラー=
モーセの五書の一点、一画もすたることはなく、ことごとく
全う=固く確立=クム=קוּםされる=のである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも
破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も
小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまた
そう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
聖書に書いてある通りを曲げて読み続けているから、神が人へ
伝えて続けている真実が見えなくなってしまっているのです。
イエシュアがトラー=モーセの五書のどの箇所も廃らない。
固く確立される。トラーの教えの最も小さないましめの1つもで破棄し、破り、人にそう教える者は天の国=神の前で無意味、
無価値な存在になる!と警告されているのに、はっきりと書いてあるのに!それを異邦人クリスチャンの世界では、当然の様に
モーセの五書は律法で破棄された〜律法に戻るのか!と日々
その様な教えばかりがされてしまっているのです。悲劇です。
神の言葉を無価値と思う、捨てる、侮る、ないがしろにする
離れる意識を生むその教えは、神から出たものではない、
悪霊から出たもの以外の何物でもないと分かるはずです。
何故なら、神が神の言葉を撃退しない、悪霊も悪霊を追い出し
内部分裂、内紛を起こさないとイエシュアが説明しているのに
どうして神が永遠不変の神の言葉に敵対し、それを捨てる様に
信じ、そして人に教えるのですか?とっても変な思想なのに、
その思想、教理、神学、教えが一番新しい聖霊に満ちたパワフルな教えなのだ〜と言う教え、本当に虚無、空想、架空、
神に敵対する冒涜的な教えなのです。
この箇所の兄弟姉妹と言う箇所をカトリックは、カトリックの
教理を保護するために、別の解説をしているのです。人間の教えを証明するために、神の言葉の方を曲げる=得意な裏技です。
兄弟=ヨセフの以前の結婚??で作った子供?
マリアと言う同じ名前の姉妹の子供の事。
又は、兄弟ではなく、従兄弟の事など、この様に自作の教理を
サポートするために、わざと聖書に基づく解説をしていないのです。
どんな教理ですか?”聖母マリア”は永遠に処女であると言う
創作教理がカトリックにはありますが、1世紀の異邦人西洋教父
達の中にはそんな教理はありませんでした。
フォーリン=異物の教えです。永遠に処女である聖母マリアと言う教理はずっと後になって作られた教理だからです。
カトリックは、十戒の中にある第七日目のシャバットに関しても否定していますが、福音書以降にも、都合の悪い箇所、使徒1:14、ガラテヤ1:19 その他自分達の教理に合わせて、
聖書を曲げると言う解説をしています。
プロテスタントの中でも同じだと思います。
神の永遠の言葉であると神が伝えているのも関わらず、モーセの五書は終わり、廃れた、なぜなら救い主が来たから、
神の言葉は途中で変わった、人種により違う教えである、
神の性質も途中で変わった=怒りの神から恵の神へと変身したのですと宗教改革後の16世紀以降も、カトリックの思想と同じ
教理、記念日を共有し続け、言い続けて、人が創作した
教えの方を伝承し続け、信じ続け、実践し続けているので、
その教理に合わせ聖書=神の言葉を曲げて解説している数多くの誤解した読み込み、解説をしているからです。
神が人にはっきり伝えていることは、神の言葉のどの箇所も
差し引き、付け足し、変形し、混ぜ物の教えに作り変えては
ならない!と言っているのです。
もし、神の言葉が途中で変わった、聖書が途中で変化した、
イスラエルと異邦人は別の教えを生きるので、異邦人はモーセの五書に書かれた道徳的な教えだけを生きれば良い。
そして、神の創造されたオリジナルの記念日は、ユダヤ人だけが
生きれば良い。異邦人は西洋教父やローマ帝国が作った、
別の記念日を昇天以降は実践する様にと聖書のどこに書いてあるのでしょうか?
聖書の中身を確認した方が良いです。もしモーセの五書とは違う変化した教えがどこかに書いてあると言うならば、その翻訳聖書は、架空の教えを土台に変形されたものであり、ミスプリント、
印刷間違いなので、翻訳元出版社に異議申し立て、指摘した方が良いと思います。
もし聖書にはその様な変更など書いてなかったら、では何故?
聖書に書いても無い教え、伝統伝えられ恒久化している教え=
架空の教えを神の言葉であるなどと信じるのだろうか?
と自分に質問し続け、聖書から回答を得る必要があるのです。
誰かが創作した不真実な非聖書的な思想、空想、架空、虚構、
嘘を信じるほど無意味なことは無いのです。
だから、聖書に書いてある事実だけに戻る=悔い改め=戻る=
シュヴァをしなくてはならないのは言わずとも知れる事実であるのです。
日本では”まん防”と言う言葉があるそうですが、神の言葉を曲げる嘘のまん延防止を気が付いた人からしなくてはなりません。
人の教えが蔓延り、神の教えが覆い隠されることはエデンの園のあの動物のやった仕業と全く同じだからです。だからよくよく
注意して、神の言葉に常に集中し忘れない。それには、神が何を
教えているのか、トラー=モーセの五書からはっきりと知らないとならない。そうすれば、何をどう生きたら良いのか、分かって来るからです。福音書以降には、モーセの五書、預言書のほんの短い、抜粋、短い解説しか書いてないのです。
神の教えの全貌は最初の部分を読まないと分からない。
続く