マタイ12章41−45 悪霊が悪霊を呼び込む状態とは  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神のオリジナルの言葉=教え=トラーに書かれた教えが、聖書の

全ての土台です。聖書のどの箇所も100%モーセの五書を指して、モーセの五書を土台に語っている事実があるのです。

聖書のどの箇所も、モーセの五書に反する教えなどない、

そんなものは聖書ではないからです。100%モーセの五書に

同意し、モーセの五書を解説している、それが聖書なのです。

異邦人クリスチャンの世界では、福音書以降は反モーセの五書が

書かれていると解説するものが一般ですが、聖書の最初の70%に何が書かれているのか知れば、そんな事は言えなくなってしまうのです。聖書はどの箇所も100%トラーであり、悪霊が悪霊同士で内部分裂、内紛を起こさない様に、神も神ご自身、神と

神の言葉に対して敵対し合う様な、そんな漫画の世界でもあり

得ない事は聖書には書かれてなどいない!と言う事実に聖書の

記述からいち早く気が付かないとなりません。

 

誰が何と言おうとも、神の言葉を否定する!と言う、その様な

冒涜的にズレた思考回路は危険!と言うことにはっきり聖書から発見しないとならないのです。そんな聖書の読み方をし続けるので、様々な非聖書的神学非聖書的解説、解釈のオンパレードを

創作し続け、そのズレた思考回路の中だけで聖書を誤解して読み続けているののです。

 

神の国には宗教など無い。ユダヤ教、ローマカトリック、

ギリシャ正教、プロテスタントと言う宗派や教えも無いのです。

あるのは純粋な神の言葉=トラー=神の教え、インストラクションだけです。

 

神の国は、神の教え、インストラクション=トラー=モーセの

五書=婚姻契約に忠実に生きる人で構成される、それが神の

家族であると聖書には書かれています。

 

神の国は分裂の国ではなく、一致の性質です。一致するには、

神の同じ教え、インストラクション、同じ契約に属する印である

同じ記念日を生きる人達であるのです。分裂した教えでどう

一致するのでしょう?分裂した教えを聞き続け、実践しているので世界はユダヤ人、異邦人はまだ1つになれない状態なのです。

 

神の言葉は宗教ではなく、単に純粋なる神の教え、インストラクションなのです。その神の言葉に人の思想や解釈や解説、教えを

加えたので、イズム=〜なになに教と言うものに変身したのです。

イエシュアが来られる以前には、ユダヤ教なるものさえありませんでした。聖書を読んだら分かりますが、どの時代でも、どの

人種でもモーセの五書に書かれた教えを内側から本当に知り、

新生体験をし、聖霊を受けて同じ福音=イエシュアを信じる信仰により義とされた人達が神の言葉、教えを生きていたのです。

ルツはダービーの様な思想を聞いて救われたのですか?

いいえ、姑のナオミがトラーを生きていた、それを見て彼女の

生き方、彼女の神が本物!<プラス彼女の夫の生き方を通して、救い=イエシュア=イスラエルの神を知った事が書かれています。誰もイエシュアを通して以外、新生体験はない!聖霊が

内側に住まわない、その事実は太古から今迄全く同じなのです。

福音は2無い、救いの方法は2つ無いからです。

1つ=イエシュアを通して以外、誰も父の元に来ることは出来ない!とはっきり書いてある通りです。アヴラハムはイエシュアを知って、イエシュアが地上に来られるその日を信仰により知り

その日を喜んだと書いてある通りです。

 

そして預言書の警告は、モーセの五書=トラー=はじめの愛から

離れてずれて生きている人達=混ぜ物の教え、異教の神々の教えの要素と交わりながらイスラエルの神を礼拝していると勘違いしていた人達への警告が預言書なのです。

 

これから4月16日に来る過越の祭り、そしてその後のシャブオートの祭り、出エジプトの過越の事件と重ねても見える事があります。

出エジプトした=贖い救いを受けて奴隷の国から出た直後

イスラエルは、モーセがシナイ山で40日過ごす間、不安にかられ、別の対策を練った事です。自分達の慣れ親しんだやり方、

これを異教徒出身異邦人の辿った足跡と全く同じです。

自分達の馴染みのある事で、イスラエルの神を拝む。金=エジプトから持ち出した一番大事な宝を捧げて金の子牛を作り、そしてイスラエルの神として、神の祭りを祝おう!とやったのです。

 

そして、神は神が提示する以外の神への近づき方や礼拝を最も

忌み嫌う!と教えています。その代償は死=別離=セパレーションです。自分では礼拝と思う事を、神は最も忌み嫌うと伝えているのです。神の教え無視して勝手にやっては危ないと言う事が

トラー、預言書には書かれています。それらを無視したら、何を

神が人に伝えているのか見えません。

 

人は自分の考えを神の言葉に混ぜると言う事をし続けて来ました。それは神に取り生ぬるい=混ぜ物=異物を取り入れては

ならない!食べ物の教えと全く繋がります。

命の木から=神が言われた通りだけを取り入れて食べて生きる

と言う基本をズラすなら、様々なずれが自分の中に入り込み

そのゴミ=パン種が知らない間に膨れ上がり、神の性質を生きる

事を妨害して行きます。これは過越の前のパン種除去の教えにも

繋がります。これは過越の祭りの解説の中で書こうと思います。

 

マタイ 12:41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。

しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

12:42 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。

しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。

マタイ12:43 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。

12:44 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがして

あった。

12:45 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を

一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

 

この箇所は、22節でイエシュアが盲人であり唖である人が

取り憑かれた悪霊を追い出し事をイエシュアが対比させて

話しているものです。

イエシュアは、聖霊の力により悪霊を追い出した。<31-32節>

イエシュアはたとえ話を用いて、唖であり、盲目の個人の

悪霊を追い出した事、そしてここでは”今の世代の人々の悪”と

対比させています。

 

悪=今の時代は神の教え=トラーを本当に求めない意識状態で

ある、その様な状態が罪に定められると言っているのです。

神の伝える本当の義など求めていない。この一部のパリサイ派は

イエシュアが語るトラーの義に最初から耳を傾けていない。

詰まり、自分達の慣れ親しんだ思想、教えから考え続けている

からです。盲目の人を癒したと言う事にも繋がると思います。

イエシュアが聖霊により悪霊を追い出したのに、悪霊が悪霊を

追い出したなどと言っているのです。27節

シバの女王が、ソロモンの知恵=トラーの教えを求めたのに、

この人達は、イエシュアが伝えるトラーの真理など求めていない。<ニネベの人達=異邦人が神のトラーに聞く態度を持った

のに>彼らは神の教え=真理を本当には求めていない。

自分達の教えに固執し、考えているだけである。

ヨナより優れた者=預言書=救い主。

ヨナに聞いた異邦人達より、ひどい状態の人々。

ニネベは神に遣わされた預言者を信じた。シバの女王は神の国

の地上を代表するイスラエルの王を通して神を見たのに、

この一部のパリサイ派の人達は、イエシュアを直接目の前にして

イエシュアの口から語られた神の真実を聞けない聾唖、見えない

盲人!と繋がると思います。悪霊に憑かれた盲人聾唖が贖い出されたのに、神の言葉に心を塞ぐこの様な人達は悪の時代の人と

イエシュアは言っているのです

 

イエシュアが人を癒す、そして悪霊を追い出したそれらの人には

その後に正真正銘の救いの信仰を持つ事をし、贖い出された人として聖霊が内側にあり、神の教え=トラーを生きる事に戻る!と言う事実があるのです。

イエシュアがきよめた、癒した人には、悪霊が再び戻る様な

状態になってはならないはずです。

 

もし悪霊が悪霊を追い出したら、この34−35節にある様に

悪霊が一旦退去して、再びもっと悪い悪霊と共にその人の内側に

舞い戻る=詰まり悪霊が悪霊を追い出しても、その個人は贖い

出されていない、イエシュアにより聖霊の実態を受け取り

新しい人とされた命を生きるスタートをした状態ではないからです。

イエシュアが悪霊を盲人から追い出した事は、ヨナがニネベの人に悔い改めをもたらした事、ソロモン以上に優れた事であると

書いてあります。神ご自身だからです。

 

神の聖霊、業、そして神の言葉を認めない、否定する行為は

神の前に裁かれるべき事であるとイエシュアは話しているのです。

ここでもう一つ考えられる事があると思います。

救われたと言う事実=イエシュアに出会った。その意味は、

神が提示する契約の命の中に加えられ、そして神が伝える教え、

神の性質を生きる事に戻る事であると言う事実があるのです。

異邦人クリスチャンの世界では、神の教えは生きる必要などない

と説いた初代西洋教父達、そしてダービーなども全く同じ思想を

語りました。

でもそれらは神の教え=聖書の教えなどではありません。

はっきり言って、モーセの五書に書かれた内容、意味通りを

本当に知らないなら人の生きる詳細、何が神の前に罪なのか、

神が定義する罪の全貌、聖別の意味の全貌は福音書以降を読んだだけでは知り得る事が出来ません。

福音書以降には、人の生きる全部の詳細など書かれていないからです。なぜ?最初の70%に完成版が書かれているので復唱する

必要がない。最初の70%を読めば良いからです。

 

だから、神が言われた通り熱心に神のトラーを求めよ!

わたしの御顔を求めよとは、神のトラー=教え、インストラクションを求めて知り、それを生きなさい!とずっと聖書の最初から最後まで語っているのです。でもその神の教えから、意識をはぐらかす教えを異邦人達はし続けて来たのです。だから聖書を

ちゃんと読まない、学ばない、それを生きない。聖書のある部分だけ取り出して、人が言う教えを聞いていると言う状態に留まっているのです。

もし、人が救われて、悪霊が内側から出て行ったのに、その後

自分の意識を神の言葉で常に覆い、埋めて、そして神の言葉、

性質を実際に生きる事をしないとするなら、それは同様に同じ

元の木阿弥に戻ります。

もっと分かりやすく言えば、もし病を癒されたとして、その病の

原因となる、生活習慣、食生活、神の教えとは違うずれた思考回路で自分の頭脳を埋めて落ち込んでいる精神生活をし続けたら、

どんなに薬を飲んだとしても、また同じ病気になってしまう事と

同じです。元の原因を繰り返さない!問題の根を断ち切る!と

言う事をする。

以前の生き方とは決別し、神の教えだけに根付き、常に神の言葉を考え続け、自分の思考回路を安全に守り、ガードし悪霊=悪

ずれた教えや思想に汚染されない様に自分で自己管理をしない

場合は、たとえ救われても、生ける水=イエシュア=トラーに

根付き生きないなら、変わらない=御霊の実が実らない原因は

全て、神が教えている生き方をしないから!と言う事が本当の

原因なのです。

 

 

続く