異邦人クリスチャン、聖書教師、学者が、イエシュアは反モーセの五書を語っている、モーセの五書をイエシュアが破った、終わらせたのであると言う典型的に誤解した解説をしていますが、
父の言葉=モーセの五書を意味通りを伝えに来た<マタイ5:17>
と言われたイエシュアがそんな事を言う訳などないのです。
ヨハネ5章にある様に、父に遣わされたイエシュア、
ヨハネ10:30にある様に、父とイエシュアは一体と言って
いるのに、父の言葉=モーセの五書を否定するならそれではイエシュアが偽預言者、偽救い主であると言っている事になります。
聖書に書いてある事をよくよく確認する。神の言葉はどの箇所も
互いに敵対し合ったり、終了したり、変更されたりなどしていない事実が聖書には書かれているのです。異邦人の読み手が勝手に聖書の記述を曲げて解説しているだけなのです。
異邦人が1世紀後半から編み出し続けた雪だるま式の教え=
反モーセの五書、モーセの五書終了ありき、今まで聞いた事もない別の新しい教えをイエシュアが語っているのだと言う幻想、
空想、想像、憶測を捨てないとイエシュアの語る言葉の意味、
事実が見えません。
イエシュアが議論してしている論点は、今と同じ、当時のユダヤ人の中にあった口頭トラー=トラーをどう生きるか?と言う事
に関して、オリジナルの神の言葉の意図からずれて一人歩きしている教えの数々に対して批難、正しているのです。
マタイ12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、
「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日=シャバット=第七日目を破っても罪にはならないことを、トラーで
読んだことがないのか。
先入観=福音書以降には新しい違う優れた教えが書いてあると言う、その意識を捨てて、神の言葉はどの箇所も矛盾しない、変化しない、敵対しないと言う前提を絶対にずらさないで読む事が
大事です。そして、気がつくべきことは、1世紀当時ユダヤ人の
世界にあった様々な教え=口頭トラーで語り継がれている
その内容、背景を知らないまま、21世紀現代の異邦人文化社会の発想で古代のヘブライの書を読んだら様々な事が見えないまま
憶測の解釈になってしまっているのです。
1世紀当時のイスラエルの宗教事情、仕来りなどについて
豊富な資料はありませんが、限られた文献の中でも知り得る情報があるので、真実の点と点を繋げて行けば、イエシュアが
モーセの五書を破る様に人の教えているなどと言う解釈が
全く間違ったもの、非聖書的なものである事に気が付けます。
1つずつゆっくり考えて、見て行く必要があります。
2節にある、イエシュアの弟子は安息日にしてはならない事を
していると、ある一部のパリサイ派が咎めていますが、
畑に入り自分が食する落ち穂を拾って食べることは何もトラーに
反した事ではありません。彼ら一部パリサイ派の中にある教え=口頭トラーではそれはダメであるとしているだけです。
現代の正統派ユダヤ教の中でも様々なルールがあります。
それらは、モーセの五書と何も関係の無い彼らの逸脱したトラーの解釈であったり、彼らのリーダー達の思想でもあります。
ピンからキリまでありますが、シャバットには電気のスイッチを
押してはならない。だから間違ってスイッチに触れたら部屋が
暗くなりそのままになります。ホテルのエレベーターは自動式で
各階に止まるなど。日常の最低限必要な用事は継続してやっても良いのですが、余計な労働、掃除洗濯などしていたら、止まる日の意味や本質、大事な事、家族団欒や皆で学ぶ時間から意識が
それてしまいます。でも、家族の世話は母である人がしなくては
ならない。そしてシャバットの晩餐に用意した食べ物がたくさんあるので、それを温めたりする事もしますし、テーブルの上から
皿を片付けたりします。普通のことが普通に考えられなくなり、
物事の本質を捉える事からずれてエスカレートした教えに発展
させる事は出来るのです。
シャバットには、日頃のリハビリに行かない。でも急を要する、命に関わる怪我や病気ならすぐに病院に行かなくてはならないなら、もちろん行きます。
命が大事!だからです。この箇所も、お腹が空いているから
落ち穂を拾って食べる事がシャバットを破る事であると考えているパリサイ派の人達がいたのです。
考えれば分かりますが、シャバットの本質は、止まる事
そして、この日は神が全ての業を完了して止まり、人との関係に入り、全ての創造物がこの日神が止まった事で神と共に祝う日である事を祝う日です。天と地が繋がり祝う日です。
でもシャバットには普段の労働はしませんが、必要な事は行うのです。だから、その事実をイエシュアがその後に説明しているのです。本末転倒!その意識が問題なのです。
続いて、イエシュアが3節で説明している内容は、1サムエル
21章に書かれている内容です。
1サムエル 21:1 ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。
21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った、「王がわたしに一つの事を命じて、『わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない』と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。
21:3 ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」
1サムエル21:4 祭司はダビデに答えて言った、「常のパンは
わたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んで
さえいたのでしたら、聖別したパンがあります」。
ダビデ達がサウル王の手から逃れるために逃げている所が
ここの箇所です。そして、祭司アヒメレクに会います。
聖別したパンとは、神殿の中、この場合、移動式神殿の中に
置かれているパンで、このパンはシャバットごとに祭司達により
新しいパンに取り替えられるのです。この取り替えられる瞬間も
そのパンを置く棚、台からパンが常に存在している状態にする。
つまり、前のパンと後のパンを一緒に同時に差し替えると言う
ことをするのです。だから祭司の任務に付いている間は、仕事を
する前に飲酒をしてはなりませんと言う神の仰せがあるのは
理解出来ます。手元が狂ったり、意識がぼやけてはダメだから
です。
このパンは祭司達だけが食する事が出来るのが前提なのですが、
人の命に関わる場合、この場合はダビデ王が食べ物を頼んだら
聖別されたパンがあるだけと言われたのです。聖別されたパンは
シャバットで交換されるので、これはシャバットでも神殿で祭司は働いている、任務に付いている、そして新しいパンをパンの
台に置かれて、1週間前のものが下されて提供可能状態であった
のです。祭司しか食べないパンですが、祭司アヒメレクは、それをダビデたちに与えたのです。人の命の方が大事だからです。
これは神の教えを破った事にはならないから、イエシュアが
ダビデのした行動を例に出してパリサイ派に教えているのです。
ダビデ=ユダ族=イエシュア=天の祭司=大祭司メルキゼデクに繋がるものです。
この時期がいつであったかは書かれていませんが、過越の祭の
後である可能性、大麦の初穂が収穫されるまでその大麦を食べる事が出来ないからです。レビ記 23:14 そして、又はシャブオートの祭の後の小麦の収穫時期であるのです。
落ち穂を拾って食べたか、又は所有者がいない放置された畑から
食べたかです。所有者の畑の穂から無断で取ってはならないからです。レビ記19:9; 申命記 23:25
パリサイ派が問題視していたのは、イエシュアと弟子達がこの
畑に入りこみ、人の収穫物を無断でせしめていると言う事では
ないのです。単純に穂を拾って食べていた!と言う事をパリサイ派は問題にしているのです。
お腹が空いているからとマタイには書いてありますが、マルコと
ルカにはその様には書かれていません。マタイは単純にお腹が
空いたから穂を拾って食べた、その穂を拾って、金儲けしようと
言う目的ではないのです。
トラーに書かれているシャバットにその様な行為をする事に
関してどう書いてあるのでしょうか?
トラー=モーセの五書には、生活の糧を得るための労働、普段の
労働を禁じています。出エジプト20:8−11
それらは農作業、収穫する事なども含まれています。
出エジプト34:21
あなたは六日のあいだ働き、七日目には休まなければならない。耕し時にも、刈入れ時にも休まなければならない。
耕し時にもとある箇所を取り、穂を拾う事〜耕し、収穫と解釈
するラビ達が居たのです。ユダヤ人の書、口頭トラーの中には
様々な掟が書かれています。
これらはモーセの五書ではなくユダヤ人達が考えたものです。
m.Shabbat 7.2,には、39のシャバットでしてはならない
掟リストがありますが、それらはモーセの五書ではありません。
ここに登場するラビ達がイエシュアとその弟子を責めていた内容は、モーセの五書に基づくものではないのです。
彼らラビ達の伝統の教え、彼らが守っている事に基づかない行動を、イエシュアの弟子達がしていると主張しているのです。
畑を耕したり、収穫する様な農作業をシャバットにする事は
トラーで禁じられています。でも、穂を取り、その殻をむく事、畑の中を歩くことまでが農作業に値するなどと飛躍した教えに
変化させているのが当時のラビ達の思考回路だったのです。
これは現代でもあります。人の教えに基づき生きることは、
神の伝える命の本質からずれた生き方をしてしまう事でもあります。
そして、ラビ達の考えた複雑で負えないくびき=教えの数々で
ある事、イエシュアの与える教え=トラーは軽く、負いやすいと
これらの話の後にイエシュアが伝えている事でも分かるのです。
続く
レヘン ハ パニムと呼ばれるパン。英語ではショーブレッド
日本語では臨在のパンと訳されているものです。
エルサレムの旧市街ユダヤ人地区から神殿に入る前にモリヤ書店と言う書店があります。その中に小さな博物館があり、
そこには神殿の中の色々な物が展示され紹介されています。
The Temple Instituteで出版している図鑑に載っているものです。シャバットを迎える時に前の週のパンと新しいパンを
棚の中で新しいもので古いものを押し出して、この棚が24時間
7日間、パンが存在している状態にするものです。
不思議な形のパンです。神殿に仕えるレビ族の祭司達は神殿での
任務の時に白い服を着ています。義とされている印。そして真冬でも裸足です。神の家で履物を脱ぐ。そしてシャバットでも任務に付く祭司が居ることに着目。祭司の労働は激務です。
だから祭司は50歳定年と書いてあるのです。これを現代のミニストリーに付く人は50歳過ぎても定年退職しませんから、
モーセの五書が変わったなどと解説しているものがありますが、レビ族の祭司と聖書の教えではない、他の職業、ミニストリー、教師や、牧師の職業は全く意味が違う、性質の異なる職業なのです。聖書に基づかない推測の読み込みをやめない限り、
自分の空想で聖書を曲げてどこまでもこじつけの解説を展開する事をしてしまいます。
