異邦人の世界で語られている聖書観や、イスラエルの神像、
イエシュア像など、聖書の事実ではない教えの独り歩きが
異邦人の世界で始まったのは、1世紀後半からです。そしてイスラエルの神が、神の言葉と神の性質は永遠に変わらない!と聖書の最初から最後までアルファでありオメガ、アレフでありタヴであるお方と言う事実に基づき考えるのか、ヘレニズム哲学思想を通して聖書を歪めて見る異邦人教父達の教えに基づき考えるのか。神の言葉に沿って全てを見るべきであると言う原点に戻り、
全てが、反モーセの五書=モーセの五書終わり在りきで語り続ける異邦人の世界の思想を一掃して、たくさんの偽落書きがされていない、まっさらな用紙に神の言葉だけを書き記す事をしましょう。もし神の言葉に敵対する事へ賛同する、神の言葉へ戻ろう!と言う事に敵対する意識があるとするなら、それは神から出たものではなく、別の霊から発する意識、思想だと言う神からの
注意危険信号に本当に意識を払わないとならないのです。
西洋宗教には西洋人が作った混ぜ物の教えがふんだんに入っていて、オリジナルの神の言葉を変形していますが、当時のユダヤ人も、トラーに書かれた教えを、人間的な解釈で日々の中を生きる様に教えられてしまったのです。ある教えはトラーですが、
ある解釈はトラー=神の教えの意図ではないものがたくさん
あったのです。負えないくびきとはその教えの事です。
だから、それらの教えに洗脳されると、普通に考えられる事が
普通の常識で判断出来なくなると言う事が起きるのです。
古い皮袋と新しい皮袋とは、両方弟子達を作る、育てる事に
関してイエシュアは話しているのです。
古い皮袋とは、1世紀当時の人達の間では、ユダヤ人の賢人達
ラビ達の教えのメソード=方法の事なのです。
それらは、ベイト ハ ミドラシュ=当時の学び舎を通して、
当時のラビ、賢人達のトラー、預言書、諸書などの伝統と解釈を
学ぶ事を言うのです。
そして、新しい布とイエシュアが言われたのは、弟子達を作る事
当時のラビ達の教えが刷り込まれて教育されていない弟子達を、イエシュアの方法、イエシュアのトラーの解釈を、イエシュアのミニストリーを通して直接弟子に教え込む事なのです。
伝統の教え=口頭トラー、人の教えの解釈を刷り込まれていない頭脳を持ち合わせている人達を教育すると言う事、これは当時のラビ達の書の中にも書かれている誰でも理解出来る知っている
やり方なのです。子供の様にならないと天の国には入れない。
子供の様に先入観なく、神の言うそのままを聞く頭脳!
それにぴったり合う箇所でもあるのです。
だから、この前の箇所に、”花婿”が居る間は喪に服して断食しないと言う箇所にもぴったり繋がっているのです。
この概念、思想=新しい皮袋=何も影響を受けていないまっさらな頭脳とは、当時のラビたちの間では普通に理解出来た内容なのです。
” Elisha B Abuya は”幼い子供の時に学んだ人、どんな人に例えられるか?真っさらな紙の上に垂らしたインク。そして年取ってから学んだ人は?どの様な人だろう?紙の上にたくさん書かれたものを全部消しゴムで消したその様な紙。”
” R. ヨセ b. R. ケファ ハバブリ ユダ ”
”子供から学んだ人、どんな人であるか?酸っぱいブドウを
食べて、新しいワインを飲む人。” そして年老いた人に学ぶ人は
どんな人?彼は熟したブドウを食べて、熟成したワインを飲む。
ラビ曰く、ボトル、入れ物を見るなかれ。その中にあるものを
見なさい。新しいボトルで古いワインを手に入れる。古いボトルでまだ熟成していないワインを手に入れる。
mAvot 4:20
最初のたとえは、イエシュアが言われた通り弟子を作ると言う
内容とぴったりの内容です。
イエシュアは、弟子達に選んだ人は、ラビ達が伝授した様々な
教えに汚染されていない、それらの教えで脳回路が埋め尽くされていない普通の人達を選んだのです。そうでなければ、
イエシュアが伝えるトラー=モーセの五書の解釈とは異なる教えを持っている人の情報を1つ1つ消して教え直すと言う大変困難な過程を経なければならないからです。
イエシュアは、新しいクリーンな白紙の頭脳を求めていたのです。それが17節の解説に繋がるものです。
マタイ9:17 だれも、
新しいぶどう酒を
古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば
両方とも長もちがするであろう」。
新しい皮袋=縮んでいないものは伸びる。
古い皮袋を新しい皮で継ぎ接ぎしたら、ダメになってしまう。
新しいワインは、これから熟成するために伸びる事が出来る
新しい皮袋に入れるものです。
古い皮袋に新しいワインを入れたら、古い皮袋はそれ以上伸び代がないので破れてしまいます。
このたとえ話を異邦人クリスチャン教師達は”古いものを破棄する”と言うこじ付けをした解説のみをしています。
彼らは”古いもの=モーセの五書=トラー”であるなどと解釈
解説しています。
新しいものはより好ましいもので、新しいものとは、
クリスチャンの教理であると解説しています。
ヨハン ベンゲル 1687−1752年ドイツの聖書神学者
<新約聖書研究>が、”古い皮は”パリサイ派”を指し、
新しい皮袋とは弟子達、新しいワインとは福音を表している”
と提案しました。さらにベンゲルは、”福音の新しさ、ヨハネ2:1−11は人となって来られたジーザス。古い皮袋とは
トラー=モーセの五書に書かれた義を行うパターンの事である。
先のものは、古い型の従順が含まれている教えである。”
でもイエシュアは最初から、トラー=モーセの五書と福音とを
対比などさせて語ってなどいないし、先の型の義とイエシュアが
到来した事でもたらした新しい型の義などがあるなどとも
ここでは語ってもいないのです。別種の義の基準などない!
異邦人聖書学者が先入観、想像で語る内容を分析すると、
1世紀後半から登場した西洋教父達の思想をそのまま反映し
更には雪だるま式にその教えにこじ付け膨らませ続け
巨大な雪だるまを作り続けている事が聖書に戻ると見えます。
異邦人の世界の思想は全て反モーセの五書ありき!古い新しい!
異端者マルキオンの思想の様に古い教えと新しい教えが混在しているなどと言うずれた発想、思考回路から全てを語っています。
神の言葉は1つで同じ、最初から最後まで永遠に同じ事、
モーセの五書に書かれた義、愛、人の生き方、罪の定義、聖別の定義、全ての事は変わらない!と言う聖書の事実を見逃して
語っている、異邦人の世界の教えは大きな誤りを土台として考え続けているので真相が見えないのです。
イエシュアは、書写学者やパリサイ派の義を超えなければ誰も
神の国に入れないとずっと語っています。
それは、1世紀当時、彼の聖書解釈の中で考える”義”の基準や型が、神の言葉、教えで示すものからズレていたからです。
全ての人がではないですが、学者達が考えていた神の義と言う
もの、神が示す本当の人間の生き方と言うものを間違って
捉えていた人達が居たからです。これは現在も同じです。
神の言葉ではなく宗教の教えに変身させた教えは、もう純粋な
神の教えではなく、人が決めた様々な宗教臭い生き方です。
本当の意味で喜び=神の命に値付けない生き方の事です。
ルカが書き記した”ワインの皮袋のイエシュアのたとえ話”は
マタイとは違う内容が書かれていますし、マルコにも書かれて
いないものが記されています。
ルカ 5:39 まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。
古いものが良い。熟成したものと新しいものの味の違いが分かる
人は古い、ヴィンテージものが高価である事を知っています。
永遠に良い神の言葉は古くて悪くなるなどと言う異邦人異教徒
思想で聖書を読んでいたら、神が語る真実の本質が見えてきません。
言い換えれば、このマタイの9章で語られている内容は、
古いワイン=要らない、新しいワイン=いま最も望まれるもの
などと言う対比を話しているのではないのです。
両方の場合、ワインは同じものから出来ています。
グレープジュースが熟成してワインになる。
ルカによれば、古いワインの方がより良いと書いてあります。
ここで書かれている解説は全部弟子づくり、弟子を教育する事
に関して話しているのであり、神の永遠不変の言葉に対して
評価や査定など人間が下して良いなどと言う話など一切していないのです。人間が神の言葉に判定をつけて良いなどと言う発想
自体が異教徒思想上がりの異邦人の思想そのものである!と
言う事に気がついて下さい。神のトラー=モーセの五書を知る
残りの民=イスラエル達はそんな発想は非現実的、非聖書的
異教徒的思想である、誰もそんな事など考えてもいない!と言う
事実から聖書を読み直さないと真相が見えて来ないのです。
ここで書かれていることは、弟子教育に関しての教育事業と言う
ものなのです。
これを今の異邦人世界と照らし合わせてみても見えてきます。
人間の思想が混じった教えを刷り込まれてはいない12弟子達。
普通ユダヤ人のラビ、賢人達は既にタナックを専門的にラビ達に教育されている人達を弟子にするものです。素人は門下生にはしない。でもイエシュアは普通の一般の庶民を選んだ理由がここで述べられていることなのです。
新しい皮袋=伸び代無限、人の教えに汚染されていない頭脳に
天直送のトラー=神の教え、インストラクション=モーセの五書
に書かれた神の言葉の真意、奥義をその通りに教える。
まっさらな紙に神の意図通りだけを書き込む=まっさらな頭脳に神の教えを直にそのまま教える!それがイエシュアが普通の人を選んだ一番の理由、目的なのです。
だからイエシュアはトラーを成就=確立される!マタイ5:17
で語っているのです。破棄=意図通りではない教えを教えるのではなく、神の教えの本当の意味を確立して生きて、世界へ伝達
するために来た!と言っているのです。
この箇所え、異邦人クリスチャンの世界では、ジーザスはトラーを破棄しに来た!などと聖書に書いてもいない曲がった解説を
しているのです。その様に間違った教えを叩き込まれた人達に
いくら真実を説明しても、神が伝える真意など伝わらないのです。まず偽情報を削除して、まっさらにしないとならないと言う
作業がある。そんな面倒な事をする時間は無いから、イエシュアは、頭脳に間違った教えを叩き込まれた宗教家達を選ばずに
普通の庶民=頭脳が柔らかい、柔軟、神の言葉を受けてとる事の
できる良い地=まっさらな頭脳の弟子達を選んだのです。
異邦人クリスチャンの世界で言えば、反モーセの五書!その土台で語られる様々に曲がった聖書解釈や、神の教え、記念日、
はじめの愛を離れた異邦人の世界の宗教の教え、活動。マタイ
9章に語られているそれらに対比するものは、当時のラビ達の
曲がったモーセの五書の理解、解釈。それはハラハーと呼ばれる
口頭トラー=律法の行いと訳されているパウロも語っていた
その教え、詰まりラビ達が編み出した様々な教え=日々を生きる中でも彼らの考え指導に基づく行動の全ての事なのです。
新しい皮袋とは、人間の教え=宗教くさくなった、神の純粋な
言葉ではない、人の思想、教えに染まらないもの!
頭脳の事を話しているのです。
クリスチャンの世界では、古い皮袋=モーセの五書=悪い、古い廃れた、こう言う連想ゲームの上に聖書を読んでいるのです。
本当に新しい皮袋に交換して、今まで1度も聖書を読んだ事が
ないと言う意識で、どの箇所も神の言葉が神の言葉を否定し
敵対すると言う思想は、異邦人が1世紀後半から編み出し続けた嘘!と言うことに気が付いて、悔い改め=神の真理、言葉に
戻ることをしないとならないのです。
そうでなければ、偽のイスラエルの神像、偽のイエシュア像を
世界へ伝え続けているのに、その罪に気が付かないまま
行ってしまうからです。
盲人が盲人を手引きしたら両方穴に落ちると言うたとえ話は
まさにその事を言っているからです。
続く