様々な推測、憶測、空想、想像による聖書解釈、反モーセの五書ありきの異邦人クリスチャンの世界の解説を頭の中から一掃すれば、イエシュアが語っていること、教えている事、生きて見せた事パウロの書簡、その他の書簡、ヘブル書なども正しい理解が
出来ます。神が語る永遠の真実を覆い隠す教えや解釈解説は
聖書に反する教えです。
異邦人の世界で1世紀後半から語られ続けているはモーセの五書が廃れた!福音書〜黙示録には、モーセの五書とは違う新しい
最新式、最も優れた教えが初めて語られているのだと言う誤解、神話、創作話は、全て1世紀後半以降に出現したものであり、
異邦人が作ったものです。聖書の事実に戻り、人が神の永遠不変の言葉に対して改ざんし続けている事実を知り、歴史の中で神の言葉に対して異邦人がどんな事をして、どんな解説を編み出し
続けたのかを、1つ1つ聖書に基づき検証して行き、聖書に
書かれた永遠不変の事実を知れば、神が神が伝える通り、神の
言葉は永遠不変であり、神が神の言葉に自ら敵対し合う教えなど言う訳がないと言う永遠の事実を聖書から知る事が出来ます。
神への冒涜、神に敵対するとはどんな事でしょう?
神の言葉、神が伝えている真理に対して人間が敵対する事です。
神の教えていることに反する生き方をする事です。
異邦人は神の言葉は破棄されたと主張し、イスラエルの神像を
正しく他者に伝えていない=聖書には書かれてなどいない
イスラエルの神像を世界へ伝えてしまっているのです。
他者に神の言葉を伝えていると思いながら実は神の語る内容とは違うことを伝えてしまっているのです。人が真実を知ると言う事を妨害している、他者を不真実な教えに導いてしまっている。
こう言うことをしていることになってしまっているのです。
ある部分は聖書の真実でも、ある事は聖書の教えではない事を
語る。混ぜ物の教えです。本物と偽物が混ざっている教え。
進化論と同じく嘘が長年真実であると信じられ続ければ、
それを信じる人は容易に真実に目覚める事が出来ない状態になるのです。なぜなら脳回路の中に、反モーセの五書ががっちり
根付き、神の言葉をその様な歪んだ思想からしか考える事が
出来なくなってしまっているからです。
神は永遠の愛を持って人を愛す、愛すとはモーセの五書=婚姻
契約の中に書かれた永遠の約束、保証、神の言葉に基づき人と
関係を結ぶ!と言うことなのに、その婚姻契約の生き方の中身、内容、約束、保証を途中で破棄した、変えたと言う異邦人の教えこそ矛盾している教えであるのです。
二心の神、変身する神、コロコロ義の基準や教えを時代ごとに
人種別に変える神!そんなイスラエルの神など聖書のどこにも
記述されてなどいないのに、異邦人創作の教えは鋼鉄の様に固く人々の頭脳を支配し、その嘘を信じ続けているのです。
マタイ 9:16 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れが
マタイ9の次の箇所で語られる古い皮袋、この古い着物、布とはイコール、モーセの五書、古い教えの事であると空想、連想している異邦人の教えに繋がることでもあります。
マタイの解説はこの箇所の第二の例え話、寓話であり、前のたとえ話と繋がって語られているものです。
マルコ2:21とほぼ内容は同じです。でもルカはこのイエシュアの教えをマタイとマルコでは違う方法で解説しています。
誰も、新しい布切れを取って、古い皮袋に継当てしない
そうすれば新しい皮袋も古い皮袋も破れ、新しい皮袋の布切れも
古いものには継当てられないと言う解説です。ルカ5:36
マタイとマルコは継当てを、”縮んでいない布”と書いていて、
ルカは布は新しい皮袋から取ったと書かれています。
ルカは、新しい皮から取った、ただの新しい皮ではない。
ルカはこの様に、この比喩をもっとはっきりさせています。
古い皮袋を修正するために、新しい皮を破壊しないと言う事。
古い皮袋が悪いのではない。古いものは熟成したワインを入れて
いるので、伸びきっている。新しい皮袋に新しいワインを入れて
熟成しても皮は拡張出来るものである。
古い皮袋に新しいものを接ぎはぎする、性質の違う2つをつなぎ合わせたら、破けてしまいます。
1世紀当時は、ワインを入れるのは、陶器の”かめ”に入れる。
”かめ”は大きいので、小出しに持ち運ぶ時は、皮袋に入れたのです。古い皮袋とは、ワインが熟成して皮袋が広がったものです。
それ以上、広がらない皮袋=古いものです。
新しい皮袋には、新しいワインを入れても、熟成に沿って皮が
柔軟に広がる余裕があるものです。
前出のたとえ話で、花婿がいる間には断食する必要などないと
言う箇所と、そして新しい皮袋、古い皮袋という事は繋がりが
あるのです。
イエシュアは当時の一般のトラー学者の様な高等教育を受けていない、普通の庶民であった人達をイエシュアの弟子として選んだ理由がこの新しい皮袋と、古い皮袋の中で表されています。
花婿と居る=弟子選びの基準、弟子達への教育、訓練に関して
ずっと話しているのです。
イエシュアは初めから古い教え=モーセの五書=古い皮袋
新しい教え=イエシュアの最新式の教え=新しい皮袋と言う話
など一切していません。それどころか、聖書の中にはモーセの
五書とは異なる新しい教えなど福音書以降にも一切書かれてなどいない!と言う事実に目覚めない限り、人の作り出した教えで
イエシュアの語る真実さえも見えないままになってしまいます。
この箇所は異邦人クリスチャン聖書教師や聖書学者は、典型的な反モーセの五書ありきの解説=律法は破棄された!と言う解説に
使っている箇所でもありますね。異邦人の世界ではその手の解説のみしか存在しない、聞かされない。
いやイエシュアは、トラーを破棄しに来たのではないとはっきり
と言っているのに<マタイ5:17>、それなのに、マタイ5:17は、ジーザスは古い教えを破棄しに地上に来られたのだと
言い続け信じる学者達の解説が異邦人の中で聞かれる解説です。
マタイ9章の古い切れ、古い皮袋に関して典型的な異邦人クリスチャンの解説を代表する解説、ドイツの神学者、J.エレミアスが代表的な仮説を書いています。
トリニテイ神学校の名誉教授である聖書学者DAカーソンの解説も異邦人クリスチャンの思想を代表する言葉であるので、記載します。
新しい時代の教えには、古い教えは無用になったと言う解説ですが、イエシュアは父の言葉のどの箇所も否定などしていないし
するわけがない、する必要もなかった。万が一もしそんなことを
イエシュアがしたと言うなら、それは偽救い主、偽預言者である
証拠となってしまいます。救い主が、父の言葉=モーセの五書=聖書とはマッチしない行動、言動をしたと言う事になるからです。イエシュア=トラーであると聖書に書いてあるのに、自己否定する神?そんなイスラエルの神像は聖書には書いてないです。
カーソンが言うには、この箇所はイエシュアにより、紹介された新し状況は、ユダヤ教の上に便乗せられるものではない。
もしくは、ユダヤ教と言う古い皮袋に入れられるものではない。
新しい形はイエシュアの王国に繋がる事であり、ジーザスは今
王として君臨したのだ。新しい教えに慣らす為の取り組み、
ユダヤ人の宗教の母体に馴染ませるには、ユダヤ教とジーザスの教えをマッチさせ、融合させる事であると言うのですが、マタイの原文から全く的外れた空想の解説なのです。
この様な解説は注意深くイエシュアのたとえ話を読むなら、
古い教え、モーセの五書==古い皮袋=を破棄すると言う観点は、全く相容れない解説になっている事に気がつくべきです。
新しい布切れを古いものに継ぎはぎ出来ないのは、それでは古い
皮袋を修繕する事が出来ないからなのです。それどころか古い
革袋に付ける新しい切れは古い皮袋を破ってしまう事になるからです。言い換えれば、この目的は古い布を保存するためです。
ルカの箇所には違う事が書かれています。
両方の皮袋は重要である。目的は、古い布を一番良い方法で
保存して使える事。ここでイエシュアが伝えていることは古い
ものは要らないから破棄するなどと言う話ではないのです。
全く反対が真実なのです。古い布は正しく修繕されて引き続き
使用される。そもそも最初から、古い、新しいで、モーセの五書
と別の新しい神の教えなどと言う話などしていないのです。
イエシュアが話されたことはイエシュアの弟子達が当時のユダヤ人の間にあった、律法の行いと呼ばれる、ラビ達が編み出した
口頭トラーの教えに染まってなどいない一般の庶民であった事、宗教家の間に無い環境に生きていて、彼らの教えに忠実に几帳面をやっていた人達ではないことが大事なのです。
そしてイエシュアが12弟子をイエシュアの直弟子として選んだ
理由の1つでもあるのです。
人が編み出した様々な教えに汚染されていない、真っさらな
白紙状態の頭脳に、イエシュアの天直送のトラーの解釈、教え
生き方を弟子達に伝授する事が目的だったからです。
人の教えで色々書き込まれた用紙の文字を全部消してやる事は
大変な作業なのです。
こう言う事です。クリスチャンの世界で教えられている数々の
伝統的な教え、変えられてしまった様々な教え、聖書解釈、
オリジナルの神の創造した記念日、その他諸々を信じてやり続けた人には、神の言葉は永遠不変と聞いても聖書に書いてあっても、真実が見えない、反発しか感じないし、それが真実だとも
考えも付かない。私の辿った足跡はまさにそれでした。
聖書ではない教えなのに、あたかも聖書の教えだと教えられ続けてしまったから、書き込まれた偽情報を1つ1つ消して行かなくてはならない。でもその以前の情報にいつも影響されて
真実を見る、発見が遅くなる。
もし私がパウロ達の様な教師に信仰の始めから聖書を書いてある意味通りに正しく教えられていたならば、真実探しの為に
こんなにも遠回り=神の教え終了ありきの宗教の教えに汚染されずに、聖書に書いてある通りを直接知る事が出来たのにと言う
事です。
続く