どうして断食しないのか?の問いに対するイエシュアの答え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ9:14 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところに

きて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。

9:15 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒に

いる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。

 

この箇所は3つのたとえ話、または延長した比喩で書かれているものです。ルカには4つ目のたとえが付け足されています。

ルカ5:39

この箇所をもっと拡大して見てみると、全て”弟子を集める”と

いる事に関してイエシュアが話していると言うことに繋がって

いると言う事が見えます。

イエシュアは弟子となる人達が形成されて行く、やがてイエシュアが地上を去った後、彼ら弟子達がイエシュアの業を引き継いで

行くと言う事に繋がっている教えです。

 

 このたとえ話での解説は、花婿が居る場合、彼らユダヤ人の間で行われている”口頭トラー”も変わると言う事を話しているものです。そして次に来るたとえ話が古い布切れを新しい布切れを

継ぎ足してを直す事は出来ないと言う内容です。

これは次回解説しますが、この箇所は、異邦人クリスチャンの

間では、古い=モーセの五書、新しい=モーセの五書を終わらせた新しい教えなどと言う、とんでもなくズレた解説、解釈のみ

がされて語り継がれていますが、そんな事は聖書には1箇所も

書かれてなどいません。

 

性質の違う布を継当てする場合、新しい皮は古い皮布を破って

しまいます。

古い皮布に新しい布を継ぎ接ぎしてもこれは素材がマッチしていなのです。ワインを入れる古い皮袋は既に延びきっていて、

それ以上のキャパシテイ、容量がないものです。

その中に新しいワインを入れるたら発酵して古い皮をもっと

延ばしてしまい、古い皮袋を破ってしまいます。

 

これら3つの例えにルカはもう一つの例えを付け足しています。

”誰でも古い=熟成したワインを飲んだ後に新しいワインは

飲まない。古いワインは十分に良いものだからである。

”ルカ5:39

ヨハネの弟子達はイエシュアの元に来た、マタイはヨハネの弟子とそしてパリサイ派が断食に関して質問している事を省いています。マルコ2:18

 

マタイとマルコにイエシュアに質問しに来た事が書かれていますが、ルカは彼らヨハネの弟子とパリサイ派が、レビの家に集っている事、断食をしているから食事で集まっているのではない

状況である事を記載しています。マルコ2:18

 

彼らのイエシュアに対する質問とは、イエシュアの弟子達の

口頭トラーに対する態度、取り扱いについての質問です。

1世紀当時、ユダヤ人の中にあった習慣、”断食”について

ないがしろにしていると言う質問です。

ここで知っておく必要があるのは、トラーには断食の仰せは

ありません。断食とは、ユダヤ人の世界では、喪に服す時にするものです。ゼカリヤ7:5 8:15  b.Rosh HaShanah 18b

エルサレムの神殿崩壊に関して嘆き悲しむための断食。

又は家族、親戚、友人の死で喪に服すなど。

そして、大贖罪日には断食して困窮している人達と同じ体験を

するために断食し、貧困があるのはトラーをないがしろにし、

人を助けず見捨てている様なズレがある事を皆が意識して、

トラーに生きる事を戻るためにする日があります。

 

1世紀当時、ユダヤ人の間では月曜と木曜日を断食日として、

昼1食抜くと言う事をやっていたのです。これは神の仰せではなくて、彼らユダヤ人の中であった仕来り、口頭トラーです。

cf. b.Ta’anit 12a; y.Pesachim 4.1; Didache 8:1; ルカ 18:12

 

この様な自発的断食についてのポイントを、ヨハネはイエシュアに質問しています。イエシュアと彼の弟子達は彼らが断食した事がないと言う質問ではない事です。

もちろん、イエシュア達も大贖罪日には断食し、神殿崩壊を

国全体で嘆く日には断食していたからです。

でも自主的に断食する月曜日と木曜日を実践すると言う事は、

より高い敬虔さを表すものと当時は見なされていたのです。

 

もしイエシュアが悔い改めを教えていたならば、マタイ3:2

4:17、イエシュアの弟子達にこの自主的断食日に断食する

事を教えないのか?と言う質問なのです。

 

イエシュアの答えは花婿とそしてその婚姻の祝宴に出席する

人達に関してのたとえが含まれています。

ギリシャ語で”祝宴に参加する人々”とは、ヘブライ語で

 הָפֻּחָה י ֵנְבּ ,ブネイ ハフパと言う言葉、フパの息子=子供達と言う意味です。 cf. t.Berachot 2.10; b.Sukkah 25b  これは、祝宴に出席する人達が花婿の親しい友達、または結婚式の宴会参列する全ての人の事です。

 

イエシュアは、喪に服す嘆き悲しみのためにする断食で

なぞらえています。”花婿の婚姻の宴会に参加する出席者が喪に

服すなどしない”これは、祝宴に参加すると言うことは、

口頭トラーの決まりごとをする事が一時停止される事であると

言う意味があります。

 

イザヤ62:5 若い者が処女をめとるようにあなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる。

 
マタイのキリスト論は、イエシュアが約束のメシアであり、
終末の子羊の婚姻の宴をもたらす幕開けでもあるのです。
花婿が婚姻の宴の一番の注目を浴びる存在であり、イエシュアの
弟子達も婚姻の宴、花婿が居るのに喪に服して嘆き悲しむ=断食する事など出来ないのです。

バプテスマのヨハネは花婿と言う比喩をイエシュアとの関係に

付いて使っています。ヨハネ3:29

 

イエシュアの取り巻き、そして弟子達もこの花婿と言う意味を

そこまで理解していなかった事にマタイはそれほど気にかけて

いない書き方をしています。

 

マタイは単純に、マタイの福音書を読む読者がこの事実を把握する事を目的として書いています。イエシュアと共に居る、花婿と

共に居るこの事実は、将来やがて体験するほんの少しを先取りし

味わっているだけなのです。

そして、”花婿が取り去れれる時がくる、そうしたら断食する”

とイエシュアが言われました。

イエシュアの公のミニストリーが始まった当初も、やがてメシアとして受難する事にイエシュアは気が付いていました。

イエシュアの弟子達は、イエシュアは単なる他のラビや賢人とは

違う、イスラエルが待ち望んでいた約束のメシアである事、

そして終末に来るイスラエルにもたらされる最後の救いである事。そして、イエシュアが地上に居られると言う事は、彼らの

習わしである週二度の断食など一時停止されるものである。

花婿が存在しているのに、喪に服す嘆き悲しむ事を断食を通して

する必要などないからです。

 

続く

 

 

 

 

フパの下で挙式

婚姻の宴会 花婿が居る間は断食しない。

宴会で祝宴をする。