異邦人の世界で伝統で継承され実践されている教えは必ずしも聖書に根拠のあるものではない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉のどの箇所に対しても、時代ごとに変化するとか、

今は神の言葉のこの箇所は無効とする教えを信じる場合には、

信仰の土台は、神の語る教えではなく、人の創作した教え=

自分の判断、基準が全ての決め手となると言う事です。

そして、神の教えではなくて、異邦人の創作した聖書に根拠の

無い教え、または、聖書を変形した思想もたくさん取り込んで

いるにも関わらず、それらが神の言葉、教えでは無いと言う事に気がつかないままになっているのです。

神ではなく自分の悟りの方が優れている!神の言葉は、昇天以降自分で勝手に仕分けて好きな教えを生きれば良いと言う教えなのです。

 

その様な異邦人が編み出した教えは、1世紀後半から異邦人の

世界にどの様な思想、影響を与えて続けて来たのでしょうか?

異邦人=ユダヤ人の世界では、救い主を信じる人、信じない人

両方、その様な考えは一般的にはしません。

神の言葉は永遠と書いてあるからです。

ユダヤ人の中にも逸脱した教えをする人も大勢いますが。

そして神、神の言葉などに全く意識を払わない人もいるのです。

 

20世紀以降、異邦人の世界では、益々神の言葉から離れ、

神の言葉を熱心に求め学び、実際に神の性質を生きる世界ではなく、現象、不思議、高揚感体験追求、癒し、預言、印、奇跡などを求める世界へ移行してしまったのです。

神の言葉をどの箇所でも無用と考える意識は本当に危険な思想

なのです。永遠無限の神が人に語る、神の深い所にある神の考えを人に伝えているのに、その大部分を飛ばして読まないまま、

最後の後書き部分だけを読んで神の考えを知ろうとすることに

無理があります。

しかも聖書はほとんど読まないのが普通の事。今は霊に導かれるので何でも分かると言う、霊媒的な幻想思想を持ち、その教えを信じる多くの人がいますが、その思想を信奉する人に限って

聖書に書いてあることなど知らないままでいるのです。

いや読んでもいない。

人が語る聖書のある箇所の解説を聞いているだけ。

正直に聖書を読めば、福音書以降に書かれた内容は100%

モーセの五書の内容のみです。モーセの五書に反する新しい教えなど1つも書かれてなどいません。

預言書、諸書は100%モーセの五書を解説しているものなので、その箇所が引用されていても、それは100%モーセの五書を指して語っているのです。トラー、預言書、諸書の引用は

福音書以降には6000以上あるのですが、異邦人はその記述

に全く気が付かずに、モーセの五書とは違う、新しい教えが

書いてあるのだと考えて読んでいると思います。

 

そして、異邦人の世界で誤解されて解説されている箇所、特に

パウロの書簡の中身は、パウロが議論している論点はモーセの

五書を否定しているものでは一切ないのです。ローマ、ガラテヤコロサイ、コリントその他の書の中でもパウロが書いている内容を逸脱し、異邦人教師思想で解説=モーセの五書は終わりありきから聖書の全てを解説しているので、パウロが特定のグループに対して諭している内容が全然見ていないのです。

パウロがモーセの五書が終わりであると解説していると誤解している内容は大体次の様な事です。

 

1 割礼について<今はアヴラハムの割礼は無用し、意味が

なくなった。特に異邦人はしてはならないなど。パウロが語る

割礼とは、アヴラハムの割礼ではなく、1世紀当時のユダヤ人の世界にあったユダヤ人へ改宗する儀式の事=プロセライトの事です。そして改宗しなければ、義と認められていない、神の国の

1員にはなれない!と言う教えは、聖書では無いのでパウロは

神の前に義とされる目的のために、改宗儀式を異邦人がする必要などないと諭している事が、ローマ書にもガラテヤ書にも書かれている内容なのです。人は信仰を通してだけ義とされる。

救いは1つ、イエシュアを通してだけ!古代も今もどの時代も

同じ方法。アヴラハムの割礼は永遠に意味があり有効!義とされた人は神のトラー=モーセの五書に書かれた教え、インストラクションを生きる!これは永遠に変わらない真理です。>

 

2食べ物について<恵の時代は古い教えは終わりなのでなんでも

感謝して食べるのが恵の時代の人の生き方であると言う教え。

聖書には無い、人の言葉が挿入されたイエシュアの言葉、

全ての食べ物は清い<マルコ7:18−19>と言う箇所を読みモーセの五書は終わり!と異邦人は考えて、以前の律法は終わりと言っているのです。ユダヤ人は、食べ物と書いてあったらそれはレビ記11章に書かれた神の創造した人間の食べ物の中での

全てであるとちゃんと理解するのですが、異邦人はトラーを知らないので、全ての食べ物=神が人間の食べ物として創造していない食べ物も全部含まれると誤解して読んでしまうのです。

 

異邦人は今日からゴキブリを食べられる〜!嬉しい〜なんて考え無いと思います。そんなものは人間が食べるものであるなどとも思わないでしょう。ユダヤ人=トラーを知る人達には、神が清掃目的のために創造された動物=食べ物の目的では無い動物、

神の家の祭壇に捧げられない”汚れた動物”は、人間の食べ物などとは普通考えないのです。トラーで教えられている

人間の食生活=文化、生活の中に一般にも無いものだからその様な考えをしないのです。イエシュアがモーセの五書を破る事を

教えると言うなら、それは偽預言者、偽救い主であると言う事になってしまうのです。父から遣わされた子は父の言葉に反した

教えや、生き方などやらないし、人にも教えない!!!

 

そして使徒10:9−23のペテロが見た幻の意味を勘違いしているのです。そしてローマ14章の箇所で、弱い人強い人、

なんでも食べる人、野菜しか食べない人と言う箇所を読んで、

なんでも食べる=レビ記11章で神の定める食べ物以外全ての食べ物だと書いてあると勘違いして、異邦人の世界では解説されているのです。>

 

3シャバットや神の記念日について<恵の時代に生きる人は

以前の神が創造した記念日は無用になり、それぞれが好きな日を選んで好きなように礼拝すれば良いと言う。それでは神の聖別の

定義、基準は全く無意味、無くなると言う事に全く気が付いていないのです。シャバットこそイエシュアそのものを表すもの

人の生き方を表すものなのです。>

正直に福音書〜黙示録を読めば、彼ら1世紀の信者達が昇天以降も祝っていたのは、レビ記23章の神の記念日しか書かれていません。安息日=日曜日であるなどと書いてあると読み込みすれば

聖書の記述を書いてある通りには異邦人は読んでいないから

ので、変形された教えが伝えられて伝統で実践、実施されているだけであるのです。伝統=神の教えではないローマ=異邦人教父達が編み出した教えを実践しているだけと言う事実に気が付いて

聖書に記載されている真実に基づき考えてください。。

4 その他諸々の教え=神の教え、インストラクション=

モーセの五書に書かれた神の創造された神の似姿である人が

生きる全ての詳細が書かれている内容が、何であるのかも知らない状態なのです。

愛とは、それぞれが生きることを受け入れて批判しない事だと

勘違いしている。それぞれの思考、好みで生き方を選べば良い

などとも考える。

 

ざっとこんな所が神の教えが変わった事であると言う理由として

語られる内容だと思います。どうしてこんな考えをするのか、

先に書いた様に、1世紀後半から出現した異邦人教父達が、

モーセの五書=特にユダヤ的な要素が濃い異物=異教徒異邦人の世界には無い教えを実行する事、それらをするな!と、ローマ帝国から、そして、マルキオン、オーガスチン、イグナチウス、

クリソストム、中世ではルター、その後はダービー、スコッフィールドなどモーセの五書を排除した生き方をする事を人に教え、

モーセの五書に書かれた特徴的な生き方をする事に断固拒否反対を推奨する教えを異邦人に対してして、それを聞き続けているから、それが神の教えだとまるっきり勘違いしているのです。彼ら異邦人教師が異邦人にモーセの五書と決別=はじめの愛から離れよ!と教えたのです。黙示録2:4

 

昇天以降はモーセの五書が終わりなら、どうしてパウロや1世紀の信者達諸外国にいる人達にモーセの五書を教え、シャバットや祭りを祝っている事福音書以降の使徒の書簡にはっきり記されているのでしょう?

 

1コリント5、11章の箇所は、過越の祭りを祝うたびに

イエシュアがされた業を共に思い出して!とイエシュアが

言われた遺言です。

パウロはその遺言を、使徒達から聞いて、この箇所を書いているのです。

どうして今異邦人は過越を祝わず、ローマ教が4世紀に作った、

異教の女神の名をつけたイースターだけを祝うようになったのでしょう?それは異邦人は完全にオリジナルの聖書=モーセの五書

から離れた異邦人だけのグループ、ヘレニズム思想から聖書を

変えた教えを唱える教師に付いて行ったからです。

復活の命を祝う日は過越から3日目に最初からちゃんと神が

創造された記念日があるのです。初穂を祝う日。

神が神の言葉を変えた、終了したのではない。

人が神の言葉を変えたから終了したと勘違いしているのです!

終了したと言う教え、はじめの愛=モーセの五書から離れ、

ローマ帝国が作った教えや、記念日=日曜日礼拝、クリスマス、イースターだけを祝う事を伝統的に実践し続けているから、

昇天以降は神のオリジナルの教えや祭り、記念日が変わったと

誤解し続けているのです。

聖書の事実だけに戻って考えて下さい。人の教えは全部帳消しにしない限り、聖書の事実は見えないし、何が聖書で、何が人の

創作した教えなのかの区別、識別さえ出来ないままになります。

 

1コリント11章に書かれているパウロが教えている内容、意味は、過越の祭りの晩餐を実際に祝う人なら容易に理解出来る箇所です。

分裂している=それは、過越の晩餐は、順序と言う名前がついた

順番に過越に関連ある意味のある食べ物=出エジプト、苦悩、

贖い、救い、新しくされた人、イエシュアがされた業が表されたあの出エジプトでの出来事を表す食べ物を通して回想し、皆で

語り合いながら、順番に食し、4つの杯を飲む儀式なのです。

この箇所は、過越の祭の晩餐は皆同じ事を語り、考え、

そして1つ1つ過越の祭にちなむ、イエシュアのされた業を

表す食べ物を食べ、そして4つの杯を順番通りに式の進行に

従って皆同じ時に食べ、同じ時にその杯を頂くのに、

皆それぞれ一致せず、勝手にバラバラにやっている状態である

のです。

だから、ある人が酔っている、ある人は空腹と言う状態が

意味するのは、皆で同時に同じ事に参加して考え、この祭りの

祝いの意味を理解しないまま、それぞれが勝手に飲み食いしてるだけという状態である。過越の祭の意味を全然考えていない状態である事が、書かれています。

みんな自分勝手で人の事など考えてない。過越の祭の意味、意義を全然分かってないコリントの人達の状態をパウロは戒めて

いる箇所なのです。

 

マッツア=種無しパンは、罪=ハメッツ=要らないものが完全に削がれた状態=イエシュアの贖いの業により新しくされている

事実を表すものです。だからタネありパンで、過越ではない日にその儀式をしても、意味がズレてしまうのです。イエシュアが

された業、永遠からある完了の業は過越の祭の時に地上で

実際に証明として見せられた事実があるのです。

 

トラー、預言書に書いてあるイエシュアが実際に書かれている

通りの生き方=トラーを生きて、贖いの業を実際に人の前でして

下さった、それが過越の祭であり、それが出エジプトの過越の

子羊の血の贖いで表されて最初から教えられているのです。

同じ福音!違う福音はない。イエシュア以外に救いを得る方法

手段はない、イエシュアを通してでなければ、誰も父の元に来る

事は出来ない!とイエシュアが言われた通りだからです。

 

 

 

続く