タイムマシーンがあったなら  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャバットは神の創造した特別に取り分けられた=聖別された

永遠不変の記念日として、神は最初から人に紹介しています。

 

シャバットは神が造られた日、時、アポイントメントの日であり神に取り特別な重大で重要な永遠に祝われる記念日であると

紹介しています。神が永遠であると言ったらそれは永遠であり

歴史の途中で永遠と言う言葉が一時的と言う意味には変化しないのです。

聖別と言う言葉が聖書の最初に登場するのは神の特別な祝い日、シャバットを指して使われています。

 

神が全てのものを創造されました。神は時を創造し、人間の生きる時、暦=1週間は7日間とデザインし、創造しました。

その第七日目に人間は止まる!と言うことを創造したのも神です。だから神の創造も7日目で止まっています。

それは、神の性質通りに造られた人間も同様に、7日目に止まるからと、教えています。誰でも金曜日の夕方には止まるモードに

なるでしょう?理屈抜きで。

 

こんな単純なシンプルで明瞭な神の創造の事実を、

人間=異邦人は変えたのです。

それはイエシュアが日曜日に昇天したかも?と言うことで、

シャバットは第七日目から第一日目に変更したと言うのですが

シャバットとイエシュアの昇天日は何の関係もないのです。

シャバットはイエシュアの昇天日とは関係なく、変更なし!

シャバット=止まる事をする日だからです。週の第一日目は

仕事、活動日!止まる日ではない。人間の生きるデザイン、

神が創造された人間の中に初めから搭載されている性質は

変化なし!だからです。それとも昇天以降クリスチャンは進化

変化しましたか?神の言葉が進化、変化もしていません。

ローマ皇帝の日=主日=ローマの宗教の神々の日=日曜日に

シャバットが変更となったとローマが4世紀に決めた事に基づき神のシャバットを日曜日に人間が変更したと言う事実さえも

クリスチャンの世界では語られません。ローマ司教や

ローマ・カトリックの質疑応答の書には、はっきり、安息日=

シャバットを第七日目から第一日目に変更したのはカトリックですと自白しています。カトリックが永遠不変の神のシャバットと

記念日を別物に変更したのです。それを宗教改革以降もプロテスタントはカトリックと同じ記念日、祭り、教えを継承している。

だから1世紀のイエシュア、パウロ、使徒たちやイエシュア信者ユダヤ人、異邦人が生きていたトラーとは違う教えを生きているのです。

この事実をいくら伝えても、神がシャバットを変えたと

クリスチャンは信じ続けるのです。いや聖書に書かれた永遠不変の事実に気がついた人は、聖書に戻り考え始め本当の答えを

神から=神の言葉から見出しているのです。

 

異教の神々を信じる異教徒=異邦人の中には止まる!と言う

コンセプトがありませんでした。

止まる所を知らず、コマネズミの様に働き続け、努力の手を

止めない。それは神がデザインした人間の生き方ではない!と

言うシンプルな事実です。神が言われた通り、

人は神の指定された時に止まれ!と言う簡単な事実。

 

諸外国に住む場合、その国々はもちろんイスラエルの神の教え

通りには生きてないですから、24/7働き続ける事が良い事で

あるごとく、世界は動いています。ブラック企業は人を物の

ごとく扱い、人の都合、健康や家庭生活など考慮しない。

 

自分の理想、願い、夢を手に入れるため、大事なものを失って

いた事に人生の終わりに気が付く多くの人がいます。

なんのために、今まで馬車馬の様に働いたのだろう?

お父さんは子供の成長を見る暇もなかった。子供が小さい頃は

起きる前に出勤し、寝てから帰る。いつの間にか大きくなり、

共に過ごす大事な時間を失ってしまった。これは人間の生き方ではないけれど、社会が要求するから仕方ない。

人は止まる権利があるのに。レンガを積み上げながら、実はそれは虚しい努力であり、大事なものを同時に失っている事にさえ

気が付かない。シャバットをないがしろにする代償がある。

 

大事な事、自分と大事な家族、仲間、コミュニテイの中で神の

性質を生きて、互いにガードする、その関係と実態を育む事が

何より大事なこと。人が本当の意味で安息、満足する状態を得るのは、神の性質通りを生きる以外には見いだせないのです。

 

ローマ帝国では、第七日目に止まるユダヤ人を”怠け者!”と

言いました。シャバットや神の記念日に止まる!ユダヤ人は

怠け者。神は人に第七日目には止まる!と言う事を教えているのです。止まる!神が全てを与えている、供給している、神の性質

通りに生きる。努力の手!を止める。命を支えているのが神で

ある事を止まっている間に体験的に知るレッスンでもあります。

神がされた通り、6日間の内に様々な作業、努力、創作、ビジネス、勉強etc etc etc をする。それらの作業を、メラハーと言います。その他はアボダー。2つの性質の違う生き方が書かれていて、努力=メラハーを第七日目に止める!とあります。

 

聖書だけに戻って考えてみる事をします。

聖書には書かれていない教えを唱える異邦人=2000年以降は神の教えは変化して、終了したので、神の教え=トラーは

今は無効だとか、シャバットはいつの日でも良いとか、無効だとか、こんな事は聖書の最後の箇所=使徒たちが福音書、書簡を

書いている当時には話題にも上らない、誰一人として議題にもしない、そんな事など誰も語らなかった!と言う事実を発見して下さい。もし語るならそれは100%神に対しての完全なる冒涜であるとなってしまうのです。神が創造した事を人が異議申し立てし別物に変形するその恐ろしく危険な行為に気が付かないとならないのです。遺伝子組み換えと同じ。神の創造を塗り替える

作業する事です。人にイスラエルの神ではない性質の教えを

伝えてしまうことをしているのです。

 

シャバットがいつでも良いと言う教えは、聖書を知らない場合に

考える思想です。聖別の意味、神の宣言を無視している、聖書を知らない=人の考え出した非聖書的教えが聖書だと勘違いしているだけです。シャバット=止まる日、その日は第七日目で1週間の日の中で、第七日目だけ唯一神が名前を付けている、特別に

指定された、神の目的通りに取り分けられている日であると言う概念が全くないのです。それはデイスペンセーション神学の教えが唱える教え=2000年前の教えは無効!と言うダービーや

2世紀以降の異邦人教父達の思想の方を神の言葉を退けて、

信じているからです。神の目的=聖別とは違う、人間の勝手な

思想、都合で神の教えの方を曲げているからです。

もう1つは、聖書には、トラー以外の違う新しい教えなど

どこにも登場しない、書いてない!と言う事実を知らない!

と言う事なのです。福音書以降には新しい教えが書かれていると思うその超幻想的な教え=真実を覆い隠されている、聖書の最初に書いてある内容を知らないから、別の教えが書かれていると

思う、異邦人が語る曲解されたパウロの書簡やその他福音書以降の間違っている曲がっている聖書を解釈だけを聞いているので

福音書以降には別の教えが登場したと誤解しているのです。

 

全ては人間が創作した教えのおかげで、こんな事を説明しなくてはならなくなっているのです。タイムマシーンがあったら、

1世紀当時の人達が何を信じ、生きていたのか直接見たら、

今とはまるで違うトラー100%を生きている事を見るのです。

 

タイムマシーンが無くても、聖書を読めば、福音書以降も、

そこに書かれているのは、100%モーセの五書であり、

全ての信者がモーセの五書を生きている事実しか書かれていないのです。異邦人が聖書の事実通りを解説していない、誤解されている箇所は、書かれている意味を理解していない人が解説した

曲げられた教え=モーセの五書否定ありきの思想で、聖書の全てを考えている。イエシュアの言葉や使徒、パウロの書簡を、

”もうシャバットは破っても良い、記念日はいつでも良い、

モーセの五書は無用だ!割礼は無効だ意味なし、やってはならない、食規定も無しだ!汚れたものでもなんでも今や感謝して

食べてれば良い!”などと非聖書的な教え=人間の思想=完全なる誤解を土台に勝手な解説を異邦人がしているだけです。

 

だから聖書の永遠不変の神の言葉で書かれている意味を

ちゃんと知らないなら、異邦人が解説する、置換神学やデイス

ペンセーション神学の色眼鏡で曲がった聖書の事実だけを

聞かされ続けて、それが聖書だと信じ続けてしまうのです。

 

シャバットは永遠!神の言葉は永遠!こんな説明は聖書に登場する1世紀当時の人にはする必要などありませんでした。

1世紀の人達は誰もローマ帝国が4世紀に作った別の記念日=

日曜礼拝やクリスマス、イースターなど知らない、祝ってない。

モーセの五書を塗り替えたローマ帝国新興宗教の教えは

1世紀には存在さえしない。

神のトラーを否定する別の教えなど聞いたことも、生きたこともない。ローマ教の教えなど存在しない、もちろんトラーとは違うローマ教の教えを誰一人実践などしていない。

でも、その当時の、ユダヤ人が編み出した隔ての壁=律法の教え=彼らが解釈するトラーの内容の実践が、トラーに書かれている

意味とは違うものに変形していた、その様な問題が当時も

あったのですが、異邦人が語る様な、モーセの五書は廃れた!

などと言う思想は聖書に全く登場しない思想なのです。

 

進化論を信じる人に、神が全てを創造したと言う事実を伝えるのが大変困難な事と同じく、置換神学や、デイスペンセーション神学、その他諸々異邦人が1世紀後半から編み出した教えのおかげで神の教えが覆い隠され、人間の教えに塗り替えられてそれらが

1800年近く異邦人の世界で信じられ、実践されて来たので

嘘が大きくなる、そして信じて実践する期間が長ければ長いほど

それが嘘であり、聖書の事実ではないと言う事に気がつくのが

困難であると言うだけのことなのです。

しかもそれらの神学を信じて教える人ほど、その思考回路は

固まり、正しく聖書を読み直そうなどと考えるのが難しい。

 

聖別と言う言葉の意味は聖書の最後まで同じ意味で使われている

言葉です。それ以外の言葉、神の伝える言葉、定義も聖書の最初から最後まで全て同じ意味で貫かれて書かれています。

神の言葉が神の永遠不変の真実、誠実を表しています。

その事実の意味は、神は神の伝える言葉、定義を歴史の途中で

変化させていない!と言う大きな証拠です。

しかも、神の口から直接、神の言葉が永遠不変であり、人が

神の言葉の一点一画にも手を付けるな!差し引き、付け足す

するなかれ!と忠告しています。当たり前ですよね。

 

人間でも、自分が書いた文書を他人が勝手に変える、改ざんする事を許可しますか?しないでしょう。自分が伝えようとしている

意味が曲げられ、他者に伝わらない妨害でしかないからです。

それを人間が神の言葉に対してしているのです。何を自分が信じて、何を人に伝えているのかを考えないとならないのです。

 

聖書には書いてない、異邦人が勝手に編み出した想像の教えの

偽のイスラエルの神像を他者へ世界へ伝えてはならないのです。

そう言うことは気がついた人から、聖書に書いてある事実だけを

他者に伝える、コロコロ変化する偽のイスラエルの神像、

偽のイエシュア像をクリスチャンの世界で伝えているおかげで、ユダヤ人の間に大反発を生んでいる!と言う事に気が付かないとならないのです。

 

ユダヤ人で世界的に有名な誰でも知る人が、イエシュアと出会った瞬間に私の友人でありヘブライ聖書教師である人が立ち会いました。

その方が信じる瞬間に叫んだ言葉!”クリスチャンの世界で伝えられたイエシュア像が偽物、曲げられていた、嘘だった、トラーに書かれたイシュアではなかった、こんな妨害されたおかげで

イエシュアに気がつけなかった〜”とその人は大きな声で泣きながら叫んだと言っていました。えーん

 

そう言う妨害をし続けてはいけないのです。

コロコロ変わる偽物のイスラエルの神像は聖書ではない!と言う

事に聖書から気が付く必要があるのです。

ミスリプリゼント=イスラエルの神像、神の言葉を歪める、

間違った内容を伝える、偽情報を知らないまま、純粋な心で

あっても熱心さはあっても、不真実、嘘は他者へは伝えては

ならないのです。

 

続く