デイスペンセーション神学の聖書とは異なる思想の問題点は
1つ、1体である神の家族と言う聖書に書かれた真実を、
塗り替えている事です。神の言葉も1つではなく時代ごとに
変化すると言う、神の性質、神の言葉の性質に対して、
変化進化退化とすると主張している思想でもあります。
神の家族は真っ二つにバラバラ、分裂、2つ。
イスラエルとクリスチャン。天と地で永遠に分かれて分裂した
2つの家族が2つ別の場所を統治すると言う非聖書的思想。
でも聖書には何と書いてあるのでしょう?
人は一人の人=アダマ=土から創造されたアダムから、
世界の全ての人が出て来たと書いてあります。だから1つとして
繋がっている事実がずっと書かれています。そして最後は1つに戻る。エデンの生き方=神の性質通りの人間の生き方に戻る!
パウロもずっと、神の家族は主に在って1つ、1体と教えているのはその事実があるからです。全ての人は好むと好まざると互いに繋がっている事実があるからです。アダムとエバの犯した
罪からその後の全ての人が影響を受けている事実は、1つに繋がっている性質があるからであり、切り離せない。
互いに影響し合う存在だからです。
ズレを先祖代々全ての人が継承してしまっているのです。
最後は2つのステイックが1つに繋がる預言が書かれいます。
エゼキエル37章。神の国は1つしかない。
接ぎ木される=異邦人はイスラエルに接ぎ木され加えられると
言う事実しか聖書には記されていないのです。
その原型が、出エジプトしたイスラエルと少数の異邦人達でも
表されています。異邦人はイスラエルの12部族の中に一緒に
加えられ、共にイスラエルとして数えられていた事実が聖書には書かれています。
過越で同じ様に子羊の血で贖い出された=子羊の血を塗る様に
神の声に応答した異邦人、同じ救いの方法!同じイエシュアに
救い出された異邦人はイスラエルの中に加えられ出エジプト=
奴隷脱出して神の家族とされた事でも表されています。
その異邦人もイスラエルと共にシナイ山の麓で神と直接出会い、
神の声まで聞いた。神から婚姻契約を受け取った歴史的瞬間の
出来事に異邦人も立ち会っているのです。
過越はイエシュアがされた業です。その業を地上で2000年前
の過越の祭の時にイエシュアが実際に処刑され、救いの事実を
現実として見せて証明して下さったのです。
同じ1つの家族。同じオリーブの木に加えられた異邦人。
オリーブの木とオレンジの木?2つ別の木、二つの神の家族などと聖書には書いてありません。聖書に書いてある事を曲げて
解釈、解説する事が人造神学の教えの特徴でもあります。
ユダヤ人で救い主を信じたら、艱難を逃れられて永遠に天で
神の国を支配するとデイスペンセーション神学は言います。
それ以外の人、ユダヤ人、又は艱難時代後に救われた人は永遠に地上を統治すると言います。だから、信じたらユダヤ人やめなさいと言う教えを異邦人の世界では語られているんですね。納得。
イエシュアと共に居たい〜と願う、だからイエシュアは天と地を行ったり来たり出張する?と言う、天では時間は関係ない!?
次に会うのは一万年後?将来は物理的なものはなくなり、
全てが霊になりふわふわ浮く?自動ワープする?
そんな想像をしているのです。
デイスペンセーション神学の思想は、ユダヤ人=オリーブの木
イエシュアに接ぎ木され、異邦人は別のオレンジか桃の木に接ぎ木されると言っているのです。それでは同じ救い主に繋がる=
オリーブの木に繋がるのではなくなります。
そんな事は聖書には書いてありません。逆が書いてあります。
同じオリーブの木、イエシュアに異邦人も繋がる。ユダヤ人は
初めから自然のオリーブの木、異邦人は別の木で、オリーブの木に接ぎ木されると聖書には書いてあるでしょう?どうして人の
思想にそう簡単に、騙されてしまうのでしょうか?聖書に書いてある神の言葉に立つ、神の言葉の意味、書かれている内容を
しっかり書いてある通り、オリジナルから学ぶと言う事をして
いないからです。
事実ではない事を事実であると長年言い続けるので、嘘が本当だと固定化されてしまい、それを信じる人が数が膨張し続けているだけなのです。神の教え、最初の警告は、”騙されるなかれ!”
神の言う通りだけに生きよ!命の木からだけ食べて生きよ!
神の口から出る1つ1つの言葉により生きよ!
知識の木=神の目から見る通りではない別の見方を学習=食べて
生きてはならない。
同じ1つの家族。同じオリーブの木=イエシュア=イスラエルに加えられた異邦人。
ユダヤ人はオリーブの木で、異邦人はオレンジの木に繋がるなどと言う仮説、二つの家族の事など聖書には書いてありません。
ユダヤ人で救い主を信じたら、艱難を逃れ、クリスチャンと共に永遠に天で神の国を支配するとデイスペンセーション神学の教えは言います。それ以外の人、ユダヤ人、又は艱難時代後に救われた人は永遠に地上を統治すると言います。
2つは永遠に出会わない事になります。
こう言う思想は、エデンの園から救いの方法=イエシュア=救いはどの時代も信仰により救いを受け、聖霊が内側に住まっていた事実が聖書の至る所に書かれているのに、その記述に全く気が
ついていないのです。
使徒2章以降に初めて恵の時代になり、モーセの五書が破棄され、教会時代と言うものが出てきたと言うこの神学の仮説。
この教えに基づけば、福音書に書かれているイエシュアの教えは
当てはまらなくなります。だから、イスラエルだけへの教え!
トラーはイスラエルだけに有効なのだと言う別の援護策的解説を
編み出したのです。
福音書に書かれていることは100%モーセの五書だからです。
神は最初の最初から永遠から”恵” 許し、憐れみ、愛に富んだ神
と聖書には書いてあるのです。神が神の性格を途中で変える、
怒りの神、神の言葉を途中で変えると言う不誠実な神、
怒りと恵の二面相の神、それらも肉の目のままで見た異邦人の
発想、概念、ものの見方、認識でしかないのです。神が人種に
より、時代別の違う教えを与えると言うのは100%完全に
人間の発想!思想!
神の伝える神の考えとは全く異なる、空想、架空の仮説です。
使徒2章以降は、クリスチャンと言う今まで存在しなかった
新しいグループが現れたと考えているのです。
クリスチャンと言う言葉は福音書以降に三度出て来ます。
使徒11:15、26:28、1ペテロ 4:16
これは1世紀当時の”メシアに付くもの” ”メシアに属する”と
言う意味で救い主を信じないユダヤ人から付けられた1世紀当時のあだ名です。クリスチアノス=ギリシャ語。
1世紀に突然その様なグループが出て来たのではないのです。
残りの民=同じ救い=イエシュアを受けていた人はエデンの園の最初から存在していました。どの時代も残りの民は全て、メシアに属する人達であり、同じ様に信仰により義とされ、
イエシュアを知り、内側に聖霊を受けていた人達だからです。
クリスチャンと言うあだ名では呼ばれていないだけです。
デイスペンセーション神学や置換神学を信じる人は、救い主が
地上に現れて初めて人々が救い主を知ったと誤解、勘違いしているのです。
聖書には最初から救い=イエシュアが書かれており、どの時代も
同じイエシュアを知っていた残りの民が存在している事が
はっきり書かれています。最初を読まない、最初に書いてある事
を知らないから見えないだけなのです。
弟子たちもイエシュアがトラー、預言書に書かれた救い主である
事を、聖霊により知らされたと書いてあります。
トラー、預言書に書かれている救い主をユダヤ人はずっと待ち望んでいた事が記されています。今も待っている。
でもその救い主が2000年前に来られたあのイエシュアであると認識していない人達が居ると言う事です。
救い主の再臨=セカンド カミングの時に2000年前に刺し通されたあの方である!救い主であった事を知る!と預言されています。ユダヤ人ではなくても、イエシュアの事を聞いていた異邦人も噂の救い主が本物である事はイエシュアがエルサレムから
世界を実際に統治する様になれば知る!と言う事に至るからです。
1世紀当時は”ナザレ派”と呼ばれるイエシュアを信じるユダヤ人グループであり、イエシュアを信じる人も信じない人も同じパリサイ派の会堂に一緒に集っていたのです。救い主を信じるか信じないかなどさほど大きな問題ではなかったからです。使徒の記述にもある様に、ユダヤ人の間で問題になっていたのは、ナザレ派がモーセの五書を破る教えをしているのではないか?と言う
疑惑!!これが問題であっただけです。
そして1世紀は現代のクリスチャンの世界で語られる様なトラーは無効になったとか、怒りの時代は過ぎて恵の時代はトラーを
生きる人達は律法主義だとかそんな事など語られる余地もない、誰もそんな事を話題にもしないし考えにも上らなかったと言う事を聖書から知らないとならないのです。諸外国に居たユダヤ人のグループに混じる異邦人もパウロにトラーを教えられ、
シャバットや祭を祝っていた事しか聖書には書かれていません。そう言う事実を曲げて聖書を読むから空想話は後を絶たず
創作し続けられて行くのです。
エッセネ派、ナザレ派、パリサイ派、サドカイ派などが当時の
主なグループ。エッセネ派は、当時の祭司職がローマ帝国と連んで腐敗していたサドカイ派に反対し、サドカイ派の神の祭りの日程がずれているからとエルサレムから決別しクムランに移動したグループです。サドカイ派は、神殿にまつわる関わりをする
グループ、レビ族のグループでした。
2世紀以降、異邦人のイエシュア信者だけ独立したグループとしてユダヤ人とモーセの五書の教えと完全決別した異邦人単独グループが誕生したのです。
それらを教会、クリスチャンと呼ぶなら、納得行きます。
ユダヤ人イエシュア信者、もしくは異邦人でも、1世紀の使徒や
イエシュア、パウロと同じ生き方をする人は、自分はクリスチャンであるとは言いません。それでは何?と言う解説が必要になります。なぜなら、クリスチャンとはイコール、モーセの
五書と決別した、ローマ教が作った教えや記念日を信じて
実践するグループであると認識しているからです。
ユダヤ人は、プロテスタント、カトリック、モルモン教、
エホバの証人、それら全てを”カトリック”と呼んでいます。
カトリック=モーセの五書を否定するローマ教皇教の教えを
信じる人と考えているから全てが同じであると見ているからです。やっている教えや記念日や儀式が同じだからです。信仰の
根元がローマカトリック教の教えを土台としているから。
デイスペンセーション神学は聖書とは異なる主張、
ユダヤ人=オリーブの木に接ぎ木され、異邦人は別のオレンジか桃の木、別の木に接ぎ木されると言っているのです。
そんな事は聖書には書いてありません。逆が書いてあります。
同じオリーブの木、イエシュアに繋がる。ユダヤ人は初めから
オリーブの木、異邦人は野生の木で、オリーブの木に接ぎ木されると書いてあるでしょう?どうして人の思想に簡単に、騙されてしまうのでしょうか?聖書に書いてある神の言葉に立つと言う事をしていないからです。
神の言葉は、イエシュアは2つの別のグループがあるなどと
話していないです。常に1つ。神の性質と同じ1つ。
1つ以上で全く1つ。なぜなら、1つ=エハッドの性質である
神に創造された人間は1つの人から出て1体、1つ体と表現され、一人一人を体の各器官んで表されているでしょう。
続く