デイスペンセーション神学は、19世紀イギリスのダービーに
より編み出された教えです。19世紀までこの神学は存在して
おらず、空中携挙でクリスチャンだけが天に行く、ユダヤ人は
永遠に地上を支配し、クリスチャンは天を支配するなどと言う
空想的作り話仮説の教えなども存在しませんでした。
人の創作話=なんかゲームのシナリオ、ストーリーみたいで
創作シナリオとしては面白いですが、これ全部聖書の事実では
ない人の発想、空想、想像、創作なのです。
完全に聖書の記述とは異なる非聖書的な教えです。
時代を7つに分け、その時代ごとに別の神の教えが与えられた
別の救いの方法、別の教え、別の義の基準が与えられ、
次の時代に移行したら前の時代で教えられていた教えは無効に
なると教える。しかし神は永遠不変の神の教え=トラーを寝ても覚めても考えて、ガードして生きよ!と教えています。
永遠不変の神の言葉を真っ向から曲げ、冒涜的な教えであると
聖書から気が付く多くの人が今の世界には存在するのです。
イエシュア、使徒、パウロ、1世紀の信者達はこの様な考えや
教えなどもちろんしていませんし、話題にも上らない。
聖書だけに戻れば、この神学が聖書ではない、人の思想、
発想であると分かるのです。
進化論と同じく、伝統で語られ続ける嘘を覆すのは、よほどの
意識がないと出来ません。疑問に思う、自分で徹底的に調べ続ける。真実を知ろうとしない場合は、微塵にも疑問に思わず、
自分で聖書を読んで確かめようなどと言う気さえも起こらない
からです。
この不具合な神学は聖書とはずれているので、この神学は創作
当初以降からずっと手直し、改良され続けています。
最初から思想の土台が曲がっているから、聖書とは異なるから、
曲がった建物=教えが建設され続け、聖書とは辻褄の合わない
まるで漫画の世界のお話みたいな内容もあるのです。
この神学の教え=土台を一掃しない限り、真っ直ぐにはならないのです。
聖書を人の思想で読み込む、曲げると言う弊害、危険を学ぶには
良い例だと思います。でもこの教えはアメリカで20世紀に
爆発的に人気を博し、浸透し、そして神の言葉を塗り替える
解説=注解を入れた聖書=スコッフィールドチェーンバイブルが
出版されて、アメリカの神学校でこの思想=非聖書的思想を
教えられてしまい、その教えを学んだ教師がその思想を発信し
続けて、今に至るのです。
神の言葉の進化論とでも言うべき人の創作した教え。
永遠不変と神が伝える言葉を、進化形、変化形に塗り替えた。
だから多くの異邦人聖書教師、パスター、クリスチャンは
この教えが聖書であると疑いもなく信じているのです。
5 恵の時代
使徒2章シャブオートから軽挙まで<クリスチャンだけが
この世から取られると言う教え> これを教会時代とも呼ぶ。
怒りの神が恵のニコニコ顔の神に変身!
怒りの時代が恵の時代に移行した?恵の時代はモーセの五書は
道徳的教え以外は無効になったと教えます。でもその出所は
聖書ではない、神がそんな事など伝えてない事実を覚えておいて
下さい。ダービー、その思想は1世紀後半から既に異邦人教父達の教えに存在していた反モーセの五書と同じ思想!
教会と言う本来の言語の意味を反映しない造語は本当に弊害が
ある言葉です。
教会と言う造語のおかげで別の新しいグループが出現したと多くの人達に完全に誤解を与えているからです。
使徒2章で初めて聖霊が降ったと教える。
聖霊は最初から信じる者の内側に住んでいた事実が聖書には
書いてあってもその事実が聖書に書いてあるのに見えていないだけ。古代は人のうちに住まわない神?どんなに酷い神?人がどの様に神と関わりを持つかクリアーに教えられている、神が内側に住まわれ関係の中にある事実が書かれていても見えない。
神が特別な事をされる時には、大きな印象を与える出来事が伴っています。
そしてそれら全て、レビ記23章の神の祭りを巡り行われています。神の記念日は全て福音の業=イエシュアの業を表す預言的祭りだからです。
過越の祭り〜過越=出エジプト、子羊の血で贖い出された。
これが地上で表されたイエシュアの業であり、同じ”過越”の祭りの日にイエシュアは”屠られた子羊”として、木にかけられたのです。見えますか?イエシュアの業、福音の中心は、全て!
神の創造された記念日を巡り行われているのです。
未来の再臨も、秋の第七の月に行われる記念日と密接に関係しているのです。
シャブオート<ギリシャ語=ペンテコステ>は神の祭り=都上りの祭り=三大祭りの1つであり過越の祭の最後に来る春の祭りを締めくくる最後の祭りです。トラー=婚姻契約=モーセの五書が
与えられた事を記念する祭りです。クリスチャンはこの祭りを
”聖霊降臨祭”などと言う聖書とは違う別の名前を付けています。
聖霊は最初から信じる者の内側に住まわれていた!使徒2章で
初めて聖霊が降った、もしくは別種のレベルの聖霊が与えられた
などと言う教えも全て創作された教え。
しかも、信じた後さらに別種の霊を与えられようとして、
皆奮闘させられるでしょう。全部人の作り物の教え。
聖書からその事実に気が付いた方が安全です。
聖霊はガソリンポンプでエネルギー補給的な存在ではないのです。エハッド=1つなる神。
この祭りは呪いの律法で廃れたとクリスチャンは言いません。
なぜなら、このシャブオートでの出来事が教会時代の到来だと
信じているからです。
この使徒2章のシャブオートの祭りでの出来事は、モーセの五書=トラーがイスラエルだけではなく、これから全世界へ運ばれて行く幕開けなのです。
シナイ山で初めて文字で書かれた神の教え=トラーが与えられた同じ祭り=シャブオートと並行して考えたらここで起きた出来事がシナイ山での出来事を皆が思い出す印象深い出来事である事が見えます。シナイ山での出来事を思い出す再現。
シナイ山では、天がそのまま降りてきた!光、雷とサウンドの
大音響ショー。絶対に忘れる事など出来ない永遠に印象付けられる神との遭遇体験。世界へ向けて天と地を証人とし神の契約を人と結ぶ幕開け。イエシュアと直接顔と顔を合わせてモーセと70人の長老と共に婚姻契約=トラーを受け取った儀式がされた。
この時に今まで口頭で語り続けられた神の教えが、文字で書かれた神の契約書として初めて与えられた。
使徒2章で起きた出来事と並行します。この出来事でシナイ山での出来事を1世紀のユダヤ人は思い出したでしょう。
世界中の言語を話す人々へ、同じ福音=トラーが運ばれる幕開け
を意味しています。違う言語で人々が話した。
これは意味不明な言語ではなく、それぞれの国の言語、言葉!
トラーが世界へ運ばれる開幕式です。
この使徒2章の時初めて人の中に聖霊が与えられた!と誤解しているなら聖書を読み直したら良いのです。聖霊は最初から人の
内側に住まわれているからです。神の性質=人の中に存在する!
イマニュウエルと言う神の名でもその実態が表されているからです。そして荒野での旅路でも神が人々の間に住まっていた事実が
書かれています。
そしてシナイ山の出来事の方がもっとすごい事だったのです。
しかもその前の出エジプト=過越=贖い出された出来事も
近隣諸国の人達に皆知れ渡った大々的な出来事なのです。
神が直接介入してエジプトの奴隷状態から脱出させた。
これが過越の祭りで表されたイエシュアの業です。
紅海を真っ二つに割って安全にイスラエルと少数の異邦人を
行かせた。エジプトの軍隊は全て海に飲まれた。
神が直接人に話しかけた!神が直接降りて来られた。
聖霊が内側に住まわないなら、そうでなければ、
なぜ神を神だと認識出来るのでしょうか?
イエシュアが救い主であると気がつけるのでしょう?
イエシュア=救い主=神であると知る=あなたの中にいる
聖霊が知らせたとイエシュアも言われたでしょう。
それ無しに神が神である事に気が付けないのです。
古代の人も同じイエシュアを知っていた!知らない人もいた。
それは現代も古代も全く同じなのです。
しかも現代もトラー=イエシュアである事をどれほどの人が聖書の記述に気が付かない、知らないままでいるのでしょう?
ある事柄には全く気が付かない、聖霊が内側に住まれているのに神の重大な真理=言葉の意味に気が付かないと言うことさえあるのですから。
使徒2章以降から再臨までを教会時代とクリスチャンの世界では教えられていますが、教会と言う言葉も聖書には無い言葉、
異邦人が製作した完全なる造語です。
本当の言葉は、ヘブライ語、カハール=ケヒラ ギリシャ語=
エクレシア=群、神の言葉に呼び出され応答した人々の群れと
言う意味でありエデンの園から同じ!1つの家族!!それは聖書の最初から黙示録の最後まで同じ言葉なのです。途中で意図的に人造翻訳用語に塗り替える小細工するなかれ。別の種類の家族
グループ形成などとクリスチャンの世界では教えられますが、聖書にはそんなこと1つも書かれておらず、逆が書かれています。
最初から存在するイスラエルの神の1つの大家族その家族だけが
存在し全て信じる者はその同じ1つの家族に加えられる!
同じ家族、同じオリーブの木=同じイスラエルの羊の囲い=
同じ羊飼いの家に加えられる。
だから同じ家族は同じ家訓=教えを生きて、同じ記念日を祝う。
でも異邦人はその家族とは別の家族を独自に形成した、
オリジナルの家族=ユダヤ人、神のトラーから離れて違う
グループを形成=ローマ教という教え、ローマ皇帝の教えに
繋がった、そういう意味では造語で表される異邦人独特の教を信じるグループ=教会と言えると思いますが、聖書ではその様な違うグループは無い。
黙示録にある群れ 7つの群れ=エクレシア=カハールのうち
2つのグループの中に居た人達に神は奨励を送っています。
ユダヤ人、異邦人、神の伝える純粋な言葉、教えに生きる人達。
それ以外の人たちに対して、神のトラー=はじめの愛を忘れた!と警告されています。
その通りの事が1世紀後半には既に実際に起きているのです。
今も継続してそうです。神のトラーは古い律法であると言い、
そう信じて、他者にもそう教え続ける異邦人がいるからです。
黙示録2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛=トラー=神の教え=モーセの五書から離れてしまった。
黙示録は、コード化された言葉=トラーを知るユダヤ人にしか通じない、ローマには何を話しているのか分からない、隠語で話しています。バレない様にヨハネは書いているのです。当時トラーの話などしてバレたらローマに殺されるから、迫害されていたからです。今の時代で分かるでしょう。ある言葉を使うと、動画、記事は即座に削除されるので、その中に居る人に分かる隠語、造語で真実を伝えようとしている多くの人がいます。気が付いて。
はじめの愛=シナイ山で与えられた”婚姻契約”=トラー=父の
教え、インストラクション=モーセの五書の話を”はじめの愛”と言っているのです。最初の初々しい愛とか、信じた最初の愛とか様々な解説をしていますが、はじめの愛=モーセの五書!に
書かれた神の教えのことです。それを生きる事を捨て、忘れた人
達へ警告されているのが黙示録2:4の内容です。
特に異邦人は、最初からトラーに馴染みがない、そして1世紀の
ローマ帝国の迫害でモーセの五書を否定し、ユダヤ人の兄弟姉妹のグループと、トラーに書かれた教えと完全決別し、今聞いているデイスペンセーション神学の様な、異邦人が編み出した勝手な
聖書解釈=モーセの五書を否定する教え、神の言葉を忘れよと
言う教えを土台とする教師をリーダーと仰ぎ、非聖書的な教えが混ぜられた教えを聖書だと信じ、異邦人独自の宗教、異邦人だけのグループが形成されたのです。それを教会と呼ぶなら
それは別のグループであると納得行きますが。
イスラエルの神の家族は1つ、神の家族は神の教え=トラーを
生きる!と最初から最後まで同じ様に書いてある。
”はじめの愛”トラーから離れた!と警告されている通りです。
その通りの事が異邦人の世界で、そしてユダヤ人の中でも起きてしまったのです。
黙示録3:4 しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。
彼らは、それにふさわしい者である。
3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、
あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、
わたしの言葉=トラーを守り、わたしの名を否まなかったから
である。
汚さない=神のトラーに反した教えに染まらない人達。
純粋な神の言葉をガードし生きている人達。
3:10 忍耐についてのわたしの言葉=神の教え=トラーをあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、
全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
<神の教え=トラーから離れるな!と言っています。>
続く