イエシュアの教えを再検証 歴史の途中で人の教えを加える伝言ゲームを廃止する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書に書かれたイエシュアの教え、発言、行動、100%全て

父の言葉=モーセの五書に基づき話していると言う正しい位置に

理解を戻して聖書を読み直すと異邦人が語る聖書解説とは

全く違う世界が聖書では語られている事を発見します。

 

イエシュアは父を離れて何も出来ない、しない、語らないと

言った言葉は、父とイエシュアは一体であり、父の言葉=トラー

=モーセの五書に書かれた教え以外しない!と言う宣言を

されているのです。1世紀当時のユダヤ人達はモーセの五書=

神の教え、インストラクションであり、神の言葉は永遠不変で

あると言う聖書に書かれた事実、神が語った真理を皆理解していたのです。では当時のあるユダヤ人達の中で何がズレていたのかと言うと、いつの時代も同じ通り、神の意図通りではない理解

人の解釈、人の付け足した教えで伝統となり語り継がれるトラーの本質とはズレた教え=”律法の行い”と呼ばれる、人が編み出した教えを教えていた教師達がいたからです。今と同じ、大衆の

教え、人気教師の教え、イコール真実であるとは限らない、

いや逆の方が多い。人気の度合い、支持される度合いで、語られている聖書の解説の中身が真実かどうかなど判定してはならないのです。大事な事は聖書の事実に沿っているのか、聖書に書いてある真実かどうか!聖書=神の言葉だけが判定基準でないと

ならないのです。人は神を超えて権威になってはならない、

神の言われた事とは違う教えをしてはならないとイエシュアも

警告しているのです。

 

詰まり、人間の側での解釈が100%神の意図とはマッチしていなかった、当時の彼らの信仰や生き方の中でトラーに沿ったもの

もあったけれど、違う方向に逸れている教えがあったと言う事、

イエシュアが正しているのは、そのズレた教えであり、父の言葉

モーセの五書を否定しているなどと言う誤解をして、別の教えの人造宗教に変身してしまっているのです。

 

今も同じです。イエシュアを通して救われる。聖書の事実です。

イエシュアを信じたら、父の言葉=モーセの五書は無用、生きる必要がなくなった=これこそ100%人造の教えであり神の教えとは真逆の偽りの教えです。その様な教えは今イエシュアが目の前に現れたら、1世紀当時のズレた教えをしたユダヤ人達=伝統の口頭トラー=”律法の行い”の解説と同じく、イエシュアに

諭され戒めら、正されてしまうのです。

 

サタンの仲間内でも仲間割れしたらその国は立ち行かないと

書いてあります。尚更父に遣わされて地上に来たイエシュアが

父の教え=トラー=モーセの五書に反する、まして敵対し否定

する教えなどしたなどと言う発想自体が聖書ではない!!!と

いち早く気が付くべきなのです。子が父の言葉に敵対するために

地上にやって来た。聖書とは全く関係のない異邦人創作の何とか劇場のお話そのものです。ウルトラマン家族分裂の巻、漫画の

世界でもありえない話、その場合、ウルトラマンの話はそこで

終了してしまいます。

 

伝統的に1800年間異邦人の世界で語られる進化論的変化する

曲げられた神の言葉と言う思想の方こそを100%捨て去って

破棄して、永遠不変の純粋な神の言葉、教え、インストラクション=トラー=モーセの五書に書かれた純粋な神の永遠不変の言葉教えだけ戻って聖書に書かれている中身を確認しないとならないのです。もし聖書から真実を探る事を否定するならそれは

イエシュアに属する聖霊ではないのです。人を権威とする、

人間の創作した神学を神の言葉の上に位置付け、神の言葉を人の教えにすげ替える事をするならそれこそが神に対する挑戦冒涜的行為、思想なのです。

 

福音書以降がより優れた霊性の新しい教えなどと誤解している

事自体が、最初から聖書とはズレた思考回路である証拠なのです。聖書は最初から最後まで創世記から黙示録まで一貫して同じ事を話しているからです。しかも福音書〜黙示録の著者は

100%モーセの五書、預言書、諸書のみを指して考え、書いている、それ以外の教科書など存在していないからです。

途中で父の言葉を破棄し、停止し、終了し、別の教えを神が

伝え始めた!それは別の宗教=ローマ帝国新宗教が教えた教えであり神から出た教えなどではありません。

神は神の言葉で神の言葉の性質と神の性質をはっきりと人に

伝えています。

 

神には移りゆく影はない、変化しない、永遠不変、神の言葉は

完全であり人を生かし、変化しない。神が言われた通りを聞かない=人が勝手に神の言葉を変え続けているから間違った伝言

ゲームが繰り広げられ続けて行くのです。

最初のメッセージと最後の方で伝えられるメッセージが違う

聖書の書かれた時代とそれ以降、現代と別のメッセージ、生き方

伝えられているのは、それは途中の人が神の言葉とは違う解説を加え続けているからです。

 

目には目を マタイ5:38

イエシュアはモーセの五書とは違う新しい教えをしているのではないのです。

神の義は悪を働く人の上に正しく制裁されなくてはならないのです。でも同時に堕落した世界へ赦しと救済、慈悲が拡大されなくてはなりません。

ユダヤ人の賢人はイスラエルの上に慈悲、恵があることを喜びます。だから、人に対して復讐心を抱き、やれれた様にやり返すのだ〜などと誤解してはならない箇所です。

 

ここで語られている”目には目を” ”歯には歯を”と言うのは、

罪を犯したら、それの罪と同等の賠償が発生すると言う事です。

人の命を奪ったら、それは自分の命に匹敵する罪。

人の命を殺めたら、それは自分の命を殺めることに等しい。

目を奪ったら自分の目を。相手の目にダメージを与えるとは

その人の身体を損ない、生活を困窮させる事であるからです。

それ相当の同じダメージを自分の身にも被る代償、賠償と言う

重さがある。誰かを損なう、傷つけるイコールその賠償は

損なった事相当に値すると言う意味です。

でも同じ様に復讐せよなどと言っているのではないのです。

 

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言う。
悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
 
この箇所で書かれているのは、喧嘩をして相手に殴られろと言う
話をしているのではないです。ここだけ読むと暴力振るわれたら
無抵抗でヤラレっぱなしになりなさいなどと言っているのだと
誤解しますよね。事実異邦人の中にはそう考えている人もいるのです。1世紀当時のユダヤ人の世界、文化を知ると言うのは
そう言う意味でも必要な事なのです。
 
ここで話されているのは、公共の場で侮辱されると言う事に対して、そしてイエシュアが5章で話している問題は、全て法廷がらみの話です。公共の場で相手にを侮辱する行為、侮辱行為に
対する話です。普通の人が右の頬を打つには、まず相手の左頬を
自分の右手で打ち、平手返しで右頬を打つ行為に当たります。
 

イエシュアは当時のユダヤ人の中にあった法律〜教えから語られています。

ミシュナには5つの分野で誰かにダメージ、損害を与えた場合

に法的に以下の事が要求されました。

1 怪我を負わせた場合 2 痛みを負わせた場合

3 それに伴う医療費が発生した場合 4それによりその期間

失われた時間、労働、収入に対しての賠償 

5 侮辱罪にあたる罪をした場合   m.Bava Aama8.1

 

39節では、イエシュアは5項目目に当たる内容を引用しています。そして、ミシュナを引用しイエシュアは同じ分析、解説を

しています。

”もし彼が人を殴るなら、200銀貨を支払わなければならない。

もし手のひらを返して再び相手の頬を打つなら400の銀貨を

支払わなければならない。m.BavaQama8:6

 

イエシュアは公共の場で侮辱された場合の結末を軽減しているのではないのです。この様な公共の場で尊厳を侮辱される様な行為をされた場合の対処の仕方に付いてイエシュアが語っているのです。それは、金銭で賠償を要求する話ではなく、この様な侮辱に対しては、された側は謙遜な態度で相手に対応せよと言うことです。侮辱する相手に対して、同等の侮辱屈辱を与えて報復しようなどと考えるなかれ。

もっと言えば、"もう一方の頬を向ける”と言う意味は、

その様な報復意識、挑戦的態度無し、威嚇無しで侮辱する相手を法廷の中で引き摺り回すなかれ。謙遜と恵みにあふれた態度で

自分を侮辱する相手に、義とされている人の態度、生き方、対応を見せよと言っているのです。

目には目、歯に歯、賠償の損害の度合いは法的に初めから決まっているからです。償う内容の度合い質の話ではなく、

損害を与えた相手へどの様に対処するか?と言う事が論点です。

トラーにはどの様に償いの内容が決められるのかはっきり書いてあるからです。

 

この箇所で思い出すのが、ペテロの取った行為とイエシュアの

対応です。

 

ヨハネ18:10 シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。

その僕の名はマルコスであった。

18:11 すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。

 

ルカ22:49 イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、

 22:50 そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。

22:51 イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触て、おいやしになった。

 

怒りに任せて大祭司の僕マルコスの耳を切り落とした?!

イエシュアは、その時与えられた任務を飲むべき=杯を受けるべきと言ったのです。

 

1ペテロ2:21 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、

御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。

2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、

おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、

いっさいをゆだねておられた。

 

この究極のお手本、生き方はイエシュアの生き方そのものですね。無罪の罪で木にかけられ処刑され、公共の場で身ぐるみはがされてさらせれて辱められた。でも人に対して同じ様には報復しない、でも恵みと許しを祈ったあの態度ですね。

”彼らは何を言っているのか、しているのか知らないから”と。

この態度に学ぶと言う事でもあるのです。なるほどと思います。

暴力振るう相手にやられるがままに身を任せよ!などと書いて

ないのです。危険が迫ったら自己防衛、又は逃げる!

当然の事です。教えられている内容、教訓がまるで違う。

イエシュアが何を教えているのか見えない場合、聖書に書いて

ある意味を知らないまま想像、空想、自分の思想から読むと

聖書を誤解して行ってしまう良い例でもあると思います。

 

続く