人の創作思想ではなく永遠不変の神の言葉に完全に戻る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に書かれている全ては、聖霊により神の言葉を人=預言者を

通して書かれたものです。神の口から直接語られた言葉です。

そして直接神が言った言葉を人を通して書いているのです。

 

神は神の言葉を歴史の途中で変えてなどいませんが、

クリスチャンの世界では神の言葉は神が歴史の途中で変更した、

今は無効と本気で信じられているのです。神の言葉=聖霊により

書かれたもの=その中身=聖霊が互いに敵対し合うとでも

言うのでしょうか?それでは神の国は立ち行かなくなります。

 

聖書ではなく、伝統で語り継がれている人間が作った思想神学の教科書通り=非聖書的な教えを信じていては、神が語る永遠不変の神の教え=真相は見えないのです

 

それらは、置換神学や、デイスペンセーション神学で代表されるその反聖書=反モーセの五書=人造思想の根元は1世紀後半から

すでに異邦人の中に存在していたものです。

最初はローマ帝国の迫害を逃れる政治的理由から、異邦人が

モーセの五書とは決別し、否定した教え=反モーセの五書=

反イスラエルの神の教え、インストラクション=反父の言葉=

反文字で書かれたイエシュアと言う教えを、編み出し続けて来て今日に至るからです。

 

2つの大事な事実があります。聖書には最初から最後まで同じ

1つの福音、同じ1つの救いの方法、同じ神の性質、全て同じ

贖い、許し、恵み、愛etc etc が書かれています。

途中で変化した教えなど聖書のどの箇所にも書かれていません。

 

聖書の最初の70%の箇所に書かれている内容が引き続き最後の30%の中で同じ内容が短くある部分だけが語られているだけなのです。

福音書以降は別の新しい教え、別種の神=質、パワーの高い聖霊が現れたと言う異邦人創作の空想、創作話の方を完全に排除しない限り、聖書に書かれてもいない人の教えと言う幻想を信じ続けてしまうのです。

 

創造主、イスラエルの神は同じ1つの神、人間の頭脳、知識、

理解を遥かに超える説明不可の1つ以上で全く1つの神、

変化しない神、そして、福音書以降に書かれている内容は別種の新しい教えなどではなく、100%モーセの五書の内容であり、短い形式でモーセの五書、預言書で伝えられていたイエシュアの地上での生涯、預言されていた永遠からある完了の業を地上で

表して下さった、その事が使徒たちによって記され書かれているだけです。

 

1世紀当時、一言トラーの箇所のある冒頭を言ったらそこに書いてある内容、今で言えば何書のどこの章の話であるとすぐに分かる人達=ユダヤ人に話しているので、モーセの五書の内容の全部は福音書以降に繰り返しその詳細などは書かれていないのです。

 

もちろんトラー=モーセの五書に書かれた人間の生き方の全てはすでに記されているから、2度同じ内容を書き直す必要がないからです。罪とはの詳細の全貌も福音書以降には書かれていない。聖別と言ったらモーセの五書全体で書かれている聖別の生き方の意味を分かるユダヤ人が聴衆対象なので、罪の定義、聖別の詳細など福音書以降には書いてないのです。

 

そして神の言葉に対して、どの言葉でも否定する、無効とする

行為は、神に対しての冒涜、破壊的行為、神の国建設を妨害する

教えであると言う事に気が付かないと本当に危険なのです。

 

天の国と言う言葉は、天=神と言う意味です。神の性質を生きる事が地上で行われますように、神の性質を生きる人の中から

天=神の性質、神の国が現れ出てくると主の祈りの中にあるのに、神の性質を生きる事を妨害する行為をする、天=神に対して

反逆的行為だと聖書から気が付かないなら、神の教え、言葉に

対して眠った状態になっているのです。眠る=目覚めていない=

神が何を人に教えているのか気が付いていない状態。神の言葉を否定したら真実が見えなくなる、その状態に導いているのは、

エデンの園のあの正体以外にありません。神が神の言葉を無視

せよ!却下せよ、否定する様に他の人にも教えよ!などと、

いつどこでどう神が教えていますか?聖書には書いてない。

人の教えの教科書には書いてありますが。

Wake Up 目覚ましコールが鳴っていても耳にも響かなければ

眠ったままになります。

 

聖別とは、神の子らに与えられた性質、生き方なのです。

聖別=カドーシュと言う言葉は、神の上に神の性質通りを生きる

事に撮り分けられる、区別される、神のものでないものと境界線を敷かれると言う意味であり、汚い綺麗などと言う言葉では

表せないヘブライ語です。

 

わたしが聖である様に、あなたも聖でありなさい。

聖=神に聖別された状態に留まり生きなさいと言う意味です。

神が内側に住まわれるその状態を、汚さない、破壊しない、

神の性質とぴったり同一状態でありなさいと言う事です。

その聖別の意味を捨てたら、何が神が伝える聖別の実態であるのか何も区別出来ず、自分定義の聖別を生きて、神が伝える聖別とはずれたものを生きて、自分の中で勝手な自己満足、

解釈に陥ってしまうのです。

人の創作した聖別は神の前に100%無意味だからです。

 

聖別と言う言葉が最初に使われたのは、神の創造に対してです。

神の創造した時に対してです。第七日目!!!神が聖別し、

これを永遠に神と神の創造物=人と共に祝う、動物さえも

この日は止まらせて!と書いてあります。神が止まられたから

人も止まる様に。わたしが聖であるから、あなたも同じ状態=

聖でありなさいと言われています。それが神に属する神の性質

通りの人の生き方であると神が教えているのです。

 

その聖別を汚しても良いと考えるのは、神の言葉をないがしろ、

軽く取り扱って無視しているから、神の目の前にズレ=ハタ=

的外れでも全く無感覚、無関心、いや頭の中のそれが罪であると言う考えも、それらが神の前に罪である行為であると言う発想

さえ登らないわけなのです。

神の前に罪であること=聖別を汚してもな〜にも感じないほど

鈍ってしまっている。それが神の言葉を捨てる代償、結末です。

 

それは人が作った別物の教え神の言葉の真実がにすり替えられて、神が重要、大事であると言う真理に関心を払う邪魔をされているからです。

 

エデンの園のアダムとイブに起きた出来事と同じです。

 

食べる事、飲む事、新月、シャバット、祭りこれらは聖別を

表す代表的な生き方であると聖書では説明しています。

つまり人が生きる基本、そして神が神の創造物、記念日を通して聖別と言う性質の意味を教えているのです。

日々生きる=神の口から出た1つ1つの言葉により、生きる。

神が言われた通りに生きる!神の言葉、教えを食べて人は生きる。そして肉体的にも神の創造された、人が食するものに

ふさわしいものだけを取り入れて、神が創造された人に相応しくないものは頭脳にも肉体にも取り入れて生きてはならない。

それらはあなたの全存在=物理的にも霊的にもフィットしないものだから!それらをする事はあなたではありません、これこれはあなたの体とあなたの全存在にフィットする性質であるから

それらを生きると言う神が伝える単純な教えを退けてしまっているのです。

 

問題の根は、神の言う事を律法律法と言い続け、素直には聞いていない、聖書に書いてある通りを額面通りには受け取らず、

却下している。都合の悪いこと、自分に納得いかない、自分の

慣わしにそぐわない、馴染みのない教えなどは聞きたくない、

自分の悟りに頼る、神の言葉ではなく、自分の判断が全ての中心と言う事をしている。

ローマ帝国が作り出した伝統の教えを聖書であると勘違いして

いるだけと言う事なのです。

 

神の言葉をどの部分でも直接否定する=正義=イエシュアの業で神の言葉は無効になった、今は恵みの時代であると言う完全に

歪んだ非聖書的思想、正義感により発想される思考より

この様な事が起きるのです。

 

置換神学は、異邦人が2000年前以降、契約を受け継ぐ

イスラエルとすげ替えられたと教え、モーセの五書を完全に否定する思想です。だから、完全な生贄が捧げられたのだから未来の第三神殿は要らない、イスラエルと言う国も要らない、

イエシュアが世界を統治する必要もない。使徒行伝読んでみても、この教えは辻褄が合わないでしょう。使徒たち、当時1世紀の人達は70ADに神殿が崩壊されるまで、変わらずにエルサレムの神殿中心に全てが動いていたのです。そして生贄も捧げられた、シャバット、祭りが神殿で行われていた。パウロも神殿で

生贄を捧げ、ナジル人の誓いを果たしていた。

この事実をどう説明するのでしょう?

 

動物の血は罪を消さない!と書いてある通り、その目的は罪の

贖い、許しが目的ではないから!です。そして動物の血は神殿の祭壇での儀式は、永遠の中に存在する、完了しているイエシュアの業を実際に目に見える形で人々に教えているものなのです。

 

どの時代の人もどんな人種でも、神の永遠の中に完了している

イエシュアの業を信仰により受け取る人は、新しい人とされて

いる事実、神へどう近づくのか、人とどう和解するのか、

新しい人は古い人で負った過去の傷を神の前にどう修復し

癒されるのか?その他諸々神の家族の姿を教えている学習ツールなのです。

神殿の中での出来事、生贄は罪の赦しのために行われているのではない、目的が違うのです。

 

しかも聖書=預言書にははっきり未来預言で第三神殿で神の祭りがされる、動物の捧げ物がされる、イエシュアがエルサレムから世界を統治する事が書かれています。

 

どうしてイエシュアが地上に来られなくてはならなかったのか?

どうして未来にイエシュアが地上で統治しなくてはならないのか?

トラーを知るユダヤ人なら分かります。異邦人は思想の世界です。異邦人の世界は”あなたの信仰、事実を伝えて下さい!!

それだけです。

でもヘブライ=聖書の世界は事実を実際に見せて!下さいの世界なのです。

 

これ見える事実があります。イエシュアがどうして永遠の中に

完了する業を地上で見せなくてはならなかったのか?伝えるだけ

なら、それだけでは人間には不十分な理解になる証拠とならないからです。トラー、預言書で語られている永遠の中に完了完結している贖いの事実=イエシュアの業、イエシュアの生き方を

実際に地上で行い見せる必要があったからです。

 

そしてイエシュアがどうして自分は救い主とあからさまには

公に宣言しなかったのか、又は遠回しに伝える、又はある一部の弟子、理解出来る人にしかしなかった理由が見えると思います。

 

救い主である証拠は、自分が救い主だ!と言う事では証明出来ないからです。救い主と言う証拠は、救い主であると言う事実=

モーセの五書、預言書に書かれたイエシュア=救い主である実態を実際に生きる事で証明出来るからです。トラー、預言書に書かれた内容を生きる、地上で見せる事、それが救い主である唯一の照明、証拠、根拠=エビデンスとなるからです。

 

イエシュアが地上に来られて統治するのも同じ意味です。

 

続く