イエシュアの新しい教えで呪いの律法が置き換えられたと言う異邦人創作話 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1800年近く異邦人信者の世界で作り出された、語り継がれた

教えの数々は、実は聖書に全く根拠のない異邦人により創作された教え、異教の思想、ヘレニズム思想を土台とした聖書の事実を曲げた読み込みにより編み出された解説に過ぎないものです。

 

2000年以前イエシュアが来られるまで、完全な救いが無い、仮の赦しのために動物の生贄が捧げられていただけであると言う

教えは非聖書的教えです。そんな事聖書では説明していない。

書いていない、神の言葉の事実とは異なります。

 

2000年前以前の人々は、動物の生贄を捧げる事で、罪が仮に許されていた、又は以前の人々はトラー=モーセの五書を生きる事で義とされていた、救われたなどと信じていませんか?

又は聖書教師にその様に教えられて来ませんでしたか?

 

2000年前以前の人々の中には聖霊は住まわなかった、

もしくは特別な人だけの中に聖霊は住まわれた、実に勝手な聖書の読み込みです。聖書には全ての人が登場して来ませんから、

自ずから預言者など、又は一般人ではルツ=異邦人などが特別な

登場人物として書かれている、それらを特定の人しか聖霊が与えられないなどと読み込みしているのです。全ての人に同じ救い=イエシュア=1つの道1つの救いの方法、手段、1つの福音しか無い!と聖書には書いてあるのです。異邦人の解説する聖書は

それとは別、全て2つ!と説明しますが、非聖書的です。

別の方法の救い、許し、イエシュアが来られた前と後とでは

違う教え=古い教え=別の義の基準そして、2000年以降は

古い教えは取り去られたなどなど、全部異邦人西洋教父達が唱えたヘレニズム思想=ヘブライ思想とは異物の思想を通して

聖書を曲げて解説を聞いているだけなのです。

 

これらは全て聖書に根拠のない教え、非聖書的教えなのです。

聖書にはそんなことは書かれてなどいないのです。

聖書の事実だけに照らし合わせると、辻褄が合わないことは

明らかになるのです。

 

クリスチャンの世界で語られる預言書の解説など、全て霊的寓話

比喩にすり替えられて事実が曲げられて語られています。

なぜその様な聖書の読み込みをするのか?それはプラトンや

アリストテレスなどの西洋哲学思想を学んだ異邦人教師が聖書を曲げて解説した教えだけを、2世紀以降から異邦人の世界では

ずっと聞かされ続けているからです。

だからそれが聖書の事実であるなどと勘違いしているのです。

 

その様な思想を土台に=全ては霊的寓話、比喩であるなどと考えて預言書を読めば、書いてある内容と全く辻褄が合わないことは

明らかです。その土台には、置換神学があるのです。

イスラエルは異邦人代表にすり替わった。だからもうイエシュアが来られた後は、物理的なイスラエル、神殿、イスラエルからのイエシュアの統治は無用と解釈していますが、それらの思想は

聖書に全く反した教えでもあるのです。

 

2つ別の救い=2つのイエシュア、2つ別の救済策、

2つ別の福音、2つ別の教え、2つ別の契約、2つ別のグループ

そんな事が聖書に書いてあるなどと考えるのは、神の言葉が

異邦人の思想に覆われてしまって、別の教えが聖書であると

信じ込まれているからです。

 

”わたしが道であり、真理であり、命である”と言うイエシュアの

宣言は、トラー、預言書に書かれた事実を言っています。

肉体を取って来られたトラー=イエシュアと書いてあるのです。

トラー、預言書に書かれた救い主、道=トラーに書かれた救い=

イエシュアが地上に現れたからです。古代も現在も未来も

永遠の中にある神=イエシュア=完了の業の実態は同じなのです。時系列上にある時まで救いが完了していなかった、ある時期まで救いは有効ではなかったと考えているから見えないのです。

見ずに信じる、神が提供する事実を見ずに信じるものは幸い。

永遠の中から全てが完了完結している。どの時代のどの人種でも同じ様にイエシュア=救いを得ていたのです。

なぜなら救いの方法は1つだけだからです。イエシュアの業を

通して、上から生まれる!聖霊は信仰により受け取る人の内側にもれなく住んでいた。イエシュアを通して以外、聖霊は内側に

住まわないのです。どうしてイエシュアが分かるのか?モーセの五書、預言書に書いてある!とイエシュアが言っているでしょう。神の口から直接伝えられた同じ教え、同じ福音=トラーを

聞いてアヴラハムはまだ見ぬイエシュアの日を楽しみ喜んだと書いてある通り!

耳あるものは聞く、神の語る言葉を意味通りに受け取り知るものは神の真実を悟る!

これは過去も今も未来も同じ条件なのです。

 

完了の業は創造の6日の間で物理的にこの地上に全て神の業が

揃って出現したと言われた事実でも表されているのです。

その事実を記念し、神が全ての業を終えて止まった、神と創造物全てと祝った第七日目がシャバットであり、その証拠が印としてその記念日を通しても表されているのです。

付け足すもの何もない!完了!7=完全と言う数字で表されている実態なのです。別種の救済策も、別種の教え=義とされる基準も別種の人間の生き方も、救いの方法も無い!1つ!道は1つ。

福音は1つ、イスラエルの神の家族は民族を超えて1つ。

皆同じ家族、木=イエシュア、同じ羊飼いの羊の囲い=イスラエルに加えられる!としか書いてないのです。

 

そして、生贄を通して仮の罪の許しが与えられていたと言う

誤解した前提で聖書=レビ記を読んでしまっているので、聖書に書かれた意味、事実が覆い隠されてしまっているのです。

最初から”動物の血”は罪を消さない!と言う事実を神が語って

いるでしょう。では何のためにそんなことをするのか?

動物を祭壇で捧げるのは仮の罪の赦しのためではないのです。

しかももし神に近づきたいのならと言う書き出しです。

神との本当の関係に入り、本当の生き方を見出したいならばと

言う事です。

イエシュアが地上でされる贖いの業、そして、罪許されて義とされた人の実態、神にどの様に近づくのか、どの様に修復するのか

新しくされた人の事実、人との修復の仕方、神の前で嘆き悲しみ癒されるプロセスを実際に祭壇の前で体験する、自分の手で

動物を屠ればどんな体験をするのか?何が見えるのか?

様々な事を教えられる学習ツールなのです。

 

キッザニアと言う体験型商業施設があります。そこでは子供達が

実際に社会で大人がやっている様々な職業を実際体験して学ぶ事が出来ます。

神殿での出来事もそれと同じです。学習ツール。天にある神の家に住まう事の意味、イエシュアがされた業の意味、新しくされた人は神の目にはどの様に写っているのか、神にどの様に近づくのか?どの様な意識で神に近づくのか?神の前に自分が真っさらにされている事実を実際に動物の捧げ物を通して、動物が焼かれる様子を通してそして最後にはバーベキューされた動物を祝宴の祝宴として一緒に食べる。神に受け取られ神の家族とされ神の家の一番親しい場所で交わり宴会をする。

様々な事を神の家の中の儀式で教えられているものなのです。

 

もし、動物の生贄はイエシュアが昇天した以降無意味になった

第三神殿は無い<聖書には逆が書いてあります>エルサレム

イスラエルからイエシュアが将来世界を治める=これが霊的比喩

寓話化するなら、聖書に書いてある意味は見えません。

しかも昇天以降も70ADまで神殿は存在し、

使徒、パウロ、信者達は変わらず生贄を捧げていたのです。

辻褄合わないことに気が付かないとならないのです。

罪の赦しのためにそんな事をしているのでは無いからです。

もし聖書に書かれた通りを見ないなら、書かれている意味は

曲げられ続けて行ってしまい、神が伝える真実は通じないのです。エゼキエル40章〜46章も全く意味不明になります。

エレミヤ31章も、イザヤ書52章〜61章、ゼカリヤ18章も意味不明になります。

これらは実際未来で実際にこの地上に起きる未来預言だからです。

異邦人の世界で教えられる教えは、聖書ではなく非聖書的な

人が創造した教え、解釈、神学が教えられているのです。

聖書=神の言葉だけから語らせることをしないで、人の解釈を

挟んで聖書に書かれたそのままの真実を覆い隠しているのです。

 

人の神学色眼鏡を通した教えは、やがて消えます。

人が聖書の事実だけに戻れば神が伝える真実に必ず気がつくからです。聖霊が神の言葉を通して教えて下さるからです。

聖書を曲げた教えは神が語る真実ではないからです。それらは

人から出たものであり神の教えではないものはいずれ取り去れないとならないからです。光に照らされたら闇は消えるからです。

 

置換神学やデイスペンセーション神学の根は異教徒思想、

ヘレニズム思想、聖書をイスラエルの神像を分断し、分裂させ

聖書とは違う2つの福音、2つの契約、2つの家族、時代ごとに

違う義の基準、2つ別の教え、そんな事聖書のどこにも1つたりとも書かれていない事を、あたかも聖書がそう言っているがごとくに語り続けているだけです。進化論と全く同じです。その教えは聖書の進化論説です。それは永遠不変の神が語る永遠不変の

神の言葉、契約ではないのです。

 

単純です。神が一度でも神の言葉は完全であり、人間がどの言葉にも手を付けることを禁じ、永遠にガードして生きよ!と

言われたら神は途中でその言葉は変えないのです。

神は神の言葉を変えていない。神の言葉を変えたのは人間!

その神の一言は1000%信頼に値する言葉、掲示、声明であるのです。

それなのに、異邦人は神の言葉を否定する逆の教えを唱えながら、神の言葉を軽くあしらい取り扱い、注意も払わず、読まず、聖別された生き方、神の教えに決別し、異教徒と何も変わらない様な生き方に1世紀後半から以降して行ってしまったのです。

 

イエシュアの教えで、古い教え=モーセの五書は差し替えられたと異邦人クリスチャンの世界では教えられます。

ユダヤ人イエシュア信者の世界では、諸外国に住み、

よっぽど西洋思想に洗脳されていない限り、神の永遠不変の教え=トラー=モーセの五書を否定する教えなどしません。

否定どころかイエシュアが教えていた教えは100%モーセの五書以外にない事実を知っているからです。聖書は読み手により

人種別、時代別に変化するものである訳がないのです。

 

異邦人の世界ではイエシュアの語られた言葉から、イエシュアが100%モーセの五書を話しているなどとも全く気が付いて

いない盲点があるのです。

イエシュアが、モーセの五書とは別の教えをしていると勘違いするのは、モーセの五書に書かれている内容を本当には知らないから!と言う単純な理由なのです。例えば日本人なら誰でも知っている様な曲、ある年代の人がその当時皆聞いて知っている曲など

全部の歌詞もメロデイーも覚えていて歌える歌がある。

その曲の途中の数小節だけを聞いてもそれが何の曲であるか

分かり、最初から最後まで歌えるそれと同じ事です。

 

 

 

続く