ヘブル4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことに
ついて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と
言われており、
4:5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることは
しない」と言われている。
4:6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順の
ゆえに、はいることをしなかったのであるから、
4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
4:11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。
4:12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
4:13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの
告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
ヨシュアが与えた”安息”=休みとは、他の日の事ではないと
書かれています。
著者の言う言葉通りに、神の子らに”シャバットの安息が残されている”と言う事です。どう言う意味?
ここで分かる事は著者はモーセの五書に書かれた安息の話を
していることです。太古の人達はイエシュアをどの様に教えられたのか?それが全部モーセの五書に書かれています。
ヘブル書の著者はトラー=モーセの五書に書かれた歴史的内容
話をよく熟知してこの箇所を書いており、特に申命記に関して
書いています。
”安息の休み”ここで強調している背景には申命記12:10が
あります。そこで神は特にイスラエル=神の民、子らに”周りを
取り巻く敵からの安息” ”安全に住まう”と言うヨシュア22:4
<1:13、15、 21::44 23:1>を意識して
語っています。
それではヘブル書の著者は8節で何を意味して話しているのでしょう。
ヨシュアが神の民を約束の地に引き入れた、それらはモーセを
通して与えられた神の約束が成就した事です。
ヘブル3章にある詩篇95の引用ですが、その安息の意味は
一体なんでしょう?記述を読めばその意味は明らかです。
約束の地に入る。最終的な神の約束が成就する。
これらは永遠の安息にやがて入る事を意味する予見、未来に起こるサイン、印、前兆です。
神に贖い出された人全てが、来たるべき世で神の贖いの力で完全に修復されて生きることに入る。シャバット、安息、イエシュア
これらは福音の中心です。秋の祭りの最後、仮庵の祭りも
イエシュアの中に永遠に住まう事に入る事を表しているものです。
この約束の安息は霊的肉体的全て。今ポンコツな体でその全貌を体験出来ない。体が痛くては何も出来ない、気持ちにも影響する。でもそれら全てが取り除かれる時が来る。全ての人が神の
デザインした通りに修復された生き方に戻る!それが来る。
それが預言書に預言されている。
でも今現在朽ちる体にありながら、本物の安息=イエシュアの
中に息うこと憩う事を教えられている、それがシャバットを
生きて体験すること、その事実を週の6日の間で継続して生きる
事、1週間、1ヶ月、一年のサイクルの中で新しい人として
本物の安息=イエシュアの中に生きる実態を繰り返し繰り返し
日々教えられているのです。
”安息=シャバットの休みが神の民に残されている。
そして来たるべき世界ではイエシュアの中に住まう事、
安息の中に住まう事は永遠に続く。
8節のシャバットの安息が残されていると言うのは、
イエシュアにある信仰を持つ人=イスラエルの神の国の子らは
地上でその未だ見えない、実現していない前兆を生きて、そしてやがて来たるべき時に安息をフルに、肉体も霊的にも体験する世界に入るのです。
神は週一度のシャバット=安息日を神の民のために創造し、
それは神の民が永遠の安息に入るイエシュアが神の子らのためにを得た安息に入るその事を実践し学習し体験するためのもの。
ここまで考えてみても、ヘブル書の著者は100%モーセの五書に書かれている安息について継続して同じ意味の内容を話している事は明らかな事実です。
他の日、別種、新種の安息の話などしていないのです。
イエシュアは永遠から創造の最初から人の間に住まう、存在しているからです。
安息を与えると言う言葉は、ノアの語源と同じ、ヌアフと言う
言葉です。この言葉はエデンの園に住まう安息そのものを
表しています。
エデンの園=神の中=イエシュアの中に住まう状態に戻る。
本来の人間、神の創造された人間の状態、生き方。
それがエデン=喜び=神の中に住まう=人の本来の生きる状態
なのです。
ぴったり心地良い、体にも心にもフィットしている。
神の中に住まう、神のデザイン通りの本来の人間を生きる
これがズレを学習する前の本当の人の姿、これに全ての人が戻る。
多くのクリスチャンの聖書解説者はこのヘブル書の著者の書いた
内容を、別物にトランスフォーム=変形させて解説しています。
週一度のシャバット=第七日目のシャバットを生きて実践する
事を、時間=曜日に関係無いと解説します。
どの日でも今は関係ないと神の解説を塗り替えて、再定義し
別の教えを勝手に伝え続けています。
それが恵の時代の霊的シャバットであると解説します。
この解説では、このヘブル書、そして8節で解説されている
事実を完全に見逃します。的外れになるのです。
聖書=神の言葉は西洋人、異邦人、ローマが神の言葉を塗り替えて作った宗教の教えなど一切語ってなどいない、人の思想ではなく神が伝える純粋な教えだけを聖書に書いているのです。
この事実に気が付いて聖書を読まないとならないのです。
人が神の言葉を変えられないから、聖書とは違う教えで聖書を
解説するので聖書の事実とは違う教えをし、別方向へ曲がって
行ってしまっているのです。
そしてヘブル書の著者は週一度のシャバットを通してもっと
壮大な範囲の安息を話しているのです。
いい加減に聖書では無い解説が流通し、それだけを聞いている
いるから聖書に書いてある通りから、読み取とる事だけをしないとならないのです。
トラーに書かれたシャバットは全ての土台です。
神は創造された事実、実態を初めから終わりまで変えてなどいません。神が全てを造り、神が創造したデザイン通りを生きる!
それがシャバットでも表されているのです。
人間が神が創造したものに手を付けて変形してはならない。
遺伝子組み換えしてはならない。別物を作り出してはならない。
神の言葉も神の創造物も変化進化しないと言う基本的事実に
目を背けて勝手な解説を編み出してもそれは嘘=偽物=不真実な
教えなのです。
全く意味ない、ナンセンス、神が創造されたシャバットを定義
し直す、別の日である、どの日も安息日であるなどと聖書にも
書いてない神が言ってない事を言い続ける事は気が付いた人から完全にやめようではありませんか。
神はシャバットに止まる!と教えています。神がそうされた様に
人は神に造られた通り第一日目〜6日目まで働き第七日目に止まると言う神が設けた特別な記念日を止まり、祝う。
これが人間の本来の生きるサイクルなのです。
そしてシャバット=第七日目を聖別している事実は今日も永遠に
変わらないのです。
神が第一日目から第六日目と第七日目を分けている。
それが聖別の意味=神が意図した通り、神の目的通りを生きる
この世とは境界線が敷かれ、神の目的通りに分かたれる。
それが聖別の本当の意味です。
人間が編み出した聖別の定義は神の前には適用不可能なのです。
でも神の定義した様々な事を塗り替えた異邦人の教えを伝統的に
1世紀後半から今まで異邦人の世界では生きているだけなのです。
聖書のどこに、ユダヤ人だけが神の教えを生きる、ユダヤ人だけ
が神の創造されたオリジナルの記念日を生きて、異邦人はローマ
帝国や西洋異邦人が作り出した教えや4世紀以降人間が創造した聖書に書かれているものとは別の記念日を生きるなどと書いて
ありますか?
福音書〜黙示録にはモーセの五書以外の別の教えや新しい教え
など1つも書かれていません。
試しに聖書を読んでも、そこにあるのは全部モーセの五書を生きる事パウロが解説しているのは100%モーセの五書を支持し
モーセの五書から知恵を与えているのです。
聖書に登場する人は神の教え=モーセの五書に書かれたことを
生きて、神が創造した記念日=レビ記23章を生きている事しか
書かれていない、それが聖書の事実です。
聖書に書かれている内容を、安息日とは日曜日などと書いてない事に読み替えていては神の伝える教えの真相など永遠に見えなくなります。
それがモーセの五書とユダヤ人と決別を告げた異邦人の勝手な
読み込みと言うものなのです。
ヘブル書の著者が10の言葉=十戒の第四項目”シャバットを覚えて聖なる日とせよ”とあるそれがいつ消滅しましたか?
その日が週のいつでも良い、日曜日に変更したと神が言いましたか?言ってない。どうして言ってない書いてない人が作った教えの方が真実だと本気で信じるのでしょう?何を信じているの?という事です。聖書?それとも伝統で語り継がれる慣わしの教え?
週のいつでも良い=それは神の聖別した日ではなくなります。
意味の無い普通の日になります。
異邦人世界の教えの問題は聖書に書いてない事を書いてある事を曲げて解説する、異邦人、ローマ帝国が編み出した教えを混ぜ
入れて別の教えを編み出している、その事に聖書を読んでも全く気がつかないのです。
それは人の解説で聖書に書いてもないことを神が言ったなどと
納得してしまっているからです。
不思議ですが、進化論を信じるノーベル賞級の科学者の思考と同じです。嘘でも100度言えば本当だと思い込む。嘘は大きいほど騙されやすい。聖書に書いてない事を聖書だと信じ続ける。
2000年近くも神の言葉を変形した教えを言い続け実践続ければ書いてあるのにそれが終わったと本気で信じる、
それでは聖書は100%永遠不変の神の言葉であると信じていることには全くなっていない事になってしまいます。