その2  歴史の中で数々に塗り替えられてしまった神の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャバット=安息日を変更したのはローマです。1世紀後半から

異邦人がユダヤ人と決別したグループであることを主張するために、ローマ帝国の皇帝と太陽神=異教の神の日であるサンデー

太陽の日=第一日目に変更しただけなのです。

神が神の創造された記念日=レビ記23章に記された記念日を

変更した記録は聖書のどこにもありません。

福音書以降も、イエシュア、弟子たち、パウロが教えていた生きていた記念日はレビ記23章、その事実しか書かれていません。

 

異邦人がユダヤ人と決別し、モーセの五書を切り離し、独自の

教え、記念日に変形創作した理由の一番の理由は、ローマ帝国の迫害です。ローマ帝国が70年に神殿を崩壊しました。

そうしたら、ドル箱=打ち出の小槌を壊した事に気がついた。

ローマ帝国も馬鹿ですよね、そこから得られるたくさんの資金、祭りで都上りをするユダヤ人には両替をするための為替料、

そして神殿で屠れる動物を売る事で得られる資金、そしてユダヤ人男子一人一人から銀で支払われるシェケルそれらをサドカイ派を通してローマが受け取っていたそれらが無くなってしまったのです。

 

そうして考え出した資金を得る方法=ユダヤ人への課税です。

そして、ユダヤ人のパリサイ派の会堂に集う異邦人へも課税

し始めたのです。ユダヤ人だけの課税なのに、それだけでは資金が今まで通りに入らないので、同じユダヤ人の会堂にシャバットに集い、ユダヤ人と同じ生き方をする異邦人は全てユダヤ人とみなす!と決めたのです。そしてモーセの五書をユダヤ人同様に

生きる異邦人へも課税を始めたのです。

もし4000ドル相当の純金で税金が支払われない場合、

家族の一人を牢獄。そこでは食物も何も与えられない。

そうすればやがて死にます。事実上の死刑です。

 

だから、異邦人はイエシュアを信じる事はしても、ユダヤ人の様に独特な生き方=神が伝える教え=モーセの五書は生きない!と保身のためにユダヤ人とは一線を敷いて、”私たち異邦人はあの

ユダヤ人とは違います。

シャバットで止まる様な怠け者ではありません。

ユダヤ人が祝う祭りもしないし、割礼もしない、食物規定もやってません。

ローマと同じ動物、豚でもなんでも食します!”と言う保身に

走ったのです。

使徒15章にある通り、異邦人はもともと異教徒上がりで

神の言葉などには根付かない、神の教え=トラーから遠く離れた人々であったのです。エペソ2:11−13

キリストを信じるだけで、モーセの五書に書かれている教えは生きない!キリストを告白する事以外他は彼らユダヤ人とは関係無い、モーセの五書に書かれた生き方はしないとして自分の中で

辻褄を合わせたのです。キリストを否定しさえしなければ良いと言う考えでしょう。でも神の言葉=教えに敵対する事=生きる事はキリストなのに、それこそが敵対的生き方です。

それほど神の教えに根付いていない、神の言葉に生きると言う事に対して幼子同様であったからです。

 

同じ事が第二次世界大戦のホロコーストで起こりました。

それ以前に、宗教改革がありました。16世紀ルターの正した数々のカトリックで教えられ実行されていた非聖書的教えに対する抵抗です。この宗教改革のおかげで当時のヨーロッパの人は

救い主に戻る大リバイバルが起きたのです。

 

でも、ルターの盲点は、モーセの五書に書かれている内容を

本当には知らなかった事。

ルターがこの大リバイバルが起きた時にこれが終末である!と考え、でもユダヤ人は救い主を信じない!

ルターが伝える様なカトリック、キリスト教の教え反トラー

神の伝える生き方を捨てる様な生き方などにユダヤ人が

乗り換えるわけが無い、神の前にその様な罪をしてはならない事をルターは全く気が付かないのです。

神の教えに背く、敵対する教え、反キリストの霊でしかないのです。

ユダヤ人が抵抗していたのは、西洋カトリックやキリスト教が

伝える様な反モーセの五書、神の教えを捨てよ!などと教える

教えが救い主から出るものでは無いことを知っているからです。

 

様々に変形された教えを生きよ!などと言うことに賛同するわけないのです。

そして、一向にカトリックが伝える救い主像の救い主を信じないユダヤ人達の様子を見たルターは、反ユダヤ思想に乗り換えた!これらユダヤ人を抹殺することが神の御と考えたのです。

 

ここでもう一つ考えなくてはならない事は、今も同じくユダヤ人はクリスチャン達が語る様な反モーセの五書、そして反ユダヤ

信じたらモーセの五書を捨て、ユダヤ人やめなさい!と言う

その様な非聖書的教えに抵抗しているのだ!と言う事を

クリスチャンは知らないとならないのです。

しかも歪んだメシア像=神の教えを終わらせにきた!などと言う

教えは、トラー、預言書、諸書を原典言語から知るユダヤ人には

別宗教の教えとしか響かないのは当然なのです。

 

なぜならそれは非聖書的教え、歪んだメシア像をクリスチャンの世界では語っているからです。聖書の真実ではない事を語り続けるのは聖書の記述から気が付いた人から辞めないとならないのです。

 

そして”ユダヤ人と嘘”と言う書をルターは書いてしまった。

こう考えると分かると思います。家族や友人の誰かに神をジーザスを伝えても一向に信じない!イライラする。

本当に頑なだ!真実に全く目が開かれな〜い!と。

勝手にせよ!呪われよ〜と言い始めるのと同じ事をルターがしたのです。

これがヒットラーのホロコーストに走る原動力となってしまったのです。ユダヤ人を抹殺する事こそ神のみ旨であると。

エステル記のハーマン、マカバイ戦争や70年の神殿崩壊

ユダヤ人の大量殺戮と同じ事を考えてしまった大罪。

 

ルターはプロテスタントの中ではヒーローとして語り継がれているだけですが、裏では人生の終わりにこんな大罪を犯してしまったのです。しかも反モーセの五書、反ユダヤ思想。

人はある事実に目覚めても、どんでもない誤解、嘘を信じる事

が出来るのものです。だから注意して、自分が見聞きしている事が真実かどうか常に確認し自分の悟りに頼る事はしてはならない。

神が伝える永遠の真実だけに常に立ち考え続ける事をしなくては

ならないのです。

 

当時ドイツのSSには多くのクリスチャンがいました。

家では神に祈り、日曜日には礼拝し、でも日常生活でユダヤ人

殺戮をしていた。

彼らは2年ほど神学校に通い、ユダヤ人殺害がいかに主のみ旨に沿ったことであるのか教えられたのです。彼らの非人道的行為

ユダヤ人を殺害する事は妥当であると教えられた、その教えの

教科書はルターの書いた反ユダヤ思想の書なのです。

キリストを信じないユダヤ人を殺すことそれが神の御旨であると教えられたからこそ、自分達クリスチャンの手でユダヤ人を殺すことに対して深い罪悪感を抱かないその理由を見つけたのです。

 

一方クリスチャンの中では、多くの正義勇気ある人達がユダヤ人を自宅にかくまい助け、それゆえ自分達が強制収容所に入れられ

死んで行った事実があります。

コーリーテンブーンの一家、アンネフランクをかくまった人達。有名どころの話以外に無名の普通の市民、様々な人がユダヤ人を助けかくまった事実があります。

 

自分のために命拾いをするのか、それとも神の義に立った行動をするのか、いつの時代にも問われている事であり、両者がいつも

いたわけです。

 

シャバットや祭り、食物規定や割礼その他、神の国の人の聖別された独特な生き方、モーセの五書に書かれた事を生きる人達は

主にユダヤ人だからユダヤ人だけの教え、ユダヤ人だけの記念日祭りと考えますが、聖書にはユダヤ人だけの教えなど書かれてなどいません。ユダヤ人が主に神の教えを生きているだけだから

ユダヤ人の教え、ユダヤ人だけの記念日、祭りだと考えてしまっているだけなのです。異邦人も、神のシャバットを大事に生きる人は神の家=祈りの家に加えられていると書いてあるでしょう。

 

全人類へ、アヴラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの神の家族に加わる意志がある全ての人へ同じ教え、同じ記念日

書かれている、それが聖書なのです。勝手に人が神の教えや

記念日を作り変えて伝統で継承されているだけなのです。

 

単純、シンプル。神が人に神の創造した人はどの様に生きるのか?それが書かれているのがモーセの五書なのです。

福音書〜黙示録には人の生きる詳細や、神が教える聖別の詳細や

罪の詳細など書かれていません。

 

神が伝える事を聞こうともしないなら、それが勝手な想像上の

教えを編み出すものなっているのです。

この箇所では書きませんが、2世紀以降に出てきた様々な異邦人西洋教父達が唱えた非聖書的教え=神に対して真っ向から敵対する教えがたくさんあります。

 

その様な教えを教えられたら、信仰の最初から純粋な神の言葉でではなく、人の思想が入る混ざり物の教えを刷り込まれ、

何が聖書に書かれている事実なのか目の前に書いてあっても

自分の中にある人の言い伝えの教えで自動変換されて真実が見えないままになるのです。

しかも伝統で長年実践している聖書ではない記念日や教えなのに

それが聖書だと信じ込んでいるのです。

 

試しに聖書のどこに神が神の教えを変えたなどと書いてあるのか

いつシャバットが第一日目に変更になったと神が言ったのか?

探してみても無いし、パウロの書簡にそれらしく書かれている

箇所は全て1000%誤解して読み込みしている!と言う以外の

何ものでも無いのです。

 

パウロがもしモーセの五書を否定し塗り替える教えをしたとするならパウロは完全に聖書の定義では偽使徒、偽教師、偽預言者です。

そしてイエシュアがもしモーセの五書=父の言葉を否定するなら

それは偽メシアとなってしまうのです。

 

神の言葉に対する基本的知識が欠落し、聖書では無い思想で聖書を読み込む事を教えられてしまっているから、それこそが非聖書的教えを生み出すパン種となってしまうのです。

 

基本=神が人に伝えている通りを受け取り生きる!

神が第七日目に止まられ、その日を聖別し人にその日に神と

一緒に止まり、祝ってと言われたらその通りにする!

そんな単純な事なのに、神の言うことなんて聞かない!

人の言い伝えに聞くと言う事を伝統でやっているだけなのです。

伝統の教え、人の言い伝え=異邦人の世界の人の創作の言い伝えを聖書だと信じ込んでいるだけです。

 

世界が壊れているのは、神の教えからずれたからです。

神の言葉を無視したから。

今起きている出来事の本当の問題の根はズレ=神の性質に造られた人の生き方に反する生き方=パン種を取り込み続けている

それが本当の問題の根であるのです。

 

神の言葉に敵対し生きる、神の創造物を破壊する、神の創造されたデザインを生きる事を破壊する。

 

でもイスラエルの神の子らは神が創造されたデザインを生きる。

シャバットはイエシュアそのものであり、シャバットの安息は

イエシュアの中に憩い生きる事を実際に体験させ、教えているものなのです。

 

 

出エジプト31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるし

ある。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、

かつ、いこわれたからである』」。

 

イスラエルとあり異邦人には関係無いと読むなら、異邦人と

イエシュア=イスラエルとは関係ない!と言っているのと同じであることに気がつかないとならないのです。

 

この箇所もイエシュアにある安息を話しています。

安息日は第七日目であり日曜日は労働の第一日目、日曜日は

安息日ではないのです。神が言うことに逆らわず、神が伝える通りを聞く!聖書=神の言葉自体だけに語らせる!と言うことを

しなくては、真相は見えないのです。

聖書に登場する古代の人は全てシャバットは第七日目と知っており、その日に止まり祝ったのです。

日曜日はシャバットと言う名前が付いてません。

 

山田太郎さんを、田中一郎さんと呼んだら別人であると分かるでしょう?第七日目は第一日目ではないでしょう?そんな単純な嘘曲げられた教えは、聖書を読んだだけで気がつかないとならないのです。

 

そう言う曲げられた教えに聞くのをやめて、神の言葉だけに聞けば今から神が伝えている真実を見える扉がどんどん開いて行くのです。

 

 

ヘブル 4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、

4:5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。

 4:6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、

4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。

4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。

4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。

4:11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。