マタイ5章で”あなた方は何々と聞いている”とイエシュアが言われた内容は、1世紀当時の人達が伝統の教え=ラビ達が解釈するトラーに書かれた教えの解説=口頭トラー=律法の行いと呼ばれていたものに付いてイエシュアは語っているのです。
モーセの五書そのものの中身を指してイエシュアが
”あなた方は〜と聞いている”などと言ってなどいない事実に
立って読んでみればイエシュアが何を話しているのか正しく
理解できます。
1つ1つ異邦人クリスチャンの世界で伝統的に語られている解説教えが、聖書の語る事実とは異なる事を聖書自体から発見する。
この様に当時の人達の宗教事情や、言語、文化などの情報を得て
何が書いてあるのかを正確に知るのは必須条件なのです。
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義がトラー学者や
パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、
はいることはできない。
20節を読んでも、今までの教え=古い教え=モーセの五書だなどと誤解して読む事こそを排除すれば、イエシュアが語る真相が
見えるのです。
まずこの箇所に関してですが、パリサイの義にまさるとは、
まさに、神の意図通り、ぴったり、ずれた動機や思想で行動するのではない、霊に導かれ神の言葉の意図通り知りを生きる、
それがパリサイ=人の伝統で語り継がれる生き方をまさるものが、神の国に属する時実態であると書いてあるのです。
なぜならここでイエシュアが語っている相手の考えは、神が伝えている本来の教え、言葉の意図通りを理解していない一部の人達、伝統の教えで解説されているものに固執し、神の意図通りが
見えてない人達に対して正しているのです。
こんな箇所も、モーセの五書が破棄されて、新しい教えをイエシュアがしているんだ〜などとクリスチャンの世界では、
勝手な読み込み、解説をされてしまう箇所でもあります。
パリサイ派が悪者の様に語られてしまっていますが、当時の
ユダヤ人は殆どがパリサイ派なのです。パウロも死ぬまで
パリサイ派、イエシュアもパリサイ派の流儀を生きていたのです。嘘でしょう?と思いますか?イエシュアがされた過越の晩餐の儀式はパリサイ派の中でされていたものなのです。
パリサイ派の会堂でシャバットにトラー、預言書をイエシュアも
朗読していたのです。
パリサイ派はトラーに忠実に学び、教えるグループでした。
中には伝統の教えでずれた思想をしていた人もいた!
それだけです。
サドカイ派は神殿に仕えそしてローマ帝国政府と深いつながりがあり、神殿とローマ帝国の間で経済取引きをしていた人達であり私服を肥やしていたのです。
1世紀当時の祭司制度は腐敗していました。
そしてローマ帝国の皇帝に対しても神殿で捧げ物をしていたのが
サドカイ派なのです。
このサドカイ派のグループは神殿崩壊後には消滅しました。
神殿が存在しなくなったからです。
使徒 5:34 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者
ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちを
しばらくのあいだ外に出すように要求してから、
この箇所でトラー学者ガマリエルとあります。
パウロの大恩師であり、パリサイ派でありイスラエルの議会の
一員でした。
ガマリエルは、”国民全体に尊敬されていた”と書いてあるのです。この様な事実をクリスチャンの世界では全く素通りされて
読み飛ばされているのです。
パリサイ派は、サドカイ派と違い人に対して温厚に神の意図に
沿って様々な決断をする、施す、助ける事をしていた人達であるのです。古代の聖書以外の歴史的文献などちゃんと調べれば
彼らがどんな人達であるのか書いてあります。
パウロもイエシュアもパリサイ派の流儀で生きていたのです。
シャバットや祭り、そして人に対して温厚な態度。
一方的な読み込み、誤解が多すぎて聖書に書いてあることが
曲げられてしまっているのです。
そしてガマリエルは、いずれイエシュアを知ったであろうことは
想像に難くないです。真実を見よう!と皆に警告しています。
使徒5:35 一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、
あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。
5:38 そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、
しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
5:39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。
<人から出たものならやがて自滅する、ガマリエルには神からの
知恵があったのです。人から出たもの=それが例え伝統で語り継がれて根強く支配するものでも、それはいずれ崩壊する!と言う
事です。神の真実ではないものはやがて消えると書かれています。>
神を敵に回す様なことをやり続けては危険!と言う警告をガマリエルは伝えています。
そして、使徒15章のエルサレム会議の中心はパリサイ派でした。
パリサイ派が右も左も分からない異邦人=イエシュアを信じながらトラーを知らないので、異教徒の神殿で偶像礼拝は不品行に
染まっていたので、それらから完全に足を洗って仲間に加えま
しょうと言うものすごい譲歩提案をしたのがエルサレム会議なのです。そんな寛容な人達=パリサイ派なのです。
そして、異邦人も今は何も知らないけど、モーセの五書をシャバットごとにパリサイ派の会堂で学んで行けばやがて神の教えが
分かってくるから忍耐して待とう!と決めてくれたのです。
この聖書に書かれた事実がまるで見えないと何も見えなくなるのです。
パリサイ派が”偽善者”であると言う代名詞で語られていますが、
全く違うのです。世界中のクリスチャンのグループでも腐敗した事をする人は五万といるでしょう?だから全てのクリスチャンが
腐敗しているのでしょうか?そうではないのです。
しかもほぼ1つのグループが主流で、それがパリサイ派であったならその中にいるある人達がずれた考えや行動をしていたらそれが浮き彫りになるのです。一部のパリサイ派やトラー学者と
イエシュアがやりとりしていた下りも、その様にずれた考えを
していた人の事が書かれているだけなのです。
全部のパリサイ派が偽善者ではない。ありえない。
ほとんどの人はイスラエル市民の味方、人のために考えるそれが当時のパリサイ派であったのです。
例えばどんな事かと言うと、戦争に出てある兵士が死んだ
その事実を証言する人が1人しか戻らなかった。
そしてその兵士の妻が夫が死んだと言う証明をするのに、たった
一人の証言者しか得れないとしたら、トラーでは2人以上の証言者が必要ですが、そんな事をしたらその妻は一生婚姻関係から
解かれず路頭に迷いうのです。
その場合パリサイ派なら、1人でも良いと決議する。
どの様な対応が神の前に妥当な判断でしょう?と言う事です。
もう一つは、家族内に不幸があり、通夜がある。
その時に当時の口頭トラーでは風呂に入ってはならない=自分にとり心地良いことを控えよと伝統の教えは言います。
日本にもありますね。喪に服す時に祝いごとの行事などしない。
でもラビ ヒレールは、”自分は老体だから自分の体をいたわるために風呂に入る”と言う考え方をする。
詰まり神の教えは人を縛り付けるためではない、そんな教えは
モーセの五書にはないから風呂に入るのは老体には良いことと
人の伝統を破っても問題ないと考える、それがパリサイ派なのです。
その事実に目を留めて異邦人の世界で語られる伝統の教えの
偏見を捨てないとならないのです。
偏見以上に、聖書の教えでは無い多くの創作された教えが一人歩きしているのですから、何が聖書に書かれている神の教えの事実なのかを知っていないと人の創作した教えと、神の教えの見分けなど出来なくなるのです。
マタイ5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
人に対して怒る=怒りの種はやがて殺人と言う行動を起こすから
その種=ハメッツ=罪があるのなら、それは殺人と同じ。
ばか者と言うこと、他者に対して悪い評判を与えることは
死に値するとトラーには書かれているからです。
ばか者と言う発言は、人の社会的評判を破壊する事であり、
人の生活を破壊する事それは死に値する事なのです。
イエシュアがモーセの五書に書かれた内容から話している事に
気が付かないと、イエシュアが新しい教えをしている、
古い教え=モーセの五書を信じている人に正しているなどと言う
完全に誤解した読み込みを続けて、それを拡散し続けて行って
いるのです。
罪の根はまず、人の思想=頭脳の中に植わる!
神の言葉=教えとはずれた考え=エデンの園で地を這うものから聞かされた変形された神の言葉、それが問題の根!である。
例えそれが今行動に出なくても、その要因はその人の内側=頭脳の中に既に存在している!と言う事をモーセの五書から
イエシュアは正しく解説してるのです。
続く