神の創造されたオリジナルの本物を生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉を誤解する原因は、初めに教えられた聖書に関する

聖書観が聖書通りではなく、人が編み出した教えを通して聖書に書かれている内容を解説されてしまった事、聖書に書かれている意味通り、内容ではなく人が考える思想を聞かされていること、それが異邦人の世界で一番大きな問題であると体験上そう考えます。

 

初めに教えられた事はそれが嘘でも真実であると信じてしまうのです。ひよこが生まれて初めてみた物体を母親と思う、考える、

インプリンティング=刷り込み=脳の中に別物が本物と記憶され

その記憶からでしか全てを考えられなくなるからです。

 

真実ではない事=嘘、偽り。半分嘘、半分真実と言う混ぜ物が

実は一番見分けがつかない、一番厄介なまがい物なのです。

 

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、

主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めは

まじりなくて、眼を明らかにする。

19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

19:10 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、

また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。

19:11 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。

これらを守れば、大いなる報いがある。

 

神の言葉は永遠不変であるのに、神の言葉は完全であるのに

どうしてそれが一時的であるとか、途中で変化する不完全なものであるなどと異邦人は神の言葉に反して信じ、言うのか、

それは生まれつきイスラエルの神の言葉、国籍に何も関係のない、馴染みがない異教神の背景、思想、意識の中に生まれたからです。そして、1世紀後半に出現した非聖書的教え=反モーセの五書の教えを編み出した異邦人教父達がユダヤ人達に対抗して

作り出した教えを伝統的に聴き続け、信じ続けて来た結果でも

あるのです。

 

2テモテ 3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して

十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

私は以前、この箇所の”聖書”と書いてあるのを読んで、福音書

以降も全て指してパウロが語っていると疑いもなく信じていました。

もちろん聖書のどの箇所も霊感を受けて書かれているものです。

でも福音書〜黙示録に書いてある”聖書” ”み言葉” ”神の仰せ”

”戒め” ”神の教え” ”神の言葉”とは100%モーセの五書、

預言書、諸書のみを指して話している事実を多くの人は気がついていないまま福音書以降が別の教えであると考えていると思います。

福音書〜黙示録が書かれている間は、それらの書は聖書として

認識さえされておらず、流通してもおらず、少数の人の間だけで

読まれていたものだからです。しかも全てが手書きなのです。

 

それら使徒が書いた書簡、その箇所は新約聖書というタイトルが付けられてしまっていますが、そのタイトルは聖書にふさわしいタイトルではないのです。

 

福音書以降は、使徒が書いた書簡と呼ぶべき箇所なのです。

その箇所は、モーセの五書=トラー、トラーに戻れ!と言う

内容が書かれた預言書、諸書=モーセの五書に書かれた知恵に

生きる事、そして婚姻契約から外れた生き方をしたイスラエルが招いた厳しい訓練、試練=歴史書、トラーの知恵の宝庫=

諸書なのです。それらは異邦人にも全く同じ教えなのです。

 

使徒が書いた書簡=福音書以降はそれらが書かれている間は

ごく少数の人しか読んだ事がないもので、パウロの書簡に関してはある特定のグループに対して書き送ったものなのです。

 

それぞれの地域社会諸外国のグループ内で起きていた実際問題に対する対応の仕方をエルサレム拠点のトラー学者であったパウロにお伺いを請うため、そしてパウロがモーセの五書から様々な

問題に対する対処の仕方を伝えたのがパウロの書簡なのです。

 

諸外国に居た当時の信者達が、なぜエルサレムを拠点とする

パウロに手紙で相談したのかは明らかです。

パウロほどモーセの五書、預言書、諸書を知る学者は当時の

イエシュア信者の中に存在していないから、パウロに直接様々な教えを近隣国に居た人達も請うていたからです。

 

現代の様にモーセの五書を否定する人達は1世紀当時一人も

存在などせず、そしてその様な教師を教師としない、異邦人の

世界とは違うユダヤ人トラー教師パウロに聖書に登場する諸外国の人はトラーをパウロから学んでいたのです。

 

事実だけに基づいて考えて行けば、永遠不変と神が言われる神の言葉、いつどこで誰がどの様に神の言葉を変えたのか

見えてくるはずです。調べれば良いのですが、日本語の世界には

余りにも正しい手がかりになる資料や文献が不足し過ぎているのです。つまりは一方的な教えしか聞かされない土壌なのです。

1世紀後半の異邦人達は、パウロの様なユダヤ人トラー教師に

ヘブライのトラーから学ぶことをやめ、ヘレニズム思想の

異邦人西洋教父達からオリジナル聖書とは違う思想を聞かされてしまったのです。これは大きな違いなのです。

 

パウロは、モーセの五書を否定した教えなど一度もしていないのにも関わらず、異邦人の世界ではパウロが書いた書簡の内容を

書いてある意味通りに把握していない、全てはモーセの五書否定した教えありきからだけ解説、語られてしまい、内容を逸脱、

又は文脈やら何が論点で問題であるのかその意味を知らないまま、解説されているものしか流通していない事が問題なのです。

 

パウロがユダヤ人の間でも当時トラーを否定した教えをしているのではないか?と疑われていた理由は明らかです。

”ユダヤ人の伝統の教え”=”律法の行い”と書かれている、

当時のユダヤ人の中にあった”口頭トラー”の解釈とパウロが語る

モーセの五書の解釈や適用が違ったからです。

 

イエシュアも同じ場面に何度も出くわしていますね。

彼らユダヤ人の世界で伝統で語り継がれた教えや解釈生き方

やり方が、イエシュアが語るそれとは違うから、このイエシュアはトラーを破棄している=正しく解釈して自分達と同じ様に

実践していない!と非難轟々言い合いしている場面が書かれていますね。それと同じことがパウロにも起きて、モーセの五書を

ないがしろにしているのではないかと言う噂が巷に溢れていた。

その噂を払拭するために、パウロは神殿で他の人達と共に

”ナジル人の請願”を果たしている記事をクリスチャンの世界では

何の意味も無いごとくに、パウロがモーセの五書とは違う教えをしていると解説し続けているのです。

 

使徒 21:21 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセに

そむくことを教えている、ということである。

21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたはトラー=モーセの五書を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。

 

パウロがあたかも割礼に反対している様に書かれている箇所は

”アヴラハムの契約の割礼”の事などではあるわけがなく、

当時1世紀にユダヤ人の中であった仕来り=異邦人はユダヤ人に

なる改宗儀式をし、異邦人の世界と一切関係を絶たない限り、

天の国の一員とは認められないと言う教えのもと、異邦人に

改宗儀式を強いていた事なのです。割礼=改宗儀式。

これはユダヤ人側からしたら安全な事でもあるのです。

負えないくびきと書かれているのは、自分達でさえ親戚家族と縁を切り異邦人なのにユダヤ人になってユダヤ人だけの世界しか

触れてはダメなどと言うそんな残酷な教えは、聖書=トラーでは無いと書かれているのです。

 

どう言う意味かというと、使徒15章にあった様に、イエシュア信者になった異邦人はモーセの五書を全く理解していないので、イエシュアを信じた後も変わらずに異教の神々の神殿に詣でて、汚れた動物を祭壇に捧げ食し、生血を食し、動物を絞め殺し、

異教の神々の神殿娼婦と交わり=これだけ考えても普通に変で

あると理解出来る様な事さえも異邦人イエシュア信者は理解していないままそんな生き方を継続していた。

 

その様な異教神のシンボル、慣わし、習慣をユダヤ人の中の交わりに持ち込まれたら困る=自分達の仲間がその様な異邦人により汚されてしまうから、その様なことが無い様に改宗儀式=割礼と言う名の改宗儀式を強いていたのです。

 

1世紀にキリスト教というものが既に存在していて、キリスト

教会、異邦人クリスチャン教会などと言うものが存在していたと

誤解していませんか?プロテスタントでさえ、16世紀までこの世のどこにも存在などしていない、デイスペンセーション神学は19世紀まで創作されていない、その教えの根はずっと異邦人の世界には1世紀後半から存在していましたが。

現代の様に何万と言うキリスト教の宗派みたいな異邦人の

グループは1世紀には1つも存在していないのです。

 

1世紀聖書に書かれている内容は、異邦人はイエシュア信者に

なったら、ユダヤ人の会堂、その当時はパリサイ派が主流でしたから、パリサイ派の会堂に共に集い、ユダヤ人同様、

シャバットにトラーや預言書の朗読を一緒に聞いていたのです。

信じられませんか?

でもそれが聖書の歴史の揺るがない真実なのです。

だから使徒15章に書かれているグループは、パリサイ派でありその派が異邦人達を交わりに入れる当座の対処としての対策を

ねった下りがそれなのです。

書いてある通りに読んでみれば良いのです。

しかも、当時のユダヤ人は、イエシュア信者であるかどうかが

問題の種ではなかったのです。使徒に書かれている通り、

”モーセの五書を破って生きているのか?”その1点に尽きるのです。当時はユダヤ人の宗派の中で、例えばサドカイ派は復活を

信じていない人もいて、そして他の派では復活を信じていると

言う状態なのです。多少違いがあれ、モーセの五書に反する生き方をしなければ、それは問題にはならなかったのです。

問題は、モーセの五書の本質を否定したり破っている様な教えや

生き方をしていないか?それが一番の問題なのです。

 

信じたら皆、異邦人であろうが、ユダヤ人であろうが、そして

ユダヤ人イエシュア信者も同じパリサイ派の会堂で集い

トラー、預言書を聞いたのです。

これが1世紀当時の人達の状態なのです。

この改宗儀式は現代でもあり、割礼と言う名では呼ばれませんが女性もこの改宗儀式をしてユダヤ人になる事が出来るのです。

 

この様な下知識がなくパウロの書簡で”割礼”と書かれていたら

アヴラハムの割礼の事だと思い込んでパウロの書いている論点を全く理解しないまま別の読み込みをして、この様にパウロが

書いている内容を完全に誤解し、モーセの五書を否定した教え

に対して確信を持って聖書を読み続けてしまうのです。

 

 

続く