ある事柄を一方的に教え続けられ、それが真実では無い事であるのに真実であると伝えられてその嘘を当然の様に信じてしまう。
その偽情報に浸かった意識から真実に目を向けようとするには、自分の意識、思索を捉える様な何かしらの相当大きなきっかけ、気づき、発見事がなければそれは起きないのです。
人は日々自分の中にある固定概念から全てを照らし合わせ考え
行動するからです。
今まで教えられて来た数々の事、当たり前に真実、安全と受け
取っている医療行為、学校教育で教えられる内容、その他諸々、誰かの思惑や思想、又は利益や策略のために信じさせられ、
やらされている事が、実は真実ではない、自分に合わない事を
やらされている、安全では無い、自分に破壊をもたらせる、
又は神の子らである姿を捨てさせる行為である、諸々の事、
それは常に真実な情報だけにアクセスし理解して、人の教えに
引っ張られずしっかり考え続けない限り、見えない事なのです。
しかも今は真実な情報にアクセスすることも大変な時代になってしまったのです。一方的な思想が流されてそれしか出て来ない。
言論統制は、確実に敷かれている事を眠っていない限り気が付けるはずです。
つい先日熱心にある宗派の教えの内容を説明していた友人が
いました。もちろんその中に真実はあるけれど、必要な事は
人が編み出した思想、神学を熱心に追求する事ではないのです。
なぜなら、神の国=神の教えは人間が編み出した教えを土台としているものではないからです。
大事なのは本物=元のもの=神が伝える神の言葉に書かれた意味通りをオリジナルから知る事本当にそれに尽きるのです。
その作業無しには本物と嘘ものの見分けは出来ない事、特に神の言葉を教える立場である人は、聖書に書かれた意味通りを知る事
それは、”マスト”絶対に知らなくてはならない事である事など
話会いました。
なぜなら、聖書に書いてある意味通りに知らなくて、
どうして真実を汲み出す事が出来るのか?と言う事なのです。
しかも今は恵の時代、霊に教えられるから”聖書”など読む必要が
ないなどという神学者が語る教えを聞いてそう信じている多くの人がいますが、それなら福音書以降も同じく読む必要はなく、
霊に導かれていると信じて自分の勝手な思想に生きてしまう事になります。霊に導かれてなんでも教えられるから、学校も行かなくて良い、何も学ばなくて良い、そんな異教の神々の透視、
霊媒師養成の様な思想をしているのです。
神の言葉の真実が見えない大きな壁は、異邦人の世界で教えられている教えが、聖書とは異なる教えなのに、それが聖書であると
大衆に信じられ語り続けられているからです。書いてある通りに読まない、受け取らない、違う教え=人の思想、神学で語られる教えに変換して考え聖書を書いてある通りに受け取り、
取り扱っていないからです。
偽物なんて見つめ続ける必要など全くないのです。本物だけを
見ていれば、本物だけを学べば、何が偽物か、何が作り物の教えか何が嘘ものなのかの見分け、識別は簡単に出来るからです。
よく銀行員は、偽札は簡単に見分けられる。
手触りでも分かると言う言い方をするでしょう。
偽物と本物の鑑定は本物だけを見つけて研究し続ける人には
簡単に嘘、偽物が見分けられるからです。
異邦人の世界での大きな問題は、聖書に書いてある事を書いて
ある通りに学ばないまま来た事なのです。しかも1世紀後半から
ユダヤ的=神の国の教え=モーセの五書を否定した教え、
ユダヤ人に対抗する意識を異邦人は持ち、完全決裂して行った
否定出来ない歴史があるのです。よくよく考えれば、常に
古い教え=モーセの五書=いらない、廃れた、新しい教えがあるのだから、無用とほとんどのクリスチャンの意識の中にはその様な思想がガンと固く根強くあるのです。誰にそんな事を教えられたのでしょうか?神ですか?神がそんなこと教えるわけがない。
聖書には全く逆が書いてあるからです。異邦人=西洋教父たち
西洋神学を唱える人の教えを聖書、絶対と信じているから
伝統で代々そう言う教えしか教えられていないから、
それが異邦人の世界の教えなのです。
3、4世紀にはもう完全にユダヤ人の世界=オリジナルの神の
言葉、教えから、ユダヤ人から、異邦人は完全に決裂し、
離れ異邦人独自に編み出した西洋宗教の教えに移行したからです。だからユダヤではなく西洋的、太陽神の輪っかが頭の上に
乗った西洋画の世界が物語るそう言う教えに入って行ったのです。
そして、ユダヤ的なもの=ユダヤ=イエシュア=オリジナルの
神の教えに対して、色塗り替え、西洋的に変化させ、
以前の教えは呪いの律法でそんな教えに戻るのは神の恵みを捨てる生き方だと言い続けているのです。
でもその教えを信じる場合、福音書〜黙示録の中に書かれているのは100%モーセの五書である事実を見抜けない場合に
その様な事を言う事が出来るのです。
異邦人は神の記念日は廃れたと本気で信じて、ローマ帝国が
作った聖書に無い記念日を神が祝う様にされたのだと聖書に
記述も何もない教えを信じています。
これはどう伝えようと神が伝える言葉=真実を見ようとしない
場合には聖書に書いてある通りには見えないトリック=魔法に
かかった状態のままになります。
さて、もう12月半ば、世界はどの国に居ても冬の祭りの雰囲気
に包まれて、冬の季節の素敵なライト、デコレーションを
街中の景色が着飾っています。ここも街中は素敵です。
楽しい雰囲気ですよね。今ネットの世界で、普通の人も
12月25日はキリストの誕生日ではないと多くの人が
知る所となりました。ではどうして12月25日がキリストの
誕生日と言い続けるのか?それは聖書ではなく、西洋宗教の
伝統の慣わしだからです。
聖書にどうして”キリストの誕生”を祝う様に神が仰せにならなかったのかなと考えます。色々あると思いますが、神は永遠から
永遠に存在しているから、最初から居られるから地上の誕生を
強調していないのか。
古代のイスラエルには誕生日を祝う慣わしがなかったからか。
イスラエルでは12月の時期は羊飼いが野宿などしない時期で
あり、もし子羊が出産するならば、屋内でそれが行われたのです。春の時期の子羊が生まれる時期、それは屋外で行われ野宿する時期でもあります。
子羊が生まれる春は、その子羊は、”過越の祭り”の神殿に捧げられる”子羊”として生まれるのです。
春、命の誕生。何か繋がりがあると思います。
しかも、ひっそりイエシュアの誕生を祝っている。
イエシュアが誕生された日は、神の創造された他の記念日とは
異なる日です。聖書では強調されていない。どうして?
しかも神は神の記念日に意味ある出来事を必ずしているからです。1世紀その時代に生きていた人達は、救い主がいつ誕生したのか知っていたのに、その日時が記述されていません。
神の他の記念日は全て時期を神が指定し知らせています。
シャバット=第七日目。新月=これは新月を観測して理解出来ますが、新月の最初は全く見えませんから、うっすら月が出てきたら新しい月の始まりと理解出来たのです。
今はいつ新月満月と全て知る事が出来ます。
そして、春の過越の祭りの第一の月の15日から、この日も満月となる日です。満月がエルサレムに観測されたら、丘、山々の上に人が立ち、そこで松明を灯し、イスラエル中がそれを見て次々火を灯して祭りの日が到来した事を告げたのです。
秋の仮庵も同じです。第七の月の1日はショーファーを鳴らす日
この日は戴冠式を意味する日、王が到来する事を告げる意味の
ある日です。そしてその後の10日、大贖罪日に向けて国中が
個人だけではなく全体でどんなズレがあったのか、そこから
軌道修正=トラーに書かれた生き方に戻る悔い改め=本当の言葉は”シュヴァー”する事をする、それが神の仰せです。
モーセの五書に書かれた人の本来の生き方に戻る!それが聖書にある悔い改めの本当の定義なのです。
そして、大贖罪日を迎え、仮庵を建て7日間の仮庵の祭りを
祝うのです。仮庵=イエシュアを表すものです。
再臨を表すものです。そして仮庵の8日はイエシュアの統治を
表す、1日目に戻らず、ずっとイエシュアの統治で生きる事を
表す8日目を祝うのです。
この様な神がデザインされた記念日や祭りを異邦人の世界では
2世紀以降捨てて=はじめの愛=モーセの五書から離れ、
ローマ、西洋、異邦人が編み出した教えに変更し、
乗り換えたのです。
多くの人は神の教えは古いから、新しい時代には別の記念日や
祭りを生きると本気で信じていますが、それは”伝説” ”神話”に
過ぎず、本物=神が創造されたものが永遠不変に祝われるもの
であると神が告げているのです。神の記念日は全てイエシュアを
表しているものであり、神がされた業=福音を実際に生きる内容なのです。それをする中で成長=実りがある事実がはっきり
書かれており、そして、それら全ては預言的祭りなのです。
イザヤ、エレミヤ、ゼカリヤ、エゼキエルその他全て未来は
神のトラーを生きて、神のオリジナルの記念日を異邦人も
祝う様になる預言がはっきり記されているのです。
どうして今の時代だけ異邦人には関係の無い教えなどと言う創作された教えを信じているのか、不思議に思わないとならないの
です。神は人種により2つ別の教えや契約、2つ別の記念日など
創造されてなどいないからです。
全ては1世紀後半以降、神の教え=トラー=モーセの五書に
反抗する異邦人達により作られた教えに伝統的に乗っかっただけと言うのがシンプルな事実なのです。
クリスチャンの世界ではキリストが伝わればその手段は構わない、なんでも良いと考えますが、創造主ははっきりと別物と交わり真実な事ではないことを通して、イスラエルの神がその通りに伝わらない事を絶対にNOと言っていることが聖書には書かれています。
高き所=混ぜ物をするなかれ!なのです。
真実ではないことを伝えることは、イスラエルの神を歪めた姿を
人に提示し教えてしまうことで、それは絶対に避けないとならないと言う意識には異邦人はならないのです。なぜなら最初から
ローマが作った神の教えを否定した教えが混ざったものが
聖書であると信じているからです。
続く