10の言葉 神の口から直接語られた真実を1つでも否定する教えは神の真実ではない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプト20:1 神はこのすべての言葉を語って言われた。

 20:2 「わたしはあなたの神、主であって、

あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

 20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

 20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

 

 20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、

 

 20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、

恵みを施して、千代に至るであろう。

 

 20:7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えては

ならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは

置かないであろう。

 

 20:8 安息日=シャバットを覚えて、これを聖とせよ。

 20:9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

 20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうで

ある。

20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日

=シャバットを祝福して聖とされた。

20:12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、

主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

20:13 あなたは殺してはならない。

20:14 あなたは姦淫してはならない。

20:15 あなたは盗んではならない。

20:16 あなたは隣人について、偽証してはならない。

20:17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、

しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

 

聖書を一貫して語られている神の言葉だけを土台に読まない読み方は、神の言葉をどの箇所も取り出し曲げ捨て曲解して”人間の考える”神学や宗教の教えに変身させる事が出来ます。それは長い歴史の中で神の言葉に対する価値、尊敬、尊重、神が言われた事が絶対であると考えない人達によりされて来た事です。

その最初がエデンの園での第一のアダムそしてエバから出た

人達がやった事、これがずっと繰り返されています。

 

カトリックの教えは、イスラエルに与えられたシャバットは

キリスト復活で終了して、日曜日が今は礼拝すべき日であると

解説していますが、聖書にはどの箇所にもそんな事実は書かれておらず、聖書には、福音書〜黙示録までも、第七日目を変わらず

シャバットとして祝い、レビ記23章の神の記念日を祝っていた

記録しか書かれていません。

聖書に記録されている神の言葉の事実を無視して、人間が創作した解説でなんとでも聖書の中身神の言葉を曲げ続けることをしているだけである事は聖書の記述に戻れば明らかに見分けが付く事です。

 

クリスチャンの世界でシャバットが第七日目が第一日目に変更

されたと言う聖書に根拠が全く無い教えのサポートとして引用

される箇所は次の3つの箇所ですが、どれもシャバットが人間の意見や好み判断で変更して良いなどと語っているものなのでは無いのです。これだけでもどれほど曲解した教えを聞き続けているのかと言う事は聖書だけに戻れば明らかな事実なのです。

しかも、パウロは預言者ではなく、使徒であり、太古の預言者達が神の口から直接聞き書き記した、トラー、預言書の解説だけをパウロはしているのです。パウロが新しい契約を神から受け取ったなどと言う事実はどこにも書かれていないのです。パウロは

100%モーセの五書を支持し、生きていると言う証明をエルサレムの神殿でナジル人の誓いを通して公に表明しており、議会でも何度もパウロは”ユダヤ人でありパリサイ派の中のパリサイの子=ユダヤ人と同じ様にモーセの五書を尊重し生きていると

伝えている事実をクリスチャンの世界では全く素通りして

語られもしないのです。

パウロ自ら100%モーセの五書を支持し生きていると言って

いるのに、パウロほどトラーを知らない異邦人達が勝手にパウロの宣言を消す発言をなぜし続けるのだろう?と考えれば良いのです。

もしくはこんな解説=パウロはカメレオンのごとく話す相手に

より違う事を言っている、こんな事をする偽教師は聖書を記載す

る使徒として神が選ばないのです。パウロが異邦人の使徒として

選ばれた理由の第一はその時代のイエシュア信者の中で最高峰の

トラー教育を受け、モーセの五書の中身を裏も表も知り尽くす

学者であったからであると言うのが一番の理由です。

即戦力、確かな教師に一大任務を神が託したからです。

クリスチャンの世界でシャバットが第七日目から第一目に変化したと言う根拠にしている聖書の箇所は3つです。

これら全て第一日目がシャバットであるなどとは書いてあるものではありません。

 

使徒20:6 わたしたちは、除酵祭=過越の祭りの晩から始まる

7日間の種無しパンを食べる週が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、

そこに七日間滞在した。

 20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

過越の祭り、種無しパンを食べる7日間の週を祝ったと書いて

ある意味は、レビ記23章の春の祭りを祝うと言う意味は、

毎週第七日目にシャバットを祝い、祭りが来たら、祭りの最初の日と最後の日は必ず曜日にかかわらずシャバットとして止まる

祝日になるのが神の暦であると言う事実、知識が無い場合には

聖書を曲げて読んでしまいます。

 

種無しパンを祝ったと言う意味=最初の日が例えば火曜日が

祭りのスタートの日になるなら、その日は止まる=シャバットとして祝い、次に第七日目が来たら金曜日の夜から土曜日の日没まで週一度のシャバットとして止まり祝い、そして月曜日が祭りの

最後の日ならその日をシャバットとして祝うのです。

だから祭りを祝う=すなわちシャバットを第七日目として祝い

続けていると言う意味なのです。異邦人の世界では神の創造されたオリジナルの記念日を2、3世紀にはもう捨ててやらなく

なった人達が大多数なので、聖書に書かれた神の記念日の意味や

実践がゼロで理解出来ていないのです。

 

1コリント16:1 聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。

16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、

いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。
 
週の初めの日は、シャバット=止まる日では無いから、
献金集めをすると言う明らかな事実が書いてあります。
シャバットには労働、資金集めはしてはならない事が神に教えられ書かれています。神の教えが終わりという思想を持つ人は神の言葉を取り消し塗り替え自分に都合の良い、自分の考えに沿ったどんな教えでも創作し続けてしまうのです。そう言う思想こそが人間至上主義ヘレニズム思想の産物であり聖書とは全く関係の無い教えを聖書だと勝手に人間が主張し続けているだけなのです。
しかも、これは集会の席上=日曜日礼拝を想像していると思いますが、シャバットで集金する事やローマ教の礼拝の仕来り=
席上献金と重ねて考えているから誤解するのです。
ユダヤ人の世界、1世紀のパウロがいた時代もシャバットの
集まりで席上献金するなどありえない事なのです。
個人個人の家で個人が手元に取り分けて、そしてシャバット以外の日に集めおくと書いてありパウロが訪ねて来た時に個人個人が
パウロに渡すと言う意味で書いてあるのです。
神を愛する人は神の教える生き方を実践するとあるのに
自分勝手な思想を生きて神を崇めていると考えているのです。
クリスチャンの世界ではトラーに書かれた内容を学ばない、
聖書に登場する人達が何を生きていたのか知らないのです。
シャバットでは無い週の初めだからビジネスをし、活動し、
献金集めや資金集めが許されているのです。
 
ローマ4:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
 
この箇所でパウロは神の記念日が変更可能、いつでも良いなどと
言うわけが無いのです。ここで考えられるのは、定冠詞が付いてない普通の日、誕生日や個人の記念日、又は国の記念日、
そして、もし神の記念日=祭りは太古は新月や満月を中心に
その日が決定されたり、そして過越の祭りの様に何日かに渡り
過越の晩餐をやったりとそれぞれ違いがあったのです。
でもどの日が重要かは、その人が考える通りで良い=それは
神の教えが退けられない限り、1日多かろうが問題では無いと
言う事です。現代でも異教の神々=諸外国に住むユダヤ人の中では、祭りの日を一日多く設けて設定してあります。
それはイスラエルとの時差があるからでしょう。そう言う事です。神の記念日を自分の考えで勝手に変更して良いと考える事を
当然としているのは、異教神の国々に育った異邦人だから!と
言う事は明らかな事なのです。神の永遠不変と言われた言葉を
真っ向から無視し、人の発言する思想、意見に聞き入っている
だけなのです。<変化すると言う哲学思想=デイスペンセーション神学で語られるイスラエルの神像とは異なることが聖書には書いてあります。>
 

マラキ3:6 主なるわたしは変ることがない。

それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。

 

 
ヤコブ1:17 あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、
上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。