神の言葉だけに向き合い真実を視すればその先に無限に広がる神の麗しい真実が広がっている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ある動画を見ていたら、こんな事を言っていた人がいました。

あるお医者さんの動画に出演していた方の発言です。

西洋宗教の教えは聖書ではないからそれを信じてはダメ!

それは聖書ではない!純粋な教えは聖書だけ!と普通の人に

説明していました。そして自分がどうしてそう言う考えに至ったかの経緯を話していました。

”聖書に書いてある通りになんでクリスチャンは生きてないの?

聖書に書いてないことをどうしてしているの?1世紀のイエスや使徒たちとは全く違う聖書には書かれていない事をどうして信じてやってるの?”と言う疑問を教会で言ったら、”あなたの霊は違います”と拒絶されそう言われたと言っていました。笑

何に比べて違う霊と言うの?聖書と比べているのか?それとも

西洋宗教の伝統の教えと比べて違う霊と言っているのか答えは

明らかでした。

何に比べて違うの?て、それは2000年近く慣れ親しんだ

異教徒の世界=西洋教父たちが作った教えを聖書だと信じ込み

伝統で語り継ぎ実践しているだけと言う事実に聖書から

どうして気が付けないのか、不思議なトリック、それは脳回路の中に日々聖書ではない教えを聖書として取り扱う教えを聴き続け

実践しているから、その思考回路からでしか考えられないから

と言う事なのです。

 

どうして西洋宗教=神の教え=言葉=モーセの五書を否定した

教えが異邦人のクリスチャンの世界で流通してしまったのか。

4世紀にローマ帝国が様々な土着地場宗教=異教の神々の教え

を取り入れて、新しい宗教=カトリック=ユニバーサル=全世界

=万人共通と言う意味を持つ西洋宗教にイスラエルの神の言葉、教えを彼らの思想の教え=別物に作り変えたからです。

 

だから、異邦人の世界では、聖書とは違う教えを伝統として

生きて、モーセの五書は終わりだと言う様々な教えを編み出し

それが神から来た教えだと教えられ本気で信じているのです。

神が語っても伝えてもいない事を聖書だと信じているだけなのです。聖書にも書いてない事を信じ続けているのです。

ですが、聖書だけに戻る人は、それらの教え=聖書に書かれてもいない事を信じている上に書いた矛盾に、疑問を必ず抱くはずです。ユダヤ人ならまだしも、私のように日本人=異邦人の場合、

クリスチャン教会でリーダーに向かってこんな質問したら

即座に問題児=反抗的、不信仰とみなされます。

イエシュアが生きた様に生きて、創造主が造った婚姻契約の印である記念日、神が永遠にガードし祝ってと言うものを生きたら

異端だと見なされます。変ではないですか?神の永遠の真実、

教えを生きる事を阻止する力はどの霊から出ているのでしょう?

ローマ帝国の教えを尊重し、創造主の教えや記念日を捨てよ!と言う教え。自分の頭で神の言葉だけに向き合い考える人だけが

神の伝える永遠不変の真実に気が付けるのです。

 

聖書に書いてない事をどうして一生懸命やり、聖書に書いてある事をどうして拒絶して生きないのか?と言うシンプルな質問さえ

口に出すのも憚られるのは、聖書とは違う教えが異邦人の世界に2000年近くも浸透したため、神の語る永遠不変の真実を語るべきなのに、それが出来ない妨害があるのです。

このブログを何かの理由で読んでくださり、以前の私の様に

聖書に対して、信仰生活や、日々西洋宗教の教えから教えられる内容に対して疑問を抱いている場合、あなたのその疑問は

神の前に光が当てられている証拠だと思います。

 

真実に聖書だけを読んで行けば、神の言葉は永遠であり完全で

あり、異邦人が語る様な律法=厳しく生きられない、イスラエルを試すために一時的に与えられた教えなど聖書に書いてあるわけがなく、全世界の民族に共通の教えを神の口から永遠の真実を人に伝え神に創造された神の似姿の人の生きる性質が書かれていると言う事実を掴めるのです。聴く聖書と言うアプリも日本語では

あるのでしょうか?とにかく創世記からマラキまで流して日々

聞き続けてみれば、一貫して同じことを話していること、

福音書以降に別の教えなど書かれていない事に気がつけるはずです。数時間でヨシュア記から最後のマラキまで聞けます。

通勤の時、家事の時、単純作業の時、何かをやりながら聞いたらすぐに聞けます。古代は皆口頭で神のトラー=言葉を聞いて暗記したのです。

特に預言書を聴き続ければ、同じメッセージしか語られていない

事実をはっきり捉える事が出来ます。

預言書は、”モーセの五書=婚姻契約に書かれた生き方に戻れ”

神の教えから離れた生き方は危険である!と言うシンプルな事実

であり、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ゼカリヤどの預言書にも、未来全ての人が”モーセの五書を、新しい人=割礼のある

頭脳=内側に聖霊を得て、神の教えを心底理解して生きる=

それが新しい契約の状態=モーセの五書の中身は同じ

神の国に加わる人の状態が変化している!全員が皆モーセの五書

トラーの中身を理解して生きている!それが再更新された契約を生きる状態である!と書いてあるのです。新しいとは別種の新しさではなく、新月の新しいと言う言葉と同じ意味の”再更新”されると言う意味なのです。

別物の新しい契約などこの世にも、神の国にも存在しないのです。これはヘブライ語のトラー、預言書をヘブライ思索で書いてある通りに捉える事が出来る人には説明しなくても、基本中の

基本知識であり、新しい別物の教えが出現する=モーセの五書を

捨てた教え、又は未来イエシュアが来るまで神の教え=モーセの五書に書かれた数々の教えは停止!などと言う神の言葉を曲げた解説など誰もしないのです。もしそう言う教えをするなら、

それは単に自分の教えを主張するだけで、ユダヤ人の中にも神秘主義的な変な教えをする人もいますから、十分注意して、聖書

だけに立つ!と言う事に戻れば必ず聖霊が神の言葉の真実を

教えて下さいます。

その場合に神の言葉を書かれている意味を捉えず、理解せず、

自分流に曲解して読むなら、神の語る真実は見えないです。

神の真実を知る方法=神の言葉で伝える内容を書いてある通りに

知る事なのです。

 

日本語の世界で語られている教えはほぼ、置換神学、デイスペンセーション神学と言う人の思想を通して語る教えばかりです。

聖書を利用して自分の意見を語る、自分の考えを聖書に語らせる主題メッセージが主流で、ユダヤ人の世界の様にヘブライ語の

聖書から書いてある意味通りを満遍なく教える、解説すると

言うことは皆無なのです。大きな違いがあるのです。

2000年近く、1世紀後半からパウロの様な教師から完全決裂し、異邦人ヘレニズム思想を土台とする思想から語る教師達の

元で聖書を解説されて来た、それが殆どだと思います。

 

ローマ帝国の作った宗教は、純粋な神の言葉を土台にした物ではなく、混ぜ物の教えの集結である事神は混ぜ物を最も忌み嫌うと伝えているのです。熱い=本物か、冷たい=全く別物のどちらかにせよ!と。ぬるい=混ぜ物、本物と嘘の見分けがつかない。

だから神の教えを今は生きる必要はないと教え、ローマ帝国が

作った地場宗教の教えを混ぜ、聖書に書いてある神のオリジナルの永遠不変の記念日を捨て、異教の神々の記念日に自分達の

新宗教の記念日を便乗させて尊重し、伝統で継承し実践しているだけと言う事実に全く気が付いてはいないのです。何を生きてもそれはその人の自由ですが、神の言葉を曲げる、神が神の教えや記念日を変えたと言う不真実を語る事、嘘は言ってはならないし、それは命に匹敵する重さ=死に値する罪=神の定義では

どうしてもやってはならない事なのです。

だから、熱心に神の言葉=神の伝えている内容を探求して!と

神が教えているのです。なぜなら人はどんな度合いでも神の性質からずれれば傷つく、破壊される、破損する、喜びが奪われて

神と直接顔と顔を合わせる関係の中に入れないからです。

 

このブログをなぜ書こうかと思ったきっかけは、世間で有名人気を博すスピーカーから聖書の真実ではない教えが常に語られ、

それが聖書であるのだと普通に伝えられ続け、浸透し信じられてしまっている事にはっきり気がついて驚愕したからです。イエス様を信じれば救われます。その点だけは教えられても後は、神の言葉を生きる必要がないとか、聖書に書かれた神の教えを書いてある通りには学ばないし、宗教活動だけが熱心に語られ、神の教えに根付いて日々を生きる、神の子らの性質に反する神が定義する聖別を汚した行為をしていても全くその事実に気が付いていない、解説もされていないと言う、聖書から遠く遠く遠く離れた

神の言葉を曲げた教えが一人歩きしているしかも、その矛盾

直に言えない。理解しない人に対して面と向かって言えば反発されるから、理解しようとする人にしか話せないので、ブログで

書けば、強制的に読んでもらう事も免れるし、聖書の事実を読みたい人だけが読んで下さるだろうと思い、書き始めたのが

きっかけなのです。

進化論を信じている人達に向かって創造論を言っても跳ね返されるのと同じで真実を知ろうとしない人と話しても会話が無駄になるのです。特に長年西洋思想神学を通して語り教える人達が

軌道修正をする事は至難の業です。教師が間違いを認めるのは

本当にプライド捨て、全て捨てない限り出来ない事だからです。

偽物の教えを検査し、棚卸しし、除外して聖書だけに戻ろうと

言うきっかけ=真実に目覚めない限り、同じ様に西洋人の造った思想を通して聖書を曲げた教えを語り続けて行くのが普通の事なのです。中には混ぜ物の教えでもキリストが伝われば良いと考えるのは、ローマの思想と同じ。ハロウイン=全ての聖徒の霊の祭り=万聖節をケルト人の”死者の霊を祀る祭り”と重ねた祭り、

それをイギリス伝道に使おうと考えた発想と同じで、クリスマスとイースターの発想もそれと同じなのです。異教神地場宗教の

記念日に便乗し、神の創造された記念日を作り変えた。伝道、

キリストが伝われば方法や内容は何でも良いと考えるのが異邦人思想、神の言葉を曲げて真実では無い形で歪めてイエシュアを

伝える事を神が断固として禁じている事に、トラー、預言書に

書かれている内容から全く気が付いていないからです。

”高き所”を取り除け!と全ての人に対して神が言われているのです。そう簡単に軌道修正などする決心も付かないと言う人の事も聞いた事があります。生活かかっている場合は特にそうです。

聖書を書かれている通りに読み、実際に生きていない人達に向かって話しても同等に反発を食らう。真実が真実として語る事が

出来ないマトリックスが固まりすぎていて、どこからブロック

崩しを出来るのか?でも真実を探求している人には、神の言葉の真実が神の意図通りに必ず届くと信じています。はっきり言うと神の言葉を生きることは喜びの源泉に浸ること、喜びあふれる秘訣であり、人の教えは本当に宗教と同じく偽物、苦痛、縛りを

与えるだけです。その苦痛を多くの人は口には出さなくても

心の中で感じているのを知っています。

人は神の真理だけで綴られているのです。だから嘘は本能的に

拒絶する、それが人間の本来の成り立ちだからです。人の教えに

縛られ苦痛、窮屈喜び塞がれるのは、それは本来の自分の性質では無い生き方だからです。

だから聖書にも書いてないことを語り続けるのを気が付いた人からやめて、真実だけを発言し、そして実際にイエシュアが生きた

トラーを同じ様に生きる事を始めれば良いのです。

人に何事も強要することはしてはならない、出来ない、でも個人は神の前に立って聖霊に導かれ神の性質通り、神が言われた通り

神を愛する人は神の教え=トラーを生きる!と書いてあることを

実際に日々の生活の中でやってみれば、様々な発見をします。

神は神の言う事を尊重し、生きる人に本当に大きく報い、祝福し、特別な事様々に教えて下さいます。神の最も親密、奥深い

内容を教えてくださるのです。赤ちゃんにダイアモンドや宝石を与えても意味や価値が理解出来ないけれど、それらの価値を理解する人が手にしたら、本当に意味があり理解出来るからです。神は”豚に真珠と言われた通りに豚に真珠を投げても踏みつけるだけだからです。価値を理解しない人は神の言葉を投げ捨てるからです。真珠とは、神のトラーを表している言葉なのです。

豚=神の性質、神の性質に属さない、神が創造した清掃動物=

ゴミを溜め込む、何でもかんでもあらゆるものを考えもせず

識別なしに取り入れて食べる動物、神の宮の祭壇、神の宮である人の中に取り込む物ではない動物として造られた物なのです。

動物の性質、生体を通しても真理を伝えているのです。

神の子らは神の性質=言葉を食べて生きると書かれているのに、どうして神の言葉を捨てて生きているのか?

聖書だけに戻り考え続ければ、聖霊が聖書=神の言葉=聖霊=

息吹を吹き込まれ書かれた言葉から必ず神の真実を教えてくださいます。異邦人は=神の呪いの律法は恵のない、厳しい戒律で

廃れたと神のトラー=モーセの五書=はじめの愛=契約の愛に

生きる事から離れた!と言う警告がはっきり書いてあるのです。

 

黙示録2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。

あなたは初めの愛=シナイ山で初めて文字として神が書いた婚姻契約=トラー=モーセの五書から離れてしまった。

2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざ=モーセの五書を行いなさい。もし、そうしないで

悔い改め=モーセの五書に書かれた生き方に戻る事をしなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

黙示録14:12 ここに、神の戒め=モーセの五書を守り、
イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。
 
 

続く