異邦人の世界で教えられる聖書に対する教えは多くの場合、
神の言葉を100%真実であると信じていない方が主流です。
聖書は100%神の言葉ですと言いながら、聖書の最初の部分を
否定すると言う矛盾に満ちているのに、その矛盾にさえ全く
気が付いていないのです。
異邦人の世界の中で語られる聖書の教えは、神の言葉=聖書は
絶対的神の権威であると言いながら、実際は全くもってその信条通りに神の言葉を取り扱って生きてなどいない矛盾を矛盾としない矛盾なのです。
神の言葉に対して”律法であ〜る、厳しくて生きられない重荷で
あり、縛り、呪いである”と言う思想を持つ場合、それは聖書に書かれた、神が紹介する神の教えに関して神が語っている事とは全く真逆の教えです。神は太古に直接神の口から人間の言葉で
語られた内容真実を、今は嘘、無効、意味ないとする人の教え、
この間まで真実だった事が今日は嘘なんて言う教えは聖書の
どの箇所にも書かれてなどいないのです。こう言い続けても
そう考えないのが異邦人の世界=それほど人の教えに洗脳されて
しまっているのです。
異邦人が編み出した教え=1世紀後半から出てきたモーセの五書を否定する教え、それが、置換神学であり、デイスペンセーション神学であり、人間至上主義思想=人間が中心だから、神の言葉や神の教え記念日を神が伝える通りには生きていないのです。
神の言葉に書かれた真実な意味、内容を知らないから
神の言葉が呪いの律法などとそんな事を本気で言い続けられるであると言うのはシンプルな事実なのです。
人が生きられない苦痛を神が与えると言う思想こそ神との隔たりを作る教えです。
神がどんなに麗しい生き方=イエシュアの性質と同じ生き方=
神の性質を生きることがどれほど栄光に満ち麗しく祝福に満ちている生き方なのか、モーセの五書に書かれている内容を知らない
場合、人の教えを信じて、そこに書いてあるのは厳しい呪いの
律法なのだと誤解しているのです。
開かずの間に蓄えられている無限の宝を知らないからです。
自分の本当の性質=神の似姿の性質を知る手がかりを捨てているのです。
トラー=契約の愛に生きる姿はこれ!と詩篇の著者はトラーから
話しています。
詩篇133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。
133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンの
ひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。
133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。
トラーを否定する、律法だと考えている人から曲げられた神の
言葉を教えられても、それでは神の語る真実は聞けないのです。部分的には真理を知っていてももし神の言葉を曲げたり、
否定する=その様な思想を持つ場合は聖書を書いてある通りに
学んでいない証拠でもあるのです。神の言葉通りに学べば神の言葉を否定する、時代ごとに変化するなどと言えない事実を聖書から発見するからです。
トラー=イエシュアと聖書には書いてあるのに、イエシュア=
呪い、律法、縛りであると考えるのでしょうか?イエシュアは
呪いの律法とでも考えているのでしょうか?イエシュアはトラーが肉体をとって来られた、言葉=イエシュアと聖書には書いてある意味を知れば良いのです。
神の言葉の最初の部分と最後の部分では性質が違う、より優れた教えが語られているのが福音書〜黙示録であるなどと言うのは
最初に書かれた部分を書いてある通りに学んでもいない、
いや聖書を最初からちゃんと読みさえしない、知らないからだと思うのです。
麗しい生き方=イエシュアが生きて見せてくださった人類唯一の
完璧な手本=神が創造された本来の麗しい神の似姿そっくりの
人の性質を生きる事、これが呪いで律法だ?と言う発言は
聖書=神の言葉とは全く異なる発言であることは聖書だけに
照らし合わせれば明らかな事実なのです。
神は神の教えの性質をどんなものだと神の口から直接語った
言葉で紹介していますか?
申命記 30:10 これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、このトラー=モーセの五書の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。
30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、
われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、
『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれの
ところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口に
あり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。
30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と
災をあなたの前に置いた。
30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を問題の根はシンプルであり明らかなのです。
人が神の言葉を曲げたから、神の教えの中身を知らないまま
捨てたからです。
神が神の仰せをガードして生きなさいと言っているのに、神の教えに敵対し、神の言葉を捨てよとは、分裂症的教えなのです。
神を愛する人は神の教えを愛して生きると聖書の最初から最後までブレずに同じ事が書かれています。人の教えで混ざった教えも
神の前には忌み嫌われるもの、なぜなら混ぜ物の教えは
イスラエルの神の性質、神に属さないものだからです。
申命記5:29 ただ願わしいことは、彼らがつねにこのような心をもってわたしを恐れ、わたしのすべての命令を守って、
13:1 あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、
しるしや奇跡を示し、
13:2 あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたが
これまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、
13:3 あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、
精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを
知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。
13:4 あなたがたの神、主に従って歩み、彼を恐れ、その戒めを守り、その言葉に聞き従い、彼に仕え、彼につき従わなければならない。
コヘレトの書12:13 事の帰する所は、すべて言われた。
2:4 「彼を知っている」と言いながら、その戒め=モーセの五書を守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。
2:5 しかし、彼の御言=モーセの五書を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、
わたしたちが彼にあることを知るのである。
<イエシュア=トラー=臨在する神=聖霊が内側にいることは
神の性質=トラーを生きる事で環境に現れ出る>
2:6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、
その人自身も歩くべきである。
5:1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、
神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
5:2 神を愛してその戒め=モーセの五書を行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒め=モーセの五書を守ることである。そして、その戒め=モーセの五書=トラーは
むずかしいものではない。
続く