その2  1世紀のイエシュアや使徒が生きていた時代を考えてみれば | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人の世界で語られる伝統=異邦人が作った教え=神の言葉は無意味、終わったと言う教えが神の教えだと勘違い、誤解して

いるだけなのです。神の言葉だけに戻れば気が付けるはずなのに伝統の教えと伝統の慣わし、実践に周りがやっているからそれが正当な現代の恵みの時代の教えだと思い込んでいるだけなのです。

神の言葉に敵対することは直に聖霊に敵対することであることを

覚えておいた方が安全です。言葉=神=聖霊により書かれた聖霊そのものであるからです。

1世紀のイエシュア、使徒、ユダヤ人異邦人が何を祝い、

何を生きていたのか聖書を読めば分かるはずです。

 

彼らは、モーセの五書を生きて、シャバット、新月、春、秋の祭りを変わらずエルサレムの神殿中心に生きていたのに、

その事実は聖書に書いてあってもまるで見えないが如くに

取り扱われてしまっているのです。

預言書には、神のシャバットを汚した罪が何度も何度も書かれています。どうしてでしょう?それほど大事な事、人の命に匹敵するものだからです。知識の木から食べた=人の命が損なわれる

単純な行為でしょう?シャバットを無視し、神の命の泉を

ガードする事を忘れたら、それは破壊が起こるからです。

神が最も忌み嫌われる、禁止していることは、神の教えに別物を

混ぜ入れる事、混ぜ物の教えです。半分真実半分作り物、これが

最も拒絶されるべきものなのです。生ぬるい。熱い=本物=

神の教え、冷たい=異教の神々の教え、ぬるい=両者混ざった

ミックス、混ぜ物。混ぜ物は見分けがつかないのです。

 

それらしくて実は純粋な神の教え、言葉ではない、まがい物、

コピー品、偽物と混じる事。

神が言われた通り!それ以外はしないで!と言われているのに

通じない。神の言われる通りではなく、自分の熱心さや動機が

何より大事なのだと思い込むのは、人間が中心、人間至上主義=ヘレニズム思想で聖書を教える異邦人の世界の余計な副産物、

落し物なのです。

 

神の暦では週の他の日は普通の労働日です。6日の間、交わりや

フェローシップ、バイブルスタデイをする事は可能です。

でも第七日目以外は、神の創造されたシャバットではないのです。第七日目以外の日とシャバットとは別の性質の日であり、

神に聖別された日シャバットは週の第1日から第六日ではない!

 

こんなシンプルな事実が聖書の最初から最後まで書かれているのに、2世紀以降、西洋教父達ローマ帝国の手で神のトラーを生きる事を禁じ、神の言葉を変えた教えを聖書だと本気で信じているその伝統を異邦人は継承しているだけなのです。

 

プロテスタントもカトリックと枝分かれしても、根にある思想が共通しているのは、モーセの五書を捨ててローマ帝国が作った

教えや記念日を同じ様に尊重し、継承し、イエシュアや弟子達や1世紀の聖書に登場する信者達が生きた神の記念日を

捨てているからです。

 

神の前には1−6日は労働日、シャバットではなく労働日であると言う事実さえ読み取れない、通じなくなってしまったのは、

混ぜ物教えに浸る行為をしそれを実践し聖書に書いてある事に、戻り考えることさえしていないと言う怠慢があるからなのです。伝統で異邦人の世界で大衆が支持し、繰り返していること、

イコール神の真実であると錯覚しているからです。

 

特に聖書を教える人は注意しなくてはならないのです。教える

内容が神の言葉に敵対する、否定する、塗り替える教えをするならばそれは聖霊を悲しませる罪に匹敵するものであり、

聖霊に敵対する教えである事に十注意を払う=それには聖書だけを最後の権威としない限り、人の教えに混ざりどこからどこまでが真実なのか、人の作り出した伝統の教えなのかの区別さえ見分けられないままいると言うことになるのです。

普通の学校でも真実ではない事を教える教師の所で学ぶと言う事はしないはずです。

 

真実を伝えないならば、それは神の子ら、地の塩、世の光の

役割をしておらず、宗教の教えを世界へ伝えているだけになって

しまいます。神の子らは、光の中=イエシュア=トラーの真実

の中を歩み、世界へ本来の人間の生き方、神のデザインされた

神の性質、似姿の人を生きて世界へ伝える役割があるのです。

 

神の記念日は福音の中核なのです。イエシュアのされた業そのものを1つ1つ教えているものであり、実際に神の記念日を生きて

行けば、神の教えていることを神の言葉、声の中で実際学習する

体験をする様に神がデザインしているのです。

 

それを知らないのは神の教えを実際に生きていない、捨てているから本当にその一言に尽きます。

食べた事のない場合、その食品の味は分からないとクリスチャンも言うでしょう。神の教えを生きないからその中身実態が何か

全く分からないと言う事なのです。

 

 

 

終わりの時代は、嘘と誠が明らかになる事が書かれています。

神は神の言われたことが永遠に真実である事を必ず証明し

そして最後は全ての人が神のトラーに戻り生きると預言されている通りが実現するのです。

背教=アポスタシー 反キリストとはどんな意味でも、どんな

度合いでも神の教え=言葉=聖霊に敵対する事であると聖書には書かれているのです。