ガラテヤ5:1 神の言葉イコール奴隷のくびきと誤解した定義をする異邦人思考 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ5:1 自由を得させるために、キリストはわたしたちを

解放して下さったのである。だから、堅く立って、

二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

 

奴隷のくびき=モーセの五書=旧約聖書=律法などと誤解した

教えが浸透すれば、”旧約聖書”イコール奴隷のくびきを生きる

事に戻るのか〜と条件反射するのは無理ない事だと思います。

進化論を信じる人が、自分の先祖は猿と即答するのと同じです。

 

神が神の言葉、教え、インストラクション=永遠不変の神の完全なる言葉であると説明しているのに、聖書の箇所のどこに、いつ

それを同時に”奴隷のくびき”でなあるどと解説していますか?

そんな事が聖書に書いてあるのか、ないのか、

ぜひ個人個人で聖書を探り探してみて下さい。

神が言われた事が途中で変化すると言う教えは、今日真実であることは明日真実ではなくなると言っているのと同じ教えです。

神は常に真実、真理しか語らないのに、それがどうして時を経て後から真実、真理ではなくなると信じているのでしょう?

それは神の永遠不変の言葉を信じず、神の言葉が変わったと

言い続けている異邦人の教えを信じているからです。人の教えを根拠にすれば、支離滅裂な分裂した教えを編み出すのです。

事実それをしているのです。

 

神ご自身が、神の言葉に対して定義しているその内容を全く

無視した人間の教えを信じたら、神が何を教えているのか、

神ご自身の考えそのものを知ることなど出来なくてなって

しまいます。しかも聖書からちゃんと真実を探り出す作業を

しないのなら、神の言葉に反する人の教えに埋もれ続けてしまうのです。

そして、イスラエルの神に対して、偽の神像を通して誤解し

関係の世界に隔たりを作って行くのです。

 

世界中がイスラエルの神を知らなくても、もしトラーに書かれた

生き方をするなら、この世界はもっと平和、天の実態が地上に

来るはずです。尚更聖霊を内側に受けた人が神の性質を生きる

ならそこには”天国”御国の実態が表れ出るのです。

 

福音書以降に書かれた天の国と言う言い回しは、神ご自身の実態

神の性質を言っているのです。天の国、神の名=神の性質=実態の事だからです。神の性質を生きる人を通して天の国の実態

神の性質そのものが人の生き方を通して地上に表れ出るからです。

クリスチャンの世界のパウロの書簡のこの様な解説は、メシアが

神の民をトラーを生きる奴隷状態から解放したと解説しています。その教えは神から出たのでしょうか?事実は神から出た教えではないのですから、ではその教えは一体どこから来たの?と

考えないとなりません。

エデンの園の人を騙した動物の声と同じ性質の教えなのです。

ヘブライ聖書に書かれた、言葉=神=イエシュア=トラーで

ある事を異邦人の世界では教えれらない、認識されていません。

その事実を知ったら、神の言葉を否定する教えなど考え付かない

出現するわけがないからです。

異邦人は、神の教えを生きる事は、暴君に仕える事に戻るが

ごとくに考えているのです。

イエシュアを信じたらクリスチャンは一体何を実際に生きると

考えているのでしょう?新約聖書?それならその箇所は、

ほ〜んの短いトラー、預言書の解説でしかない、神の提示する

人の生き方の極少しの抜粋でしかないのです。福音書〜黙示録は、聖書の30%しか占められていない箇所であり、その箇所は

使徒が書いたトラー、預言書に書かれた内容が地上で表された

短い解説、コメンタリーであり、新しい契約書では無いのです。

 

福音書〜黙示録をちゃんと読めば、その中は100%トラーを

教え、生きて、シャバットや新月、祭りを祝っている内容しか

書かれていないのです。別の新しい教えなど書かれてなどいないのです。ちゃんと聖書の事実だけに目を留めて伝統で語り続けられている、人が編み出した教え、神の言葉を否定して、別の教えが出現したと言う教えに、聖書に書かれた内容からはっきりと

神の言葉を否定する教えに疑問を抱かないとならないのです。

 

異邦人の世界で語られる解説は、パウロが語る事実、表明と

和合出来ない、相容れないものなのです。

パウロがローマの3:31で何と言っていますか?

 

ローマ3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちはトラー=

モーセの五書を無効にするのであるか。断じてそうではない。

かえって、それによってトラー=モーセの五書確立するので
ある。
パウロは、クリアーにはっきり明らかに100%モーセの五書を
無効にするわけない!断じてそんなことはない!と言っているでしょう。モーセの五書を100%支持している表明をしているのです。パウロがユダヤ人として、そしてパリサイ派の中の
パリサイと議会で宣言した意味は、パウロはトラーを100%
支持している立場である事実をユダヤ人議会でそれらの言葉を
使ってその言葉の意味が通じるユダヤ人ラビ達=裁判官、
司法官、政治家に対して表明しているのです。
パウロが100%モーセの五書を支持している事実を揺るが
さないでパウロの書簡を読まないとならないのです。
 
パウロがこの様な表明をしながら、パウロが同時にトラーを否定した教えを編み出していると解釈する異邦人の世界の解説は、

本当に神の言葉=真実から逸脱した教えを土台としているから

です。神の言葉を否定すれば、どんな聖書箇所をも適当に

取り出して利用して創作の教えなど作るのは簡単なのです。

 

確立=トラー=モーセの五書に書かれた神の教えを生きる事

を固く確立し根付く事であるとパウロが言っています。

そしてこのパウロの言葉も否定するのは簡単でしょう。

聖書を否定する教えに辻褄が合わなければ、違う教えを作り

辻褄が合わない箇所を創作の教えで解説すれば良いからです。

このエンドレスな連鎖反応、堂々巡りの作業が1世紀後半から

今に至るまで、異邦人の世界の教えの中でずっと続いているのです。

パウロははっきり100%モーセの五書を支持して生きている事を、使徒21章でも神殿の儀式を通して世間へ表明している事実があるのです。問題は、パウロの書簡の論点とパウロが書いている意味を、文脈、論点から完全に逸脱し誤解した解説を異邦人の

世界では語られ続けていると言うだけなのです。そして、この様な箇所を読めば、トラーを否定している教えを支持する人は、

もしかしてパウロは人によりコロコロ カメレオンのごとく意見を変えるなどと言う仮説までも異邦人は編み出しているのです。

この仮説は、パウロが言ったユダヤ人にはユダヤ人、ギリシャ人にはギリシャ人と言うその言葉の意味もまた完全に誤解して、

出会う人によりパウロは神の教えをコロコロ変えたのだと信じ

込んでいるのです。異邦人だからその様に考えるのです。

パウロはイエシュアの使徒として神の言葉=トラーに忠実に

教えている事実があるのです。イエシュアの使徒預言者弟子で

神のトラー=モーセの五書を否定した教えをする人など聖書には

登場しないのです。ユダの様な裏切り者となる以外は。

嘘の上塗りが雪だるま式に膨れあがるのは、パウロが書いている意味を正確に把握していない事が原因なのです。

 

あれと同じだと思います。伝道のためなら、なんでも変形し

神の教えに繋げます。ケルト人の悪霊祭りをカトリックの聖人を崇拝する祭り=万聖節に変えて利用し、ケルト文化に根付いた

人達にキリストを伝えましょう。日照時間が短くなる冬の冬至の時期に行われる数々の異教の神々の祭りを、キリストの誕生日と言うことにして創作し、大衆に根付いた祭りに便乗してその中に

メッセージを絡めて、キリストを人に伝える祭りに変えましょう。春の春分=満月の時期に行われる異教の神々の繁殖を祈願

する祭りを、イエシュアが祝っていたオリジナルの過越の祭り

排除して、イースターと言う異教の祭りのテーマに重ねて変え

ましょうと言う事をしたのです。日曜礼拝も2世紀に、ローマ

帝国の重税と刑罰を逃れるために、ローマ皇帝と異教の神々を

崇拝する日=日曜日に異邦人が勝手に変更しただけ。神が最初から創造し神の子らへの特別の印として与えたシャバットは第七日目。永遠不変と書かれているのです。異邦人はオリジナルの神の

言葉、教え、記念日をその様に変え続けて行ってしまったのです。だからトラーをガードするユダヤ人と異邦人信者との教え、記念日、祭りが異なるのは神が歴史の途中で教えや記念日変えたからではなく、異邦人が神のオリジナルとは違う別物を異教の

神々の祭りに便乗製作したから!これが真実なのです。

 

これら、神の教えや祭りを異教の神々の教えや記念日に便乗し

変形する事は異邦人の世界では普通にされて来てしまった事

ですが、これらを聖書だ、神が仰せになった事だと異邦人の間では誤解され信じ込んでいるのです。サンタロースにクリスマスを奪われた〜と以前思っていましたが、異教の神々の祭りに便乗する方が無理があり、間違っているのです。元々の主役の座=

異教の神々の祭りの座は固いからです。オリジナルを祝う!

それがオリジナルであり正当なのです。

同じ思考回路=異邦人思想、神の言葉を変形しても良い、

神の言葉を否定したり、変えたり、神の純粋な言葉を混ぜ物の

教えに作り変える事に何の抵抗も感じないのは、

異教徒の土壌で育った異教徒異邦人思想が根強くあるからです。

 

神の教えを変えれば、元が何であったのか、聖書を学ばないなら分からなくなります。そしてさらに聖書の根拠に戻り確認しない人達に取っては、聖書に何が書いてあるのか知らない、書いて

あるのにその通りに読まなくなっているので、意味が通じなくなり、伝統で語り継がれる人の教えが神の言葉であると信じ込んでしまい、それをまた他の人に伝え続けて行ってしまっているのです。

 

ユダヤ人でもある意味、ガラテヤの中に蔓延していた別の福音でも分かる通り、聖書の預言書や歴史書の中に書かれた事にもある様に、異教の神々の教えと混ざった教えで、イスラエルの神を

崇拝していたイスラエルの罪でも同じ事をしています。

 

そして異邦人の世界の解説は、”奴隷のくびきから解放した”と

あるのは、”くびき”=モーセの五書に書かれた罪に縛られている奴隷の生き方から解放したと教えているのです。

その教えをする人は、モーセの五書に書かれた内容、意味など

正しく把握さえもしていないはずです。もしパウロの様に

トラーを理解しているなら、その様な教え〜”奴隷のくびき、

イコール神の言葉などと言う教えを決して編み出す訳が無いからです。神のトラーは完全!と聖書には書いてあるのです。

完全なるものがどうして途中で変化しなくてはならないのか?

完全なものが途中で不完全で終了になるのか?

どうして完全なものが不完全の、奴隷のくびきになるのですか?

どこまで言っても矛盾だらけな教えなのです。

 

トラーがくびきなら、トラーに書かれた罪の定義一切神が無くした!楽でしょう!それが福音と考えているなら飛んだ誤解をしています。罪の定義が無くなる、イコール無法地帯=ソドムと

ゴモラを呼び込む、大歓迎する事になるのです。

 

しかも異邦人は聖書の最初の部分など学ばないまま、

最後の30%しか読んでいないから、神が何を教えているのか

さえ気が付いてもいないのが事実なのです。

 

パウロもイエシュアを信じないユダヤ人も同様に1世紀の時代にはトラー=モーセの五書に対して異邦人の様な奴隷のくびきなど

と考える人など誰一人としていないのです。

ラビ達が編み出した口頭トラーを負えないくびきと考える人は

いたけれど、神の教え、インストラクション=モーセの五書=

トラー自体に対してそんな意識など抱く人は居ない。

神の言葉は蜜の様に甘いと書いてある通りだからです。

 

マタイ23:4 使徒15:10ここに書かれているのは、

トラーではなく、ラビ達が編み出した教えの事を負えないくびき

と話しているのであり、イエシュアが言った通り、

”わたしのくびき”=トラー=父の教えを神の意図通り生きる事は、負いやすい、心地良いぴったり、イエシュアと同じ性質、

歩調で歩ける事は心地良いと教えているのです。

 

私達人間が解放されたのは、罪の法則に縛り付けられる

その古い性質を生きる状態から解放された事なのです。

 

 

続く