1世紀後半 2世紀3世紀で顕著になった別の教えの出現経緯 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

自分自身がある宗教グループと同等な信仰であるのでは?と

周りの他者から誤解、勘違いされてしまっている場合、

どんな風に説明をしてその誤解を解きますか?

 

自分の信仰はその宗教と全く関係ない事を証明するために、

彼らの信じている”経典”など、私は一切信じていませんし、

彼らが祝う記念日や儀式もしないです!その宗教の象徴、

主張している教えなど一切自分は生きていませんよと

説明するのではないのでしょうか?

 

他宗教なら区別が付きやすいですが、似通っているものは区別が

付かないのです。ユダヤ人から見たら、カトリックもプロテスタントも同じに見えるのでユダヤ人は”カトリック”と呼ぶのです。

何故なら、信仰の土台が同じ要素を共有しているからです。

イスラエル=ヘブライのトラーとは異質違うものだからです。

 

プロテスタントの人はカトリックですとは名乗らないですね。

どこがどう違うと説明しますか?

同じ救い主を信じている事には変わりないのですよね。

カトリックが信じている内容の全てを同じ様には信じていないと言う事ですね。

だからプロテスト=抗議する〜カトリックの教えに抗議すると

言う、ルターがやった犯行声明と同じ意味の名前を

グループ名に付けたのでしょう。

 

プロテスタントと言う宗派が生まれたのは、宗教改革以降

16世紀以降であり、AD1700年以前には存在しなかった

宗派であり、カトリックさえも、1世紀の使徒達が生きていた

時には、イスラエルにはその様な宗派や教えなど存在さえもして

いなかったのです。

それともイエシュア昇天以降すぐに”カトリック”が誕生したと

考えていますか?

イエシュアは新しい教え=カトリックを教えるために地上に

来たのでしょうか?

 

聖書に書かれている事実だけを1つ1つ確実に繋げて、

じっくり事実と向き合い考えてみると、真相が見えて来ます。

 

1世紀は、殆どのイエシュア信者はユダヤ人であり、

ユダヤ人のイエシュアを信じない人も、信じている人も

街囲みの中の”シナゴーグ”=会堂へ土曜日=シャバットに皆で

集まり、トラー朗読を聞いていた記録しか聖書には書いてないのです。イエシュアが会堂でトラー、預言書を読んだのは

シャバットであり日曜日ではないのです。モーセの五書は呪いの律法で廃れたのだ〜などと言う教えや置換神学や、デイスペンセーション神学などの教えなど一切存在しない時代、1世紀には

全く無い教えやコンセプト、思想!!!

カトリックが作った記念日、日曜日礼拝、クリスマスも

イースター、ハロウイン=万聖節なども無い時代が使徒達により書簡が記されている時代なのです。

聖書の事実だけ繋げて考え続ければ真実が見えて来ます。

どうして今の時代の信仰や教えと1世紀のそれとでは違うのか?の始まりは1世紀後半から早くも始まったからです。

パウロがガラテヤで言う通り、”別の福音”=聖書とは異質の教えはいつの時代にも存在し続けているからです。

手を替え品を替えて。

 

この間の万聖節の祭りの裏にあるカトリックの教え=聖人崇拝

信仰=ケルト人の悪霊祭りをイギリスでの伝道に使うために自分達カトリック流の祭り=聖徒崇拝祭りに変えたものがハロウインです。その祭りの裏にある、彼らの定義する聖母や聖人が現代に働きかけるなどと言う教えをプロテスタントの人は信じていないと思います。いや信じている人もいるかもしれませんから何とも言えませんが、一般的にと言う意味です。誰が何をどう信じて

いるのかの内容はその個人に聞かないと見えませんが、

今は何千何万のグループの教えに別れているので

一概にこうであるとは言えないからです。

 

ある宗派、宗教の教えと違うと言う場合、その宗教の特徴となる”教え”を生きていません、彼らの信仰の特徴である”記念日”を祝っていませんと言う事を言葉と行動で表すと思います。

 

それと全く同等の事が歴史の中で起きたのです。

何度も繰り返していますが、神の言葉が変わったと言う教えは

1世紀後半から、既に異邦人教父達により作られてしまった教えであり、神から出たものではないのです。

その様な神の言葉を否定する教えを人が作り、世界に流通して

しまった事によるのです。

1つはローマ帝国による迫害=政治的理由と、ユダヤ人と異邦人は初めから仲が良くなかったので、異邦人はユダヤ人に与えられたトラーに馴染みがないのも相乗効果になり、自分達には異物の教え=天的文化=トラーに書かれた教えと決別しようと決めた

異邦人西洋教父たちの教えに異邦人イエシュア信者達は流れて

行ったと言うのが本当の事実なのです。神が神の言葉を変えるわけがないことがはっきりと聖書には書かれているのです。

どうして神の言葉を否定し続ける事が恵の生き方、新しい正義、神の教えであると信じているのでしょうか?聖書のどこにそんな教えが書いてあるのでしょうか?

神が真実であると神が言った事なのに、時を経たら真実ではなくなると言う教えをクリスチャンは信じているのです。

今日は真実、明日は不真実になる、そんな教えはイスラエルの神の性質や神の言葉の性質ではない人が考えた教えなのです。

 

聖書を誤解して読んでいるのは、その様な神の言葉を否定した

教えを土台にし、聖書に書いてある意味通りを学ばず、知らないまま勝手に聖書を曲解して読み込みの解説をしている、聖書を

使い自分の考え意見思想を語っていて、聖書が語る通りに神の

言葉通りには語らせていない教えなのです。

その様なコメンタリー、解釈、解説が西洋人=異邦人の世界に

1世紀後半以降から今までじっくり浸透してしまったからです。

特にパウロの書簡など、全く誤解されて解説されています。

異邦人の世界では。

 

1世紀当時は異邦人信者は本当に極少だったのです。

ユダヤ人の中にすっぽり入りユダヤ人の交わり中に異邦人が

入れてもらい、シャバットごとに、モーセの五書をユダヤ人の

会堂でユダヤ人と一緒に聞き、同じ様にトラーを学び、皆

モーセの五書を生きていたのです。

だからパウロはシャバットごとにトラーを教えていた記録が使徒の書簡には書いてあるのです。日曜日に会堂に行く人などいない、日曜日にはトラーが読み上げられたりしないのです。

何故なら日曜日はイスラエルでは労働日の最初の日、神の教えでは第一日から第6日までは労働日とちゃんと神が直接人に教えているからです。

現代でもイスラエルは日曜日は労働の最初、学校もあるのです。

 

ユダヤ人と全く同じパウロの教えていたグループは、異邦人も

シャバット、新月、春と秋の祭りを祝っていたのです。

だから、コロサイの手紙にも”食べ物、飲み物、シャバット、

新月、祭り”を誰からも批判されてはならないと

書いてあるのです。コロサイ2:16

 

この様なパウロの言葉を、”神の教え、記念日を否定する、破棄する事を誰からも批判されてはならない”などと言う逸脱した

読み込み、読み違いをされてしまっているので、パウロが何を

話して教えているのか理解出来なくなっているのです。パウロは諸外国の信者に同じ様にトラーを生きることを教えている事実がはっきりと書いてあります。諸外国で過越の祭りの意味や内容

シャバットに関しても教えているのです。

1コリント5:6−8

聖書に書いてある内容をどこまでも否定するなら、

実際に神の真実を聞いていない事になってしまいます。

 

イエシュアが来られる前には、ユダヤ教なるものさえも存在していない、なになに教と呼ばれるのは、神の教えの中に人の解釈が混ざっているので、イズムと言うのです。神が人に提供しているものは、宗教の教えではなく、純粋な神の言葉=トラー=神の

教え、インストラクション!だけなのです。モーセの五書の中に神が造られた人間の生き方の詳細が書かれていて、預言書には、神ご自身が神の言葉=教えから離れた人達へ、神の婚姻契約=

モーセの五書に書かれている人間の生き方に戻る様に

語っている内容が書いてあるのです。

 

トラーが責めると言うパウロの言葉を読めば、即座にトラー=

モーセの五書は悪いものだ〜!と言う早合点をした解説しか

出来ないのです。人の世界でも違法をしたら、法があなたを

責め裁きます=当然でしょう。違反した生き方をする人は、

人の世界のルール常識を破ったズレた生き方をしている!

それとも何が違反なのか述べるのが間違っていると言うのでしょうか?基準=ルール=悪!全て廃止し自由に好きな様に生きよ!などと言う教えは破天荒です。狂っています。

聖書は、神に造られた人間の性質とはズレた生き方をしたら、

そのズレにより破壊される、刈り取る結末がありますよ!と当然の事を教えていて、シンプルな事実を述べているだけなのです。本当にこの神の言葉に対する誤解を解く事が、聖書を正しく

理解する鍵でもあるのです。

 

1世紀後半、ユダヤ人は110万にも殺されてしまったのです。

これも、偽預言者が、エルサレムは安全であると言い放ったためその偽預言者の言葉を信じた人達が殺されたのです。人を誤りに導く事を教えることは死に匹敵するのです。人を危険にさらす。

危ないのに安全と言う、調べない、考えないからです。

危険な事なのに、安全と教えられてしまいその嘘を信じて命を

落とすのです。今も同じ状況が起きているのです。

真実と嘘の違いに目覚めなくてはならないのです。

エルサレムに残ったユダヤ人は皆殺されました。

ローマ帝国に抵抗したユダヤ人達も居ましたから、

抵抗し戦った人達は、殺戮されました。

70年の神殿崩壊の後、ローマ帝国は勅令を出します。

今の世界と重ねて考えて見て下さい。

政府の命令に逆らうと、身の危険を招きます。

職も奪われます。そうしたら保身策を考えますね。

政府の言う事を聞いた方が安全と。

 

70年代神殿崩壊後に出された勅令は、重税です。

聖書に書かれた生き方や記念日はローマ帝国には異物の物です。

太陽神信仰、異教の神々の教えとは全く異なるのが、イスラエルの神の教えなのです。目の上のタンコブ的存在、排除したいものなのです。どうして?悪霊はイスラエルの神、人間本来の麗しい生き方を憎むからです。

異物=ヘブライ、モーセの五書に書かれた内容は、ローマには

異物=独特な特徴的な教え=神の教えを生きる人、ローマとは

違う食規定、食生活、基準を生きる人、割礼、そして、神の創造した、シャバットや新月祭りを祝う事、それらをする人達は、

異邦人であれど全てユダヤ人と同じと見なす。

ユダヤ人はもちろん神の教えを生きるのでユダヤ人のままですが異邦人でもユダヤ人と同じ生き方をする人達はユダヤ人と見なされて、ユダヤ人と同じ様に重税を課せられたのです。

 

その金額は年に4000ドル、しかも純金で支払う事を課せられ

支払えない場合は、家族の中から人質を取り、払うまで釈放

しなかったのです。

 

その結果ユダヤ人はエルサレムから追い出され、出て行かなくてはならない、お金持ちは留まれるけれど、そんなものは普通は

支払えない。

 

一方異邦人はどうしたのでしょう?

 

 

続く