神の言葉=聖書を神が人に与えた目的は何なのでしょう?
人間が、神の御旨、神の意図、神が人に伝える、神がどんなお方で、その神に造られた人間はどう生きるのか、神の考えている
通り、神の思索そっくりそのまま通り、神の感情、神の思い、
それらを人が知るため、人が神の考えに直接触れる、アクセス
出来る、神の考えを人が聞き、理解し、生きるためです。
神=言葉=聖霊の息吹が吹き込まれて書かれている神の考え、
思想、価値観、真実そのもの、神の言葉を読むと言う事は、
聖霊の実態に神の言葉を通して触れている行為なのです。
だから、神の言葉=教えを神の意図通りに受け取る時、
力を得る励ましを受ける、希望を見出す、確信を得るのです。
神は人間の言語を使って、神が意図している内容を伝える手段を
使っています。神=言葉であり、DNA、設計図と同じです。
神の意図通りを神の言葉から知って人は神の口から出る1つ1つの言葉通りを生きると書いてあるのに、その神の言葉に手をつけ、捨て、読みも学びもしない=知らなければ、神が考えていることを知らないと言うことになるのです。
神の教えの土台=辞書である部分を捨てる=古い箇所、廃れた
教えと神の言葉なのにそんな粗末な不敬な呼び方をされて
しまっている聖書の箇所は何と全体の70%に当たるのです。
福音書〜黙示録は、使徒が書いた書簡、使徒書簡であり、
新しい契約書ではないのです。
その中身は、100%トラー、預言書に書かれた内容の短い短い解説コメンタリーだからです。罪の定義の詳細など福音書〜
黙示録には詳しくなど書かれていません。だからモーセの五書を
知らない場合は、神が伝える永遠の定義、義、罪、聖別、
生き方の詳細を理解していないと言う事なのです。
詳しい内容を知らないと言う事は、実際に日常生活を生きる上でどう生きたら良いのかの、はっきりした神の意図通りの情報、
詳細、理解無いと言う事なのです。
だから世界は大問題的な生き方の渦の中に巻き込まれているのです。
聖霊に導かれれば、神の言葉を読む必要が無いと主張する人が
いますが、それでは、神が愛である、神の罪の定義、神の義の
基準、神の聖別の定義、その他諸々の人間の生き方をどこで
どう知るのでしょうか?自分の体験、空想で知るのでしょうか?
聖霊に導かれる=この土台、前提は”神が人に伝える事を理解している”詰まり神の言葉を理解していなければならないのです。
聖霊に導かれると言う言葉を異邦人の教えの思想では良く使っていますが、聖霊に導かれる前提は神の言葉=教えを理解しているということが無いとならないのです。この世界は神により造られた事実はどこでどう知りましたか?神の言葉=トラーに書かれた事実から、または、その事実を知る人からトラーに書かれた事実を伝えられそれを信じたからではないのでしょうか?
1つ1つ、人の教えや誤解した生き方を正して行かなくてはならないのです。
最近、信仰を持ち始めた人と先週話す機会がありました。
その人が私に言った事は、クリスチャンの世界で普通に聞かされている内容と同じでした。
”信じたら、神に語る、祈るだけで、神の言葉など生きる必要などない。食物規定なども関係ないと思う。”と言いました。
これって典型的な西洋人の教え=キリスト教の教えそのままです。誰がこんな教えを教え続けたのか?神でしょうか?
それとも人=異邦人でしょうか?
”あなたの子供にあなたが教える事、伝えることを、子供は無視して良いと教えるの?好きな時に親に話しかけるだけで十分て
考えるの?そして自分の好きな様に生きる。親は大事な事を子供に伝えて子供がそれを理解する様に導くのが親だと考えているでしょう?そして仕事でも、あなたの持っている様々な技術や知識はどこで得たの?空想で?いやちゃんと教科書に書いてあることを教師から学び、技術を訓練、実践を通して日々学び続けているから、それらの仕事がこなせる様になって行ったのではないの?”と聞いたら、そうだよねと言いました。
当然の事が当然と考えられないほど、遠くかけ離れた理解を
神の言葉に対してしているのです。
もしも霊に導かれるなら、神の言葉を知る必要が無いと考えているなら、それらは1世紀後半から出現した教え、置換神学や、
神の言葉を否定する土台の教え、中世のカトリシズムを経た
ヘレニズム=異教徒思想で語られる思索の世界の宗教の教え、
人間至上主義、それが19世紀に生まれたデイスペンセーション
神学につながり、異邦人の世界で爆発的に受け入れられた異邦人思想で語る聖書、神の言葉を否定し曲げた教えが今日まで
聖書であると異邦人の世界では解説されてしまっているのです。
どうりで聖書など読まない、知らない、それが普通なのは当然の結末なのです。
神の考えを知らなくて良い=聖書を読まなくて良いと言う教えが
普通に通るのが異邦人の世界の状態なのです。
神の言葉を知らない=理解しない=神の考えを知らなくて良い=自分が中心、自分が勝手に聖書を利用して、自分の思想を語る
世界、それが人造神学=非聖書的教えの世界なのです。
聖霊=神の言葉を分解、分断、削除する作業を、
人間はずっとしてきました。
その代表例が、イスラエルの犯した罪です。
神の教え=婚姻契約=トラーに書かれた生き方から外れた生き方をして、神の性質を生きる人間の生き方から外れた記録が
歴史書、預言書に詳しく書かれています。全人類に対しての
神からの同じ警告をイスラエルの失敗例を通して今も教え続けているのです。
早朝にずっと聖書を聞いています。トラーは毎週土曜日にずっと
読み、聞き、学ぶのでその他は他の講義で学びます。
その中で特に預言書や歴史書をずっと満遍なく繰り返し聞いていると、そこに書かれているテーマ、問題は全く変わらず同じだと気がつきます。
トラーに書かれた同じ教え、内容、同じ言葉が使われています。
神のトラー=婚姻契約から離れた生き方をする人へ、神が働きかけて、神のトラー=教え、インストラクションに戻れと言う事が
預言者の託宣の中心です。その教え、警告は、異邦人へも同じである事がはっきり記されています。
なぜ?神が怒り爆発させたいからではなく、人間が神の教えから
外れた生き方をしたら危険だから、それに全く気が付かない場合は、気が付く方法で教える。それがイスラエルに起こった干ばつ=雨が降らず、作物が取れず、約束の地から追い出され、
家族兄弟が互いに敵対し戦い合いそして、自分の子まで食べる様な飢饉に陥る。
そんな惨めな状況にさらされないと目覚めない程、神のトラー=
”はじめの愛”から離れたイスラエルを目覚めさせる方法は
なかったから、神がその様な手段を使ったのです。
申命記に最初から警告して書かれています。約束の地に入ったら、神の言われた教えから離れて、異教の神々の教えと混ざり、それゆえ”呪い”=神の臨在から遠く離れた惨めな状況を自分の身に招くでしょうと預言しています。
他人事に読むと見えないですが、イスラエルの状況=長い間
異教の神々の教えと混じった、ある時は1000年近くも
自分達の考えで作った”祭壇”=高き所=異教の神々の場所で
異教徒の教え、慣わしと混じりながら、イスラエルの神を同時に拝んでいた、これは、現代も同じ事なのです。
その危機を全く感じない、それが神の言葉を否定することでも
あります。でも自分では神に純粋に仕えている、神を愛してると
考えている。神の言葉を捨てるとは神に敵対する行為に他ならないのです。神の言葉を捨てたら、神が定義する”聖別”の生き方
など全く理解出来ない、自分の中に神が忌み嫌う汚れを取り入れても気が付けない、自己流で考えた=人が考えた=ローマ帝国や西洋教父達が定義する教え、生き方、礼拝が”聖別”の定義であると勘違いしてしまっているからです。
神の言葉のどの部分でも否定する思想、教えは、ヘレニズム思想
が土台です。変化する教え。しかも神の言葉を大事に生きる事が
あたかも悪い事=律法主義と教えられ続けてしまうのです。
一体信じたら何を生きているとその詳細を言えるのでしょうか?
神が変化する、神の言葉が変化すると言う教えを神の言葉に照らし合わせると、イスラエルの神像とは全く違う事が聖書には
書かれているのです。
神は永遠から永遠に同じ。神は永遠から永遠に憐れみ深く、許し
に富み、忍耐深く、怒るに遅く〜だからイスラエルが1000年
近くも混ぜ物の教えで汚れた生き方をしていたのに何も介入せず
忍耐して待っていた。1000年!1日でも耐え難いと思いませんか?神の言葉は完全=完全なものがどうして途中で修正される必要があるのか?神が不完全だと神の語る教えは、神は完全であると神が伝える神の性質を人が否定しているのです。神の言葉は人を生かす、目覚めさせる、再生させる軌道修正させる、
神の言葉は力etc etc
これらに反して、人の教えは、神の言葉は呪い、厳しい律法
縛り、不自由、怒りの神が恵の神に変身=これってマルキオやダービー、初代西洋教父や中世カトリックの教えを神が言ったと
勘違いしているだけなのです。
神の怒りとは、人間の怒りとは違います。不義、不正な生き方
自分を弾圧する自分を破壊する力に対する神の介入を求めませんか?神の裁き、怒りは、”義”=解放をもたらすものなのです。
今日真実であることが、明日は真実ではなくなる、そう言う教え=神の言葉が廃れて破棄されたと言う教えが神の教えだと本気で信じている事が聖書とは矛盾した教えであると全く気がつかないのは、人の思想に洗脳された脳回路で考えるから、何も感じないのです。
進化論を信じる科学者と同じ、嘘を本当だと信じたら、
その嘘が嘘であるとは絶対に考え直さないまま行くからです。
そして、事実だけに戻り再検証、学び直すと言う事をしない。
永遠不変の神の言葉=聖書を読みながら、”途中で変化する神、
途中で変化した教え”と言う人間の教えと言う変換装置を通して
パウロの書簡などを読み続けるので、不具合のある翻訳箇所など
考えもせずにモーセの五書が否定された教えをパウロがしていると浅い誤解した読み込みをしているのです。
自分も含め自分以外の誰かに言葉で自分の思いを伝える場合に、
書いた本人の意図通りが伝わって初めて、相手が自分が伝える
内容通りを理解すると言う、コミュニケイションが成立するのです。
人間が1世紀後半から編み出した教えは、神が意図して書いた
通りの神の思い、意思、意図的が人に伝わらない障害物になっているのです。
考えたら当然です。書いてある意味通りを理解ないなら、
どうして相手の話している内容を正しく理解出来るのでしょう?
聖書だけに戻り、どこにどんな風に神の言葉が変化したと書いてあるのか、それらの思想を信じる人は確認し直すべきです。
そうすると、聖書に書かれた内容に基づけば、神が神の性質、
イエシュアに関しても、”イエシュアは昨日も、今日も永遠に変わりません”と言うその声明は嘘と言う事を言っていることになってしまうのです。矛盾がある事に気が付くはずです。
続く