ガラテヤ4:24 ”さて、この物語は比喩としてみられる。
すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりは
シナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。”
イエシュアがされた”たとえ話”の様に、実際に起きた出来事では
ない内容を通して、その中にあるキーワード、登場人物
物の意味から、聖書の真意を解説する方法でもあります。
すなわち、この女たちは二つの契約の性質と、受け取り方の方法肉のアプローチと、神の意図通りのアプローチ、又は神の言葉に対して、神の意図通りのアプローチか、人間の方法=肉でやるのか、その違いを話しているものです。
パウロはモーセの五書を100%支持しており、否定など決して
しない、するわけないと言う大前提から絶対にずれないで
読み続けるのです。早合点で、異邦人の世界が語るパウロの書簡
やトラーに対する解説は、奴隷=律法と初めから先入観で読み込みして、考えているからです。
そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。
ハガルがそれです。でもこの比喩の中には、2人の女とあるけれど、出てくる名前はハガルでだけですね。
パウロがガラテヤの人に気がつかせたい内容は、このハガルの
方法で、神から子を得ようとした事、神の方法=約束によるのでは無いやり方、その性質、人間の考え、計画、思いつき、
肉の努力のやり方をガラテヤに蔓延していた”別の福音”と
重ねてパウロは説明しているからです。
4:25 ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、
今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、
奴隷となっているからである。
4:26 しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、
わたしたちの母をさす。
この箇所は、使徒の書簡で”アレゴリオ”と言う言葉が使われている箇所です。ギリシャ語で”他の言い方をすれば”と言う意味の
言葉です。ある他の言葉を言い、しかし同じ意味を表す事です。
寓話は直喩を広げるものですが、1つの事柄を他の事柄の性質と
繋げるものです。AがBを表すと言う事です。
パウロはこの言葉を使ってユダヤ人の聖書解説方法で話して
います。アブラハムの話の下りに関して話しているからです。
ミドラシュ的解説では、キーワードになる意味の言葉が使われます。この場合”肉”と”約束”と言う言葉に当たります。
この話し方で”論点の中心”を表しています。
パウロが神の契約に付いての優劣を話しているのではなく、
人が神の約束や契約に付いての肉的アプローチ、手段、方法の
事を話しているのです。
神の意図とはずれた事、ずれた意識、方法でやる場合には、
元の意味が曲がる!意図とは違うものに変身する、ガラテヤに
蔓延していたインフルエンサーに向かっても話しているのです。
パウロはアヴラハムの話を用いて今ガラテヤの中で起きている
パウロが正している別の福音の論点に繋げているのです。
この箇所で”二人の女”の話、サラと、ハガルに関して話して
います。
パウロのミドラシュの話法では、2つの契約が既に説明されました。それらは、”アヴラハムの契約とモーセの契約”の2つです。
モーセの契約はシナイ山で与えられた契約であり、それを
”ハガル”を表すものとして話しています。26−28節で更に
その意味を詳しく説明していますが、これはアヴラハムに与えられた契約は”サラ”を表しています。
パウロはこのミドラシュの中で、”ID"に関して話していることは
明らかです。ユダヤ人と言う肉の生まれを継承している人には
”ハガルの子孫”と呼ばれる事はありがたいことではないのです。
イシュマエルにも約束が与えられましたが、創世記16:12
これは祝福と呼び難い約束です。ハガルとその子孫とには
神は契約を与えていません。パウロの解説は最初から、
2つの契約の話をしていて、特にパウロの頭の中には1つの契約の事を念頭に置いて話しているのです。
それはアヴラハムの契約です。
パウロの目的はアヴラハムの正真正銘の子孫=義とされている事を信仰により受け取る人達=それがアヴラハムの子孫であると
言う事、そしてアヴラハムの契約とモーセの契約を比べて話しているのではないのです。
アヴラハムの子孫になる方法を、肉のやり方で得るのでは無い、
神の婚姻契約に入る手段は、”人間の肉の方法では無い”と言う
大きな一大原則があるのです。
パウロはモーセの契約は、アヴラハムの契約を差し置いて
存在するものではなく、モーセの契約はアヴラハムの契約を
無効にするものではないからです。ガラテヤ3:15
神の契約は1つとして全部一体に繋がっているものです。
シンプルに考えてみれば良いのです。
”救われた”=信仰により受け取った。義とされている土台の保証はアヴラハムに与えられた無償の約束に基づいている!
義とされた人=もれなく神の家族になり、神の家族は神の家族の
生き方をする=その詳細が書かれているものが、”モーセの契約”
トラーなのです。だから神の家族になった人は自由で、それぞれが良いと考える基準を生きて良いと言う教えは、神の教えとは
全く違う事を解説しているのです。
サラとハガルと言う2人の女性の話をして、パウロは
どの子孫がアヴラハムの子孫と認められているのかを
伝えているのです。”約束の子孫”が本当の契約を継承する者で
イシュマエルは”肉”の子孫を表すものです。
それは神が約束した事を、神の約束を待たずに、肉の手段で
得た子供は、アヴラハムに与えられたものを相続するのでは無い事、それ故に本当の相続者では無い事を話しています。
サラと、ハガル、イサクとイシュマエルのシナリオは
パウロの論点を言い表す完璧な例なのです。
イシュマエルの子孫は肉の手柄で得る事で契約の民に加わろうとする事、アヴラハムに属する子孫は神からの約束を受け取る事で得る事。
肉の手柄で受け取る子孫には契約は無く、神の契約を信じて
受け取るものが本当の相続者である事を話しています。
そしてイシュマエルは、アヴラハムの家族から追い出されてしまう末路を辿りました。
一方本当の相続者=イサクの契約は神からずっと更新し続けられているのです。
考えたら分かる事です。アヴラハムの契約=神から無償で与えられた義と言う自己像=本当の本来の神の似姿に造られた元の自分を表している事実を受け取る事が神の婚姻契約に加わる最初の
ステップです。婚姻契約に加わる=神の国の一員となる、
信仰により義とされてい事実をイエシュアを通して知り、
上から生まれ変わった人達は、誰でも信仰により受け取るだけで
神の大家族の一員になる。家族になる手段を肉の方法=別の福音=異邦人は改宗儀式を通しては取得は出来ない!と言う事を話しているのです。
新しく生まれたと言う事実=聖霊を受けてメシアに気が付いた
事実が無いなら、シナイ山の契約=モーセの契約に加われないし、神の教えを生きると言うことは生きる事が出来ないのです。
もちろん、どの人でも神の教え=トラーを生きたら安全に生きられますが、メシアを知らない、内側に住まわる聖霊が無いまま
生きたら、神が与える聖霊にある本当の安息、自由は分からないまま、意識が奴隷のままになるのです。
いつも神の前に、認められているのだろうか、受け取られているのだろうか、神は見捨てないだろうか、その様な意識も片足は
神の実態に在るのに、もう一つは肉の思考回路で不安になる
そう言う事です。
婚姻契約=シナイ山で与えられた神の国の一員の生き方は
神の花嫁とされた人=アヴラハムの契約により信仰により義と
された人たちが加わり、生きるものだからです。
クリスチャンの世界では、”思想” ”哲学”=なになにを信じていますと言う宣言はしても、実際に何を生きるのかが不明なのです。よ〜く考えてみれば見えてきます。
これこれあれこれを信じています!と言う場合に、
イエシュアを信じると言うことは、イエシュアが教えられた
イエシュアが実際に生きて見せてくださった=父の言葉=モーセの五書を生きる!と言う事実が伴うと言う事が”信仰”の実態であると聖書には書いてある事をまず発見しないとならないのです。
イエシュアを信じても、イエシュアが教えられた父の言葉=
トラー=モーセの五書に書かれた神の教え、インストラクションを生きませんと言う事は、神に対する、神の教えに対する
反抗声明そのものになるからです。しかも、それでは神の花嫁、神の家に嫁いだ人の生き方をしていない選択をしますと言う事になるのです。神の教えのどの箇所に対しても敵対すると言う事
自体が非聖書的な思想行為であると言う事実にまず目が開かれれば、聖書が語る永遠の真理一貫性が見えてきます。
信じている実態=イエシュアの生きた内容を同じく実際に自分が生きる、それが信仰と言う意味なのです。
ヤコブ書で、悪霊さえも神の存在を信じて恐れていると書いてある意味を考えれば理解出来ます。
信仰とは、その人の思想や信条ではなく、信じている内容を実際に生きる時に環境に現れ出て周りの人に認識されるのです。
灯りは燭台の下に置かない。光の子として歩む!歩む=ハラハ=
神の性質通りを行動し生きる!と書いてあるのです。
実態=実際の生きると言う事が伴わない信仰は死んだものと
書いてあるのです。神の言葉や教えを生きなくても、人は何かを
生きて表しています。それが何?と言う内容が自分の信じている
生き方なのです。
続く