ガラテヤ人へのパウロの忠告 教えは神のトラーとは違う教えを取り込んでいた事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプトをする前のイスラエルと少数の異邦人の中で、

神に言われた通り鴨居に血を塗った家は”死”が通り過ぎています。神の言われた事を信じてその通りにした人達の事実が書かれています。

これは創造主に出会った人達漏れなく同じ経験をしているのです。神が言われた事を言われた通り=聖書に書いてある通りを

信じて受け取ったと言う信仰のスタート地点があるのです。

それがはっきりくっきりとした時か、神の言葉を考えるうちに徐々に気がつくのかそれは人それぞれ違う経緯を辿るはずです。

 

神の言われた事実を信じた人達が後にシナイ山、シャヴオートで

受け取ったものが神からの”婚姻契約”です。私たち一人一人

イエシュアを信じる人も同じくこれをしたのです。

シャヴオート=ペンテコステの記念日の意味と、出エジプトの

意味を学ばない場合は、自覚は無いかもしれないですが。

シナイ山で受け取った契約、この中に書かれているのは、

条件付きの契約です。アヴラハムに与えられた約束の様に一方的、何があっても変わらない、無条件では無いのです。

 

どう言う事かというと、人間の側で神の契約を破り、神の教えから外れて生きる事があるからです。モーセを通して与えられた

神の教え、インストラクション=婚姻契約は、神の家に嫁いだ

人達、花嫁とされた人達、神の似姿に造られた本来の人達が

生きる詳細が書かれているものです。それらの詳細は神が創造した神の似姿に似せてデザインされたオリジナルの人の性質の

生き様、エデンの園の生き方に戻る事をする、これは神の家に

嫁ぐと言う上で必須条件なのです。

それがアヴラハムへの約束と違いであり、条件付きなのです。

 

誰でも嫁いだら、今までの生き方に決別し花婿となる人の

家の家訓を生きる事を学びます。それと同じなのです。

今までは別の神々に繋がれ、別の主人の奴隷であった人達が

本物の神に買い戻され、新しくされ神の花嫁とされた。

その人達は、本来の主人の家の中での生き方に戻る!

それがシナイ山で与えられた神の婚姻契約なのです。

 

神が厳しく怒りの神だから、この婚姻契約を外れたら厳しい

刈り取るべき結末、訓練があるのではないのです。

神が愛の神であるから、人を破壊に向かうことを阻止するのです。神の裁きとは歪みや不正別物の生き方から解放し、義に

導く手段なのです。不正、闇、破壊、汚染から贖い出されないと

ならないから、神が介入するのです。

 

神が伝える人間の生き方を外れたら、刈り取る結末があるのは、

神の性質からずれて生きたら危険だからです。その危険に目覚め

させるために、ムサフ=神の特別な訓練が与えられてしまうのです。子供を持つ親なら理解出来ると思います。

 

子供が危ない事をする、してはならない事をし続ける、気が付かないまま、気が付いているかもしれない、でもズレの中に埋もれる事が普通になっている状態。

その場合に、厳しいしつけ、お仕置きがありますよね。

そのしつけは悲しみを伴うのでしたくない事だけれど、それを

しないならその子供は自分が何をしているかに気が付かないから敢えてそれを執行するのと全く同じです。でも神はすぐにその

訓練を与えていない事が聖書には書かれています。

長い年月、時には1000年近くもの間、神の教えから外れ

異教の神々の教えと混ざって半分眠った状態=神の教えからずれて鈍っていた生き方をしていたイスラエルに対して神はあたかも何も介入しないように見えたのです。でも、これまで!と言う時が来て、イスラエルは国を追い出され捕囚の地に追いやられて

今までのずれた生き方の代償を知る厳しい訓練を受けてしまった

事が書かれています。イスラエルに起きた出来事、その全ての

警告は神の子ら全てへの教えなのです。

 

神は、怒りの神、恵の神で七変幻に教えや契約を歴史の中で

変える神では無いのです。大変な誤解をして聖書を読んで

いるのです。神の教えは変化がないと言う神が伝える事実、

これを理解しなければ、聖書は理解出来ない事になります。

 

なぜなら、聖書はどの箇所も100%トラーを土台に語られているからです預言書は100%全て、神の婚姻契約=トラーに

書かれた人間の本来の生き方から離れてしまった人達への警告だからです。聖書の教えはどの箇所も100%トラーであるのに、

預言書の警告はトラーを外れて生きている人達への警告であるのに、それが福音書以降、トラーは終わりとするならば、

聖書の教えとは異なるものになってしまっているのです。

 

福音書以降に書かれている内容が全て100%トラーであり

それに付随する預言書、諸書もトラーの短いコメンタリーが

書かれていると言う事実に気が付けない理由は、2つ。

1つは、聖書に書いてある内容を書いてある通りに学ばない事

2つ目は西洋人が編み出した、神の言葉を曲げて否定し、

昇天以降は神の教えは終わりで生きる必要が無いと言う教えが

作られて、その教えを通して聖書を曲げて読んでいるからです。

 

福音と聞くと、古い教え=律法=トラーを否定した教えだと

考えると思いますがとんでもない誤解です。良い知らせとは、

イザヤ書に書かれている通り、神の教えを神の教えた通りを

聞いて生きれる事に戻る事実の事なのです。

神の教え=トラー=イエシュア=イエシュアが生きた様に

生きれる実態を取り戻されている!それが福音です。

 

神の業や救い、贖い、霊が内側に住まう事実を時系列で考える

教えは、時代ごとの神の業、教えを仕分ける人間が作った

教えなのです。昇天以前は人は神の霊が内側に住まわれていないので、神の律法により生きていた、昇天以降は、神の霊が人の

内側に初めて住まわれたので、初めて霊により生きるなどと誤解しているのです。神が紹介する名前でも分かるでしょう。

”イマニュエル” イマニュ=私たちの中に共に住まう ”エル”神と

紹介しているのです。途中から人の中に住まう神ではなく

創造の最初から神は神ご自身の霊=息吹=エッセンス=ルアフを

吹き込んで、土から造られた人は初めて”生きるもの”となった

事実が書いてあるのです。神の霊を拭き入れられた。

でも人は神の中=エデンの中から飛び出した。

つまり、コンセントが外れた状態になり隔たりが出来てしまっているだけなのです。でも人の中には神の性質に造られたDNAが

搭載されているのです。だから人は自分の本来のエッセンス

DNAにぴったりとマッチするものを探し求めているのです。

 

神=言葉=霊なのです。人は神の口から出た一つ一つの言葉に

より生きると言う意味を考えたら理解できる内容だと思います。

神の口から出た一つ一つの言葉=モーセの五書なのです。

 

どれから手をつけたら永遠不変であると神が言われる神の言葉に対しての誤解が解けるのか分からないほど人の教えで神の言葉が曲げれてしまい、汚染されてしまっているのです。

神の言葉は変化なく、聖書の最初から最後まで同じと言う聖書の

事実にだけ立って聖書を読み直すとたくさんの見えなかった

新たな神の永遠の事実が見えてくるのです。

 

ガラテヤ1:6 あなたがたがこんなにも早く、あなたがたを

キリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、

違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。

 

ガラテヤ書の冒頭からある、ガラテヤの群れの中にあった問題を

パウロが定義しています。

違った福音と書いてあります。違った福音と聞いて、以前私は

”古い以前の教え”=旧約聖書=モーセの五書を生きる事に

戻るのか〜?と言う教えを聞かされて来ました。

 

ここでパウロが書いている違う福音とは、神の教え=モーセの

五書を生きる事ではない事は明らかです。

”律法主義”と呼ばれる、行いにより義を獲得し、救いの状態を

保持すると言う教え、そしてグノーシス主義の様に人間の哲学を

混ぜた教えなどに対する警告なのです。

神の教えを生きることに反対するものは、神が伝えている通り

別の福音=神に敵対する教えであると聖書に書かれている事実だけに立てば、神の言葉の事実と人が解説する聖書には書かれていない教えの区別が出来ます。

 

1:7 それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。

 

キリストの福音=神が用意したことだけの100%、贖い、

救い、義とされている事実は、行いにより獲得するためではなく、神の言葉を聞いた通りを受け入れ、信じる事のみで

獲得出来るものであると言う意味です。

そして勘違いしてはならないのは、アヴラハムの約束=信仰に

より義とされた事実を得た人は、神の性質=イエシュア=トラー

に書かれた人間の生き方を生きる!この違いに気が付かないと

ならないのです。神に救われた人は神の教え=トラーを破棄して

捨てて生きると聖書に書いてあると勘違いする場合は、

では救われた人は実際に何を生きよと神に言われていると考えているのでしょうか?人は神の口から出る一つ一つの言葉=トラーにより生きる!と書いてあり、イエシュアが悪魔に荒野で試みられた時もこの言葉で悪魔を退けたのです。

聖書に書かれている事実と人の教えとの間にある矛盾を発見してみてください。

 

1:8 しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使で

あろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することを

あなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。

 

福音とは、モーセの五書に書かれた事以外の別の教えであると

考えているならそれは聖書ではないのです。

なぜならイエシュアが言われた通り、”トラー、預言書はわたし

そのものである”と言われた通りだからです。福音の詳細は

モーセの五書に書かれているのです。モーセの五書のコメンタリー、モーセの五書=福音の詳細から外れて生きる人たちへの

警告が預言書なのです。

福音とは以前の古い教えとは別物であると考えているならば

それは聖書に書かれている事実=イエシュアそのものが書かれている事を完全に読み落としているのです。ダビデは福音の詳細、イエシュアの詳細をモーセの五書だけに書かれたことから知って内側に神の霊を持って生きていた事実が詩篇に列王記などにも

書かれているのです。

 

イザヤ 52:7 よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。

 52:8 聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。

 52:9 エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。

 

 

 

続く