神の家族は1つ イエシュアの上、イエシュアの中に加えられ続ける人々 イスラエルの神の家族 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ16章で、イエシュアと弟子たちがピリポ カイザリア

に立ち寄った時に、”この岩”を指して、イエシュアが弟子たちに

神の大家族はイエシュアの上に建て続けられ、

人が加え続けられる事実を教えました。

 

神のカハール=エクレシアとは、エデンの園から存在する

同じ1つの大家族=神に呼び出された人々の群れと言う意味、

定義がカハール、エクレシアと言う言葉で表されているものなのです。

 

福音書以降、カハール、エクレシアと言う元の言葉が、

本来の意味を全く反映しない教会と言う造語翻訳に置き換えられてしまっている事と、さらに西洋宗教西洋人が作り出した思想=

ユダヤ人と異邦人という2つの分裂した家族と言う教え

遮られ、邪魔されて、イエシュアが語る、聖書、神が語る

1つの大家族に戻る神の言葉の事実が覆い隠されてしまっているのです。

 

それがこの下の写真の場所です。

 

この写真は2012年初めてイスラエルに行った時、

ピリポ カイザリアを訪れた時のものです。

洞窟の様に見える場所が異教の神々の神殿が祀られていた場所でこの崖の上から子供たちを突き落として捧げていた場所です。

その下に見える水がこの岩の下から出て来る湧き水です。

 

この異教の神々の礼拝の場所をイエシュアと弟子たちが旅路の

途上訪れて、丁度このカメラ目線あたりからイエシュアが

異教の神々の岩を指して語られた事を想像します。

 

あの岩=異教の神々に生贄を捧げる事をする人たちの生き方に

対比して、イエシュアが弟子たちに語られ、そしてペテロに

イエシュア が誰だと考えているか?と質問したのです。

あの異教の神々に子供を生贄として捧げる岩ではない

本物の岩=イエシュア=救い主であるとペテロ=小さい石が

回答証言した、その証言にある本物の岩=イエシュアご自身の上に神の家族を加え続けて建て続けると言う意味でイエシュアが

話されているのです。

 

この時、教会と言う別名の、異邦人中心の別グループが初めて

出現したとか、ペテロがローマ教の初代教皇になったと言う聖書の事実とは異なる誤解を解いて聖書を読み直す必要があります。

 

イエシュアやパウロはヘブライの書=父の言葉、教え=トラー

=モーセの五書を否定した新しい教え=西洋宗教など

作り出してもいない事実があるのです。

 

最初から同じ、永遠不変の神の言葉=トラーは変わらない、

福音書〜黙示録に書かれているのは、トラーの短いコメンタリー

6000以上のトラー、預言書、諸書の引用が短い言葉で

書かれているだけです。聖書は最初から最後まで1つの書でありどの箇所もトラーに矛盾したり敵対する教えなど1つも書かれて

などいないのです。この事実に気が付かない理由は、

 

1トラー=モーセの五書を書いてある通りの意味で学ばない。

2人の教え=西洋神学の教えを通して聖書を曲解している。

人の教えを土台にし、神の言葉の方を否定し、変えて、

曲げていると言うシンプルな原因があるのです。

 

エデンの最初から、同じ1つのイスラエルの神の家族が元通りに神の中に戻され、修復され1つ家族として1体になる、

そのプロセス=建て続ける、家族を加え続けるとイエシュアが

語られている事実、その事実が聖書の最初から最後まで全体を

通して語られている事実が見えて来ます。

 

ピリポ カイザリア。赤土のごとくに見えますが、

ここは岩盤です。硬い岩で出来ている偶像礼拝の場所があった所

です。手前に見えるのが、この岩の下から流れ出るヘルモン山

からの湧き水です。イエシュアがこの場所で弟子たちに神の唯一の大家族がイエシュアの上に加え続けられる事実を語ったのです。