現代の信者はモレク神に子供を捧げるなんて事はしないかもしれないけれど、その根底にある偶像礼拝意識は同じで人の中に
存在しているのです。
神のために犠牲を払わなければならないと言う意識、神のために
全部を捧げなければならないと言う思考回路=偶像礼拝です。
これらをして、神に許しを請い、神の前に犠牲を払うことで
喜ばれ、その結果お恵みを余分にもらうと言う思考回路。
神との純粋な関係や神ご自身を知りたいと言う願望、神が伝える語る言葉、教えの世界を知り、神との深い関係の世界を求める事が中心では無い。
自分の願いや富、利益を得るために神に何かをする、
近づく思考回路。
そう言う意識で神に近づくこうとする事を偶像礼拝と聖書では
解説しているのです。
日本人なら”無病息災家内安全商売繁盛”と言う言葉で表される
ものです。意識の中心が異邦人が皆求めているものと
イエシュアが言われた事に繋がります。
天の神御自身ではなく神の足台にあるこの世のものが中心。
神は人のために100%必要の全てを与えている事実が聖書には書かれています。この世界の全ては人のために造られたのです。
この偶像礼拝思考回路を洗脳されてしまうと、神が伝えている事、神が与えた全てからだけ生きる醍醐味=シャバットから
生きると言う事が理解出来なくなってしまいます。
これは深掘りしないと事実が浮き彫りにならないので今は詳しく
書きませんが、もしも宗教活動に邁進しなければ神を愛している
事にはならないなどと、微塵にもでも思うなら、生きる事=
イエシュアハマシアの意味、真意を誤解して捉えているのだと
思います。
大事にしなくてはならないのは、自分の命を正しくガードし
神の性質を神が伝える通りに生きて、そして周りの人の
シャロームもガードし生きる事これが全てなのです。
その中で個人個人に任された役割は色々あるのです。
その全ては自分を他者をガードするためなのです。
宗教やる事ではないのです。
それぞれが今の時期、時、人生の中の大事な何かを任されているのです。人が年を取って何を一番後悔するのか?と質問した場合
”するべき事をするべき時にしなかった” ”大事にするべきものを
大事にしなかった。”と言う多くの答えが返って来ます。
子供が小さければ、今しか出来ない事をしっかり逃さないでする。子供はある時期にしか親と家族と一緒にいませんし、
変化し続ける成長の時を共にガイドし、手取り足とり教える事が出来る期間も限られています。
夫婦でさえも、ある時期一緒に居られる恵みが与えられている。
それぞれが同じ時に天に帰る訳ではないからです。
人生の季節=時の中で今何をしなくてはならないのか、
それぞれが神から聞いて自分の生活をしっかり考えて
生きれば良いのです。
生きる事はキリスト=イエシュアの性質=神の性質=神が解説
する人間の生き方=トラーに書かれた生き方に根付いて生きる事と聖書では説明しているのです。
もしも自分の家庭や仕事以外にプラスの宗教活動のために
夫婦、家族、家庭、社会生活、時間を犠牲にしなくてはならないと考えるなら、それはずれた方向に行ってしまうのです。
偶像礼拝の根、偶像礼拝思想そのものです。
OホOのO人と言う宗教は、信者は大学へも進学してはならない、社会活動、クラブ活動にも参加してはならない、就職もしては
ならない、全て100%宗教行事活動参加することに邁進せよと教えるそうです。
自分の生活を100%宗教活動、伝道活動のために捧げなさい
それが信者としての生き方であると教えられてしまい、
生活の全てが家庭や自分の生活ではなく、宗教活動中心。
一人でも多くの人を会合に連れて行く、信者にする事が一番の
目標であり、欠かさず集会に出席する事が神への愛を証明する証拠と言われる。子供も親もクラブ活動、学校行事にも参加してはならない。宗教活動で、いつも疲れて、家庭の用事、家事は
疎か家の中はめちゃくちゃで落ち着かず、ジレンマと戦い続けてなんでこんな事しなくてはならないのか?神さまってこんな事を人に要求するのか?と常に疑問に思い、最後にはその教えが
聖書ではないと言う嘘に気が付いてグループを抜け出し、
家族を第一にすると言う事に戻ったら、夫婦関係、
家族が幸せになったと言っていた人がいました。
人が考え出した活動や奉仕に、誰かを拘束したり縛り付ける事を
意識上も物理上もしてはならない事なのです。
もしも人が、イエシュアにあって本当に神の性質を生きる生活をするなら、それだけで周りに多大な影響を与える事が出来るのです。人が動かされるのは、誰かの実際の真実な生き様、
行動に触れた時なのです。
こんな事は普通の意識、常識がある人なら当然と分かるのに、
”神のために、神のために犠牲を払わ無いとならない”などと
教えられ言われ続けてしまえば、自分の生活を第一にガードし
守る事があたかも悪い事、神の前に低俗な生き方をしていると
刷り込まれてしまうのです。
楽しんでもダメと教える人がいますが、聖書には逆が書いてあります。ユダヤ人の中には、最後の審判で神の前に立たされた時
”あなたは私が与えた命をそっくりそのまま十分に喜び楽しみ
生きていたの?”と聞かれると教えます。全然違う思考回路です。
もちろんバランスのハズれた事では無いですが、信仰持つと
変になると思われる様な、神の教えからずれた思考、生き方を
するのは、神に対して逆に神の御名=実態を正しく周りに生きて紹介していない、御名を汚す、恥をもたらすものになってしまいます。自分の生活、家族の世話を優先する事があたかも悪い事の様に考えてしまうのです。
家家を渡り歩く様な事はしないで、落ち着いた生活をしなさいとパウロが助言している通り、余計な事はしないで大事な事を
大事にして行く生活、そして周りに配慮し、必要な助けをする
そう言う普通の意識が何より大事な事なのです。
これらの思考回路は聖書では偶像礼拝に根付いたものと書かれているものなのです。
たとえ子供を実際に生贄とし犠牲にし差し出さなくても
自分のガードすべきものを差し置き、ないがしろにし、神のためだとやってしまうなら、後で取り返しのつかない代償があるのです。そんな事神は要求などしていないし、やめてと言うでしょう。だから、多くの人は宗教活動を第一にする事がイコール神を愛している証拠であると考えて、家庭や子供との時間がおろそかにし、ないがしろにされるので、その中にいる子供たちは傷つく。私の友人は、”家庭を大事にして、家庭に帰って、
家庭に時間を費やして”と教えていたそうです。
神への近づき方、神を愛するとはどんな行動が伴うのか
神の愛し方がちゃんと神の口から直接語られている言葉、
教え、インストラクション、指導が書かれています。
それがユダヤ人の祈りでもあるのです。
申命記 6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、
主は唯一の主=אֶחָֽד=エハドである。
6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、
あなたの神、主を愛さなければならない。
<心=頭脳、精神=全存在を尽くし、力=最大限で>
この箇所で書かれているヘブライ語は、あなたの頭脳全て、
あなたの全存在を駆使して、主を愛す=アハヴァとは、
神が示すトラーに書かれた愛の詳細で愛すると言う意味です。
なぜなら、アハヴァ=婚姻契約の中に書かれた愛でと言う意味の
愛だからです。神が語る愛の詳細は、モーセの五書に書かれた
婚姻契約の中を生きる詳細だからです。
聖書にはモーセの五書に書かれている以外の”愛”の定義などないからです。そこに書かれている事を書かれている通りを読まないなら愛の詳細は見えない様になっています。
6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉=神の教え、
トラーをあなたの心=頭脳に留め、
6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、
これについて語らなければならない。
6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、
あなたの目の間に置いて覚えとし、
6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに
書きしるさなければならない。
神の仰せに”聞く”これが愛の態度の最大の条件、基本中の基本
土台です。
聞くとは従うと訳されています。聞く、イコール神の声、言葉
教えを聞く。神の言葉、教えを聞いた人は、神が教えた通りに
生きる、行動するから、従うと訳されているのです。
神の語る言葉、教えとは違う事をする、神の言葉、教えを否定する、それこそが神を愛していない証拠になります。神の教えを
否定する自分定義で自己正当化した別の教えを生きることは
神が提示する愛を生きる世界とは異なるものです。
シャロームバイトと言う言葉がありますが、シャロームの家、
家庭、それをガードする事が世界へ向けて、神の愛の性質を
生きて表すそのものであり、言葉や口先での伝え方より現実に
力があるものです。
生きる事は、イエシュア=神の性質を生きる!と言う本質が
中心ではなく、生きる=神との関係に根付く事イコール宗教活動に参加する事であると教えられてしまえば、曲がったイエシュア像を他者に教えてしまうことになるでしょう。
形は違えど、神の教え、神が伝える通りからずれた意識で
いれば、正しいことに見えて、実は神が伝えていることでは無いことを懸命にしてしまうことになってしまう良い例です。
続く