想像から生まれる聖書に対しての誤解の解釈 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

想像から生まれる解釈でこんなのを聞いたことがあります。

パウロがキリスト教に改宗したので”サウル”から”パウロ”と

言う名前になったと言う解説があります。

私もそう教えられた事がありました。

でもそれも完全に聖書に書かれている内容を誤解した解釈をしているだけなのです。

 

パウロの場合は、ユダヤ教からキリスト教に改宗したのでもなければ、改名しているのでもないのです。

パウロの生まれ育ちを理解していれば理解出来る内容です。

パウロの、ギリシャ語名が”ポロス”であり、日本語ではパウロと訳していますね。英語ではポール。パウロのヘブライ語の名前が”シャウール”です。サウル王のサウルと同じです。

英語だと、”ソール”と発音します。

パウロはローマ帝国のタルソス生まれであり、生まれながらの

ローマ市民であるとパウロが話しています。タルソス、現在の

トルコです。同時にユダヤ人であり、ある年齢でエルサレムに

移住して、世界最高峰のトラー学者の学び舎でトラーを学ぶ

エリートコースに乗ったのです。

 

ガマリエルの様なトラー学者達は、同時にイスラエルの国の

政治や法廷、憲法を司る任務に着く優秀な人たちであったのです。普通の人は、ガマリエルの様なトラー学者の元でトラーを

学ぶコースには入らないのです。経済があり、トラーを学者と

して生涯学び、追求し続ける意欲、学力がある人達。

ギリシャ語の名前のポロスと、ヘブライ語名のシャウルなのです。それらの名前は初めからパウロに付けられていた名前です。

 

カトリックがする”洗礼名”を与えるのだと考えているから、

混同するのだと思います。

 

イスラエルに帰還する諸外国に住むユダヤ人もイスラエルの国籍をもらう時にイスラエルで名乗る名前に変更し、

以前の名前はイスラエルでは使わない事をしたりします。

 

イスラエル国民になってもアメリカや他の国の国籍を有する

場合、アメリカや諸外国のパスポートにはイスラエルとは違う

名前が記載されるのです。その国々で別名であるのです。

日本人には理解出来ない世界ですが、例えば、アメリカでの名前と日本での名前を別名にしている人がいます。

国際結婚で子供が生まれたら、日本での名前は、川上裕子と

言う名前で提出します。詰まり母親が日本人なら、母が結婚時に

名字を変えないで届けを提出すれば、子供は母親の旧姓日本の名字のままになります。そしてアメリカでの出生届では、

父のアメリカの名字にしてレイチェル パムラ スミスと言う

名前にする。日本のパスポートには、アメリカの名前では無く

日本で届け出た川上裕子と言う名前が記載され、アメリカの

パスポートならば、Rachel Pamla Smithと記載されるのです。

全くの別人に見えますよねパスポートの名前だけ見たら。

 

聖書の中にも、名前が変更されている人達がいますが、

それは宗教改宗したからではなく、ある性質を与えられている

証明でもあるのです。

 

名前が変化した例では、アヴラムがアヴラハム言う名前になった

サライがサラになった、そしてヤコブがイスラエルと言う名前が

与えられたなどあります。ヤコブとイスラエルとは最後まで

両方使われている、呼ばれている名前です。

 

創世記17:5あなたの名は、もはやアヴラムとは言われず、

あなたの名はアヴラハムと呼ばれるであろう。
わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。
 
日本語だと名前や地名だけを見ても意味が見えません。
それは外国人が日本の漢字を見ても意味が分からないのと
同じです。日本人なら漢字を見ただけで何に関連する、
何を意味しているのか見えますね。
例えば”沼”と言う字がついた地名ならそこは今、
又は以前沼に関する地域であるとすぐに分かります。
”川越”とあれば、川と超えると言う意味が関連していると分かります。超える=ヘブル=イブリの語源と同じ意味です。
英語もそうですが、語源の意味を知っていれば何を意味しているのか見えてきます。だから言語で表される言葉の意味を知って
いると違うものが見えてくるのです。
 

אַבְרָ֑ם     アヴラム

אַבְרָהָ֔ם アヴラハム

יְהוָֹה   イスラエルの神の固有の名前である主と訳されている

     四文字で綴られる名前。ヤウエ、エホヴァなどと

発音されていますが、意図的のこの名前を古代のある時から

発音される事がなくなっているものです。

 

文字を見ると分かりますが、アヴラムからアヴラハムになった。

アヴラム=偉大な父、アヴとは父と言う意味です。

そして、神の名前=神の性質を表す四文字の中の、”ה”と言う

一文字をアヴラムの名前の中に神が挿入されています。

名前=実態、評判、その人を表すものです。

アヴラハムは神の言葉を受け取ったその事実を神は”義”とされたと書いてあります。信仰の基本です。神の言われた事を言われた

通りに受け取り信じてい生きる。基本中の基本です。

そして神が神の性質であるものをアヴラハムが受け継いだ印と

して神の最も親しい固有名詞の一文字を挿入しました。

神の性質を生きる代表者=父である”全世界の多くの国民民族の代表である”父”となったと神が言われた、

その同じ真理を全世界の人に伝えているのです。

だからアヴラハム、イサク、ヤコブの神と紹介して、

誰でも同じイスラエルの神に繋がる人は、血肉関係なく

アヴラハムを父とした大家族、神の1つの同じ大家族の一員に

なり同じ神の家族の同じ家訓=神の創造された神の性質通りの

人間の姿を生きると聖書では教えているのです。

 

聖書の中に書かれている水を潜る儀式も立場が変更になったり、出産の後、神殿の儀式に参加する時に行われるものです。

それは、以前の自分と違う立場になった事を表すものでもあります。以前の自分には死に、新しくされる。結婚や、

職業を変えたり、又は外国人がユダヤ人と結婚する時など、

何度も行われるものです。クリスチャンの世界でする1回だけの信仰表明の洗礼儀式とは異なるものが聖書には書かれているのです。

だからバプテスマのヨハネがヨルダン川でしていた儀式は

あの時のものに限らず毎年あの時期に行われていた。

それは信じたからでは無く、シュヴァー=トラー=神の教えからずれて生きていた事を軌道修正する、”悔い改め”と翻訳では

いますが、本当の意味は、神のトラー=モーセの五書からズレた生き方を振り返り、神の教えに軌道修正する事を表明するために水を潜ったのです。

 

そしてイエシュアは罪からの改心をしたから水に潜ったのではない事は明らかです。バプテスマと言う言葉の意味は=浸る=

同一になると言う意味です。

神の実態と同一であると言う意味でもあります。

イエシュアもトラーを生きていると言う表明のため、救い主で

ありながら、他の人々と共にあの時ヨルダン川でヨハネが

指揮していた、儀式に参加したくだりが福音書に書かれています。マタイ3:13−15

 

イエシュアは地上で人類初めて完璧にトラーを生きたのです。

人間が神の愛=アハヴァ=婚姻契約=トラーを完璧に生きるのを地上で誰も見た前例がない、体験がない、だから新しい体験と

聖書に書かれているのは、イエシュアの完全なるトラーに

書かれた姿=アハヴァを生きた事を話しているのです。

 

ある箇所からパウロはラビと呼ばれていないと言う事から

それは、”先生=ラビと呼ばれるなかれ”とイエシュアが

言われたので、先生と呼ばれる事を拒否しますという教えがありますがそれは聖書に書かれた言葉の意味を誤解しているのです。

たまたま使徒、パウロの書いた書簡の全部の箇所でパウロを

ラビと言うタイトルで記していない、書いてないだけの事です。

 

ラビと呼ばれるなかれとは、タイトル、名前で呼ばれるなと言う

意味ではなく、神の上に神の権威を超えて自分を置くなかれ

言う意味でイエシュアが言われているのです。

ヘブライの世界では、名前イコール性質、実態を意味しています。人間が神以上にはなれないと言う事です。

それは、神に造られた人間が、神の言葉を自分の思想で勝手に

曲解するなかれと言う意味です。神を差し置いて、神が言われて

いない事、神の教えと違う事を教えたり、やったりするなかれ

と言う事です。そして、人間の思想を神の教えの上に権威として置くなかれと言う事。

ユダヤ人が伝統でかぶるキッパは、その事からも来ています。

自分の上に神がいる、自分が神の座に座り神の権威を超えては

ならない事をいつも思い出すために被るという事です。

 

つまりは、神の言葉や教えを否定したり、曲解する行為は、

自分自身を神より優れた上の権威であるとしている事なのです。

ある人は先生と言うタイトルで呼ばれる事を拒絶しても、同時に神の言葉を否定するならば、それは聖書に書かれた”神の上に

位置するラビとなるべからず”に違反している行為です。

 

そして神の言葉が変わった証拠として、神殿に仕える祭司は

50才でその職務を終了するけれど今の時代は牧師は50才

超えても働いているから聖書の教えが変更された証拠ですなどと

説明、解説しているものがありますが、

飛んでもない飛躍、誤解逸脱した聖書の解釈です。

その内容は2つあります。詰まりエルサレムの神殿に仕える祭司と宗教の世界のリーダーや牧師とは異なる、違う任務なのです。

祭司とラビとは別の任務です。

地上のイスラエルの神の神殿祭司とは、レビ族だけに与えられた役割であり、地上の神殿を管理し、治め、人々に正しくトラーを教える人達です。現在は神殿が無いので、その任務は一時停止

されてありません。しかし昇天以降〜70年の間は、神殿が存在していたので、変わらずにレビ族の祭司達は神殿で同じ任務を

行っていたのです。大祭司はレビ族のアロンの家系の直系の人達だけが担う任務です。

そして、今は50才以上の牧師は働くから聖書の教えは変更に

なりましたと解説していますが、どうしてそれが神の言葉が

変わった根拠であり、証拠などと言う逸脱した発想に

なるでしょうか?

こんな聖書に根拠のない逸脱した教えをされてしまえば、

聖書の勝手な読み込みは永遠に続いてしまうのです。

 

神殿祭司達の任務は大変な激務です。

エルサレムの寒い冬でも裸足で神殿の中を歩いたりしなくては

なりませんし、人々が捧げ物の動物を祭壇の前で屠る時に

暴れる動物を一緒に抑えるなどの大変な肉体労働などがある。

その他、日々の中での神殿の管理や、シャバットや祭りの行事は

大変な肉体労働なのです。神殿の中の日々の細かい労働も

トラーを読めば理解出来る事です。

だから50才を超えたら体力的に無理だし、安全にも関わる

問題になるので、神が決められた任務は50才で終了。

それはレビ族の神殿祭司達に関してだけなのです。

普通の人は神殿に仕える祭司にはなれないからです。

 

 

続く