1コリント11章 1世紀当時のコリントで起きていた問題の対処 分裂 分派 主の晩餐 被り物? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1コリントの11章の箇所で、ある人は被り物=帽子を頭に

かぶらなければ祈れない、男は帽子をかぶってはならないと

言う誤解をしている箇所があります。

 

1コリント 11:4 祈をしたり預言をしたりする時、

かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。

11:5 祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいを

かけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。

それは、髪をそったのとまったく同じだからである。

 

これは当時のコリントの地域で起きていた問題から

この様なアドバイスをパウロがした箇所です。

コリント人固有の問題なので、全ての人にその適用が当てはまらない事でもあります。しかしトラーの教えに基づく主旨の適用はどの時代にもどの人にも当てはまります。

 

どう言う意味かと言うと、ある国である人がある行動を取る、

又はある服装をしたり、ある物を身につけたら奇異、変だと

みなされる事があります。それは国によって違うので、他の国に行ったら全く問題ではないと言う事もあるので、全ての人、

全ての国、全ての状況に同じ対処が当てはまらない事なのです。

 

例えば、こんなのがあります。アジア圏の国で風水をする人達は

ある物を身につけて魔除けをします。

翡翠や金で出来ているある動物の形をしたネックレス、数珠を

付けたりしたら、風水信じている人とその国ではみなされます。

でもイスラエルで翡翠やある動物の形の金のペンダントヘッドのネックレスを付けていても誰もそんな風に思わない。

 

だから、その様なタイプのジュエリー、装飾品、宗教儀式に

参加する人が付けるものを、イスラエルで付けても誰も他宗教と

繋げて関連付けないので問題はないけれど、アジア圏に行けば、風水信じている人なのだと思われて他の人に誤解されるから、

それらを付けない方が良いと他の人からユダヤ人である友人が

忠告されたと言うことがありました。

 

1世紀のコリントの地域の信者のグループ内で起きていたのは、

不品行、家族内での家族間の不純な関係、同性愛、

それらイエシュアに繋がる人達が関わる行動ではないことをして

いた人達が信者の中に居た事なのです。

そして、コリントの地域では当時、女性が短い髪の毛をしていたり、髪を束ねていたらそれは娼婦とみなされたり、男性が長い

髪のヘアスタイルをしていたらホモセクシャルとみなされる。

”髪の毛”ヘアスタイルの話をしているのです。髪型により

その関係の人達とみなされてしまうからと言う警告なのです。

 

トラーには男性が被り物をする事は禁じられてもいないし、事実神殿に仕えるレビ族の大祭司、祭司たちは神が指定したデザイン

通りの形、色、素材の被り物を被る様に神が教えているのです。

 

だからトラーに照らし合わせれば、パウロが語っている事は

トラーの教えに反していると言う話ではない、コリントの地域でそれらをしたら変だとみなされると言うことを中心に話しています。しかも、11章は初めから帽子や被り物の話などしていないのです。翻訳からだけ見れば帽子や被り物やスカーフの話を

している様に書いてあるので、完全に誤解してしまう箇所です。

 

しかも考えれば分かる事です。女性は帽子被らなければ祈れないとか、男性は帽子かぶったら不品行なんてあり得ないでしょう。

常に祈りなさい=帽子がないから祈ってはいけませんなんて事は

神の教えでもない、あり得ない事です。

女性は寝ても覚めても帽子被っていなくてはならないなんて教えは聖書には無い教えだからです。人が考える教えで人を縛ることは出来てしまいますが、聖書では無い教えを聖書と考えるのはずれているのです。そして祈る時に帽子被りたければ被れば良い、

どちらでも良い、でもそんなことしろと神は言ってない

それだけの話なのです。

 

ユダヤ人男性はキッパを被りますが、これは伝統でしている事

です。その意味は、自分の上に神が存在して、自分が神ではない思い上がった意識にならないことを常に考えるためとあります。

その意味、意識づけは良い事だと思います。

女性は、シャバットの晩が始まるときに、被り物を付けて、

キャンドルを灯して、家族全体を祝福する祈りをします。

でもその祈りが終われば被り物は取ります。

伝統でする事なので、どちらでも良い事なのです。

伝統でされている事、人が考えたことには意味があるかもしれないけれど、神がそうしなさいと言われた事ではなければ、

絶対にこれをしなければと言う事ではないのです。

 

しかもパウロが忠告、アドバイスしている相手は1世紀当時の

コリントの人達なのです。現代の日本人に当てはまらない事も

あるのです。でもトラーの主旨、教え=人に誤解を与える行動

服装をしないと言うのは、いつの時代にも同じ神の教えなのです。

 

次に同じ11章の箇所に繋がりますが、この11章の中で

中盤以降パウロは、”過越の祭の晩餐”にまつわる教えを通して

語っています。この箇所は、キリスト教の中では、月一度の最初の日曜日にする聖餐式と変えられてしまったものなのです。

変えられた内容は、この儀式をする”時” ”儀式の内容、意味”

そして神のオリジナル記念日を祝わう事をやめて、

変えられた内容の儀式を行う様になってしまった事、

この3点が変えられてしまった内容です。

 

1コリント11:17 ところで、次のことを命じるについては、

あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、

あなたがたの集まりが利益にならないで、

かえって損失になっているからである。

 11:18 まず、あなたがたが”エクレシア”=”カハール”=”神に

呼び出された人の群れ”=として集まる時、お互の間に分争が

あることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、

それを信じている。

11:19 たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。

11:20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、

主の晩餐を守ることができないでいる。

11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに

先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、

酔っている人がある始末である。

11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。

それとも、神のカハール=エクレシアを軽んじ、貧しい人々を

はずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、

なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、

ほめるわけにはいかない。

 

この箇所を読んでキリスト教の中の伝統習わしで考えるなら

そのグループごとにより違うと思いますが、月一度とか、

毎週やる”愛餐会”の席での事かなと考えたりすると思います。

 

パウロがここで語っている”主の晩餐”とは、過越の祭の晩餐、

イエシュアが祝われていたのと同じレビ記23章にある、

聖書の暦の春の第一の月の15日が始まる夕暮れに行われる

”過越の祭”の晩餐の時の話なのです。

神のオリジナル記念日を祝うユダヤ人なら容易にパウロが話している場面設定や時期がクリアーに理解出来るのです。

私も以前はこの箇所を読んで皆が集まって食事をする話をして

いるだけとしか理解出来ませんでした。

自分の宗教体験や西洋宗教の教えや習わしを通して聖書に書かれている内容を考えてしまっているので、聖書に書いてある本当の意味、意図、内容を誤解して把握している、自分の先入観で

考えてしまうと言う良い例だと思います。

 

神が創造された永遠の記念日を祝う事は福音の中心です。

なぜならそれらはイエシュアのされた業を表す事であり、

神が重大なことを教える中心でもあり、神が創造された記念日を

生きる事は、キリストそのものであり、神と神の子らが1体で

ある印でもあり様々な事を神がそれらを通して教えているから

です。これは実際に祭を祝う事をやってみれば、はっきり理解

出来るものです。実態に手に取り口にして味わい、体の中に入り栄養素となる経験をする事と同じです。見ただけ、聞いただけでは何か理解出来ないからです。実際に食べたら分かる。

そして、この過越の晩さんはそれぞれが勝手な時に勝手に

晩餐を進めるものではないのです。

晩餐の中に置かれた食べ物の意味を一つ一つ皆で一緒に考え、

そして出エジプトにまつわる主がされた業を話し合いながら

進められるのがこの過越の晩餐の主旨なのです。

パウロが正したい問題は分裂、分派です。それぞれがそれぞれに

勝手にバラバラにやっている、大事な主の晩餐=過越の祭の晩餐でさえ一体感も無く勝手に食事しているだけ!とパウロが書いているのは、神の祭でさえ、そんなバラバラな意識で一体として

祝ってない状態、その意識を問題であると指摘している箇所です。

神の家族であるのに、1体である事実に生きていないと言う事。

 

パウロが”主の晩餐”=過越の祭の晩餐の話している証拠として

分かるのが、11:23−29の箇所です。

パウロが話しているのは、神のオリジナルの記念日で行われる

ものです。

キリスト教の世界では、神のオリジナルの記念日、シャバット、

祭を変えてしまいました。春の過越の祭から始まる一連の記念日

秋の祭を祝う事をやめ、別の祭りに変えてしまいました。

キリスト教の世界では、過越を祝わないで、この過越の祭の晩餐の中で時間をかけて皆で語り合いながらされるものを、

月一度の最初の日曜日に短くするものに変更しています。

そして、種無しパンではなく、種ありパンに変更されて、

意味が消えてしまっています。種無しパン=マッツア=罪、

要らないものがそぎ落とされた事実=復活の命に移行している事実が種ありパンでは現れ出てこないのです。マッツアを通して

既にイエシュアの復活の命に移行している事、穂を数える7週の間で強調して教えられている事、復活の命は2000年前に

初めて出現したものでは無く、最初から教えられているものなのです。

そして、神が定めた時に神が定めた意図通りを行い祝うと言う事が最も重大な意味があり、重要でありガードすべき事なのです。

神が言われたからです。神の教えの一点一画さえも変えてはダメと。神にダメと言われた事を無視した教えが、人が作った

神の言葉を変更、否定、変えた教えなのです。神が創造した記念日を人間が作り変える事自体が神に対しての冒涜であると考える

事さえも出来なくなっているのです。

オリジナルの神の言葉が書いてあるのに、事実として受け取れない、人造の教えか神の教えか聖書を読んでいても識別、見分けられないのは、人の作った教えの障害物、おおいのせいなのです。

 

 

 

続く