1コリント6:15−17あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。
キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。
決してそうではない。
娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、
ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と
言われています。
しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
パウロはどんな人達、異邦人であれユダヤ人であれ誰に対しても常にトラー=モーセの五書から教えている事実があります。
神のデザインは目に見えるものと目に見えないものが一体で
繋がって同一である事を教えています。
主に繋がる人は神が伝える汚れた行為を取り込みながら
同時に神の性質に造られた人として神の意図にぴったりの正常のデザイン通りを生きられない事をパウロは警告しています。
そしてコリントの書簡で書かれている内容を誤解するものが
結婚を禁じているのだと言う誤解です。
神が創造した結婚をパウロが否定するなど、
神の使徒、トラーを教えるパウロがそんな事を天地がひっくり返っても絶対に言う訳がないと言う事実から考えれば良いのです。
パウロが書簡を書いているときにあった社会情勢や
背景があるはずなのです。
例えば今のイスラエルの様に戦争が近く勃発しそうだ、
戦争に出兵して行くと言う事態になるなら、その時には結婚を
考えている人は、今のこの時に結婚していない状態であるのが
良いからです。
戦争で命を落とし死んでしまうかも知れないからです。
又はイスラエルの国の憲法=トラーでは結婚したばかりの人を
徴兵してはならない教えがありますが、古代ギリシャコリント
などの諸外国ではその様な憲法はないし、
トラーの概念は通用しないし適用されません。その様な事情を
踏まえて読めば理解出来ます。
申命記24:5
人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。
何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。
<イスラエルで神に対しての最大のトーヴは”妻”を喜ばす事!
と友達が話していて女性陣みんなが拍手をした事を思い出します。>
1コリント7:6 以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。
7:7 わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになって
ほしい。しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。
<この箇所もパウロがその時代、その地域での現状、事情で
これが今は一番良い対策ではないのでしょうか?と提案している
だけですと書かれています。
そして独身でいる事の方が結婚している人より優れた生き方を
している、より崇高霊的な状態だと言うわけでも何でもないのです。神の創造のデザインを考えれば分かる通りです。
人は男性の中から女性の要素を取られて一体として向き合う関係に造られたからです。これが人間の究極のデザインです。
人類はこの男女の結婚、一体性から命が生まれ出る様に、
神がデザインされたその事実を否定したら世界は人口減少、抹消
”生めよ、増えよ、地を見たせ”と神が言われた神の意図通りとは逆になってしまうからです。>
1コリント7:36−38
もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、
それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりに
しなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。
しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけ
たりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人は
それで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっと
よいのです。
<パウロがここで提言しているのは、同じく結婚しない方が
今の時点で得策、安全である状況があるはずです。そして結婚して一体となれば直後に戦争などで引き裂かれてしまったのなら
その嘆き悲しみ苦しみは悲惨なものだからでしょう。
これだけ読むと結婚しない人の方が優れた生き方だと誤解して
しまう人がいると思うし、結婚は霊的に低いものであるとか、
悪いものと考えると思います。それこそがヘレニズム思想です。
創世記の聖書には神は結婚をデザインしている、結婚から
命が発生するデザインであること、人の命が育まれて行く環境は
夫婦、家庭である事が聖書にははっきり記されています。
パウロが話している論点をクリアーに理解して読まないと、
パウロが解説している神の教えを誤解し続けてしまいます。
第一には、神の教え、言葉は絶対であり人が曲げる事が出来ない
と言う事実にだけ立てば、パウロの書簡に書かれた意味不明と
思われる、又は理解に難しい内容も分かると思います。
結婚しないほうが良いと言う社会的事情、情勢があったはず
なのです。
時と場合、そして人それぞれに置かれた立場が違うと言うだけの
事をパウロが提言しているだけなのです。
自分自らの経験としてキリスト教の教えの世界で語られている
大前提は、イエシュア到来以降、神の教えが変化した、
イエシュアが来られてモーセの五書は終わりになったのだと言う
聖書とは異なる事実を元に教えられてしまっている事です。
それはマルキオン始め、1世紀後半から出てきたトラーを知る
ユダヤ人では無い数々の西洋教父達の教えを引き継ぎ、
しかも中世以降から莫大に浸透して来た時の西洋哲学思想、
印象派主義、人間至上主義などの思想を取り入れた
18〜19世紀に出現した西洋神学の教えが異邦人の間で
多大に受け入れられ、ヘブライの書、ヘブライ思想で語る
神の教えとは違うものに変身してしまったものです。
だから”西洋宗教”と言うのでしょう。
イスラエル、ヘブライは、ギリシャ、ローマ西洋とは異なるのです。
その事実に気が付けば、人が神の言葉を変えて変化させ、
否定し、神の言葉のある部分は終わりと語る思想、教えが聖書
では無いと言うことを神の言葉の一体性、永遠不変性が
書かれている聖書だけに立てば理解出来ます。
そして歴史の中で神の言葉に人間が手を付けて削除、付け足しした西洋宗教歴史の事実を学べば必ず神の言葉は永遠に固くたち、不変である事実を神の言葉が宣言している通りに
気が付けるはずです。
今の世界と同じく主流情報媒介が流す一方的に語られる
”偽情報”に騙され、正しい情報は即座に削除され、正しい情報を探り、そして自分の頭で真実の点と点だけを繋げて考える事を
しないで、一方的に流される情報を受け取り信じれば、悪を善とし、危険を安全とし自分の身に破壊を招き入れる事を疑いもなく
良い事であると信じてやってしまう事と同じです。
世界は大きなリセットへ方向転換をしています。
神が様々なことを利用して人を神の真実に目覚めさせ、
引き寄せている事は確実だからです。
イスラエルの神に対しての曲がった概念や聖書とは異なる教えも
必ず方向転換、戻る=シュヴァする事を神がされているからです。今それが世界で起きているのです。
パウロの書簡は読んでいるだけでは意味不明の箇所がたくさん
あります。
あたかもパウロが神の教えを否定していると誤解する箇所は、
ちゃんと文脈を読んでいない事と神の言葉をパウロが否定する
訳など100%無いと言う聖書の事実に立っていない。
そしてパウロが語る内容は100%トラーからのそれぞれの地域で状況で生きる知恵を伝授しているのだと知らないなら、
”ほら!食物規定を破棄された”とか”割礼は無意味だ”とか、
”シャバットや祭りの日程はそれぞれ考えて良いとする日にすれば良いとされた。”とか破茶滅茶な理解の解説をしてしまって
いるのです。
神の言葉、教えのどの箇所も永遠不変、完全であると神が言われました。
そして異邦人の世界では特にイスラエルの神の教えなど生きよう
と国全体でも個人でもする人が少ないから神の教えを実際に
生きていないので、ユダヤ人だけの教えだとか、ユダヤ人だけの
祭りだと信じ、勘違いしているのです。
異邦人は神が伝える教えや、記念日を生きようとしないから。
それが事実です。
だからメジャー、主流、マジョリテイがユダヤ人で実際に
行われ生きているからユダヤ人だけの教えだと勘違いして
いるのです。
神は一人の人、全民族の父=アヴラハムを通して全世界へ同じ
生き方、福音を伝えていると語っています。
それなのに人種により別の生き方、別の記念日を別々の方法で
やるなどと言う思想、発想こそが神が語るゴール、1つの大家族になると言う神の言葉、目的、聖書とは違う別グループ、
別の思想、別の教え別の記念日を生きてしまうことになって
しまったのです。
イエシュア、救い主が戻られ世界をエルサレムから統治する時には、イスラエルの神に反対していた世界の国々もシャバット、
神の記念日を祝うことに戻る!と預言されている箇所を西洋宗教の教えでは語られずにスルーされているのです。
聖書には、神のオリジナルの教え、オリジナルの記念日を新しい
時代には全世界が生きると書かれています。
ローマ帝国が4世紀以降作った週一度の記念日や年2度の祭りを祝う事は聖書のどこにも書かれていません。
ぜカリヤ14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの
残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、
仮庵の祭を守るようになる。
14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、
エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
14:18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、
主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを
撃たれるその災が、彼らの上に臨む。
14:19 これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を守るために上ってこない国びとの受ける罰である。
14:20 その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、
しるすのである。また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。
14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。
その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。
<神の教え以外を売る偽物は神の宮に存在しない>
続く