パウロの提言はトラーを曲げない 時と場合で対処が違うと言う内容 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1コリント6:12 すべてのことは、わたしに許されている。

しかし、すべてのことが益になるわけではない。

すべてのことは、わたしに許されている。

しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。

 

 

この箇所も大いに誤解されている箇所だと思います。

全てと書かれていれば、罪でも何でも全ての行為と考える事は、

なんでも食べて良い=何でも=全ての動物と誤解する事と

同じなのです。

全て=どんなずれもなどと普通はそんな考えはしないはずです。

 

全て=神の許された境界線の範囲内での全て!と言う理解が無い

場合なんでもやって、なんでも許されると言う神の言葉を誤解した教えを信じてしまうのです。でも道徳的、本能的に人としての

生きる道を知る人なら、何でもイコール罪含めてすべてなどと

考えないです。

でも神の敷かれた境界線を理解するのは、神の教え=トラー

モーセの五書に書かれた詳細を知らないなら分かり得ない

事なのです。

パウロが話しているのは、それぞれの立場、事情で何をすべきか

すべきではないか自ずから神から与えられている知恵を

駆使すれば判断出来るその内容を語っているのでしょう。

 

全部神の教えは一貫しているので、少し行きつ戻りつつしますが

同じ様に神の教えを誤解して読んでしまっている例がたくさん

あるので書いてみたいと思います。

 

1テモテ 4:3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、

食物を断つことを命じたりする。

しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。

 4:4 神の造られたものは、みな良いものであって、

感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。

4:5 それらは、神の言と祈とによって、

きよめられるからである。

 

この箇所を読んで”結婚を禁じる事”聖書と反する教え、

当時の偽哲学グノーシス主義の教えに対してパウロは

反対しています。

結婚をする事を禁じる事は神の教えでは無いです!

神が結婚を造られた事を考えればそんな当たり前の事実は、

簡単に分かるはず。神が神の創造を否定する教え?!

神が神の言葉を否定すると言うマルキオンやダービーの教えと

同じです。

でも1コリントの他の箇所を見るとあたかも結婚は悪い事であると読み違いをしてしまう箇所があります。

そうするとパウロはカメレオン的に時と場合により人により

コロコロコロコロ神の教えを変化させる、削除する、否定すると

言う誤解をしてしまうのです。

そう言う点に注目する、神の言葉は普遍!と言う絶対的に揺るがない基準からずれず、神の言葉の真実だけに立つ事維持して

聖書を読めばパウロの論点がつかめます。

 

そして神の教えの本質、事実を知らない場合は

”全ての事を今はして良い”と誤解する事と同じ誤りで解釈する

パウロの言葉の内容だと思います。

 

食物=神が造られた人間の食物=レビ記11章に書かれている

人が食するために神が造られたものの中での全て!と言う事実に

基づき考えないのなら、”今はきよい動物、きよく無い動物

なんでもかんでも食べて良い、やって良い恵みの時代なのです〜”などと言う非聖書的な教えを異邦人は簡単に作り出してしまっているのです。イエシュアが再び地上に来られて世界が仮庵の祭りや過越の祭りをエルサレムを中心に祝う時に、エルサレムの

神の祭壇で”豚”など捧げられる訳がない事を知れば分かります。

きよい動物だけ!神の神殿の祭壇に捧げられる。

神の教えには、神に属するものとそうでは無いものの間に

クリアーな境界線が引かれている事を知らない場合は、

全て=何でもかんでもOkなのね!と誤解します。

 

命の木から!善悪の知識の木からは人は食べる様に造られては

いないと言う教えと全く同じ事です。

神の創造したきよくない動物=人間の食物としては造られては

いない動物、別の目的のため、清掃動物として造られた動物は

人間の食べ物では無いと言う事実は永遠不変なのです。

それはどの人種でも同じです。神の教えを知る人、知らない人で

実際生活、食生活に対する意識、理解行動が違うだけなのです。

 

それを読み違いをして、祈れば毒でもきよくないものもきよくなるなどと考えるのならば、神の言われている意図は見えないです。神の定義する聖別の意味や本質も理解出来ないままになる。

 

もう一つ誤解する箇所は結婚に関して書かれている箇所だと思います。ある人達は、結婚が悪い事と考えていました。

ギリシャ思想は、肉体は汚れている、霊はきよいと考えて

その思想を浸透させましたが、西洋キリスト教の教えの中にも

ヘレニズム哲学思想が深く深く浸透しているのです。

体=汚れている、霊=きよく崇高なものと考える多くの

人がいます。

ローマカトリック教は神に対して生きる妨害をすると誤解して

グループの規定を取り入れ独身主義の教えを作りましたが、

ルターはその教えは聖書では無いと気が付いてそのグループに

反旗を翻しました。ルターも伴侶を得ましたね。

 

神殿に仕える祭司はどの様な人と婚姻関係を結んではならないか

はっきり書かれています。神殿に仕える祭司は妻がいるのです。

ローマ教思想と神のデザインした人間、夫婦、家族のコンセプトやデザインは異なるものです。

神殿の祭壇に捧げられない動物の規定とも重なるものです。

神殿の祭壇に捧げる動物の規定は神の実態”聖なるもの”を

代表するもの、イエシュア=歪みが無い完全なもの=人も

完全に神に贖われている事実=全人類へ同じ教え同じ神の真理を伝えるために絶対に曲げられないものだからです。

 

ちょっと読むとまるでパウロが神の教えを別種の2つの教えが

あると矛盾しているかのごとく錯覚し、神が神の教えを訂正し、

終わらせ別の教えに作り変えたと誤解してしまうかもしれませんが、神は神の言葉を途中で変えない!!と言う大前提を揺るがさないならパウロが書簡の中で何を意図して話しているのか

クリアーに見えてきます。

神の言葉が変わったと言う非聖書的な考えをするならば、

自由自在に神の言葉を曲げ、自分想像の考えを編み出せて

しまいます。

創世記 1:27ー31

神は人に似せられて創造された。

神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。

 

<いくらLGBTが主張しても、その間柄の中では決して命は

生み出せません。それは神のデザインでは無いから不可能なのです。男女が婚姻する大きな目的は生めよ、増えよ、地を満たせ

があるのです。>

「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ

海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」。

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。

見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

2:24

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、

ふたりは一体となるのである。

 

一人の人から全世界の人類が現れ出たのです。どうして別々のグループに分け、人種により別の生き方を主張するのか?

非聖書的な教えに気が付いて、非聖書的な教えを排除しない限り人が作った宗教の教えを伝え続け蔓延させ、それは神を否定する冒涜行為であることにも気がつかないまま主のために新しい教えを伝えているのだと言う大変な誤解ズレをし続けてしまことに

なります。

神はエデン、創造の元の状態に全ての人を1つにする事、

それが究極の目的であることが聖書に書かれているのに分裂した教えをする西洋人の宗教哲学が神の真実な事実を聞くことを

妨害をしてしまうのです。>

 

神の意図は”神の似姿に造られた人”が神の似姿通りを生きて

地上の面を同じ神の性質の人たちが神の性質を生きる事で治め

られ満たされることが神の創造の究極の目的でした。

これを今逆行するのが世の中に流れているプランなのです。

全て神のデザイン、プランに反する流れは神に敵対するものの

集団の意図です。神の創造の破壊が彼らのプランだからです。

 

ここで神の創造されたものはトーヴであった。

トーヴ=神の意図通りであった事が記されています。

そして、神は人に結婚と言うデザインで命を地に満たすように

造られました。

夫婦、そして家族は神の創造物のデザイン通りを生きる実態を

表す最小の形です。それが大きくなれば世界で1つの神の家族となる事、それが聖書に書かれています。

この小さなユニットを神の意図通りに生きることから全てが

広がって行くからです。

 

 

続く