パウロの難しい書簡の箇所を理解する上で必要な事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

”割礼”と言う1世紀で使われていたユダヤ教の世界の儀式に

関する”用語”はアヴラハムに与えられた”割礼”とは違う意味の

”ユダヤ人に完全に改宗する儀式”を指して語られている事を

まず知る必要があります。

英語では”プロセライト”と呼ばれるものです。

 

ユダヤ人になる改宗儀式の中には肉に付ける割礼ももちろん

含まれています。

ユダヤ教の世界では”仲間”になるため、又は彼らの目から見て

神の国の正当な一員とみなされるためには、完全に100%

ユダヤ人になる儀式を経る事、そしてそのあかつきには、

異邦人は異邦人の世界との関係を断つ事、親戚縁者とも縁を切るなどと言う教えをラビ達に課せられていたのです。

 

そして改宗儀式はそんな単純、簡単なものではないです。

今でも正統派ユダヤ教の中ではユダヤ人に改宗儀式があります。

異邦人でも然るべき方法でラビからユダヤ人になる改宗儀式を

受ければイスラエルの市民になる手段が得られるのです。

この儀式を通るにはそれは何年もかかるものなのです。

ヘブライ語のトラーをラビから学ぶなどなど、

たくさんの複雑なプロセスがあるのです。

でも改宗儀式を経なければ神の国の一員とみなされるないなどと言う神からの教えはトラーには書かれていなものです。

 

イエシュアが福音書の中で正している内容は、1世紀当時の

ラビ達が作ったルール、掟=口頭トラーという彼ら独自の解釈を

生きなければ正式には認めないと言う、神の教えとは関係ない

ずれた事を人々に生きる様に要求していたのがそれなのです。

イエシュアは父の言葉=トラー=ご自分自身を否定する事など

絶対にあり得ないし、してもいませんでした。

 

そしてパウロが話している内容を理解して読めば見えます。

割礼と言う改宗儀式を経なければ、神の恵から漏れるとか、

神の国の上級国民となれないと言う間違った意識を持つ人達に

対して間違いを指摘して正しているのです。

 

だから恵みにだけにより”義”とされると言う事実をパウロは

強調して何度も教えています。

でもそれは、割礼やその他神の教えを生きる必要はない、

割礼が無意味になったなどと教えている訳でも無いのです。

パウロの論点は何か?を考えて読む。神の言葉=教え=トラーは永遠でパウロが神の教えを否定したり、意味がないとか、

ないがしろにする様に人に教えたりする事など一度も話して

いない、その事実にちゃんと立ってパウロの難しいと思われる

書簡の内容を読めば理解出来る事なのです。

 

パウロが書いている様に”私はアポロに着く”とか”ケパに付く”と言うコリント人の間にあった問題は、ローマ人への手紙と同様に、仲間内の中での不必要な言い争い、仲間割れをして分裂し、

分派、ねたみ、争いが起きていた事です。

神の教えの本質を捉えないで、ズレた捉え方をしている

その意識をパウロが正しているのです。

 

割礼と言う儀式もそうですが、神に認められるために、

神の義を得るためにする、その動機、目的のために、

神の教え=トラーを実践すると言う意識自体が

ズレている事なのです。

神の言葉を生きるのは、それが人間の本来の性質であり、

神に属する大家族が互いにシャロームをガード出来る状態に

保たれるためなのです。

 

神の教えを生きることはズレていることではないのですが、

神の言葉を、義を得る目的のためにやると言う、

その”目的、動機”自体が本質から全くズレている!

その違いに着目し、パウロの解説している意味に気が付いて

パウロが書いている内容を読めば理解出来ます。

そして、どんな場合にもパウロは神のトラー=モーセの五書の

どの箇所も否定していない、異邦人には関係の無い教えであると

言ってもいないのです。パウロは神ではないのです。

神の言葉は100%完全であり絶対であり変わらないと神が

言われている事を人間が否定出来るわけないからです。

パウロも神に造られた同じ人間であり、しかも神の言葉、

トラーを伝える預言者、使徒として立てられたパウロが、

神の言葉をどの箇所たりとももし否定するなら

それは神の定義、聖書では只の偽預言者、偽教師になります。

 

神の言葉は、人間が否定や削除する事が出来ない性質のものだ

からです。人が神を消滅出来ると言っているのと同じです。

神=言葉と神が紹介している性質を理解すれば理解出来ます。

これは深く掘り下げて行くとパウロがどの様な対処をしたかが

見えてきます。

 

使徒15章の”エルサレム会議”と全く同じ内容です。

異邦人は4つの事だけ守れば、後は神の教えなど生きなくても

良いのだなどと言う事ではないのです。

 

神の言葉を全く理解していない新しくイエシュアを信じた

異邦人達に、ユダヤ人と交わりをするために取り敢えず

最低限この4つの事だけは理解して守ってね!交わりに加わる上で絶対にしてはならない事ですからと提案しただけです。

 

なぜなら、新参者は神の教え=トラーに書かれている内容を

ユダヤ人の様下地が無いので、いきなり全部は理解出来ないからです。神の教えを理解し、実際に生きて成長するには時間が必要だからです。

種植えて次の日に実を収穫する事を望むのは無理な事です。

 

そして神のトラーを毎週シャバットに聞いて、周りの先輩に

神の教えを生きるとはなんぞやと教えられて行けば、やがて自分の中で神の教えが理解出来て、消化し、納得して神の言葉を

生きる場所に立って行くだろうから、それまで忍耐して待とうではないかと当時の寛容なパリサイ派の仲間の意見が書いて

ある通りと同じ事なのです。

赤ちゃんにいきなりいろいろ要求をする事は出来ないのは

誰でも知っています。最低限の理解出来る事からまず始める。

パウロが書いている内容もそれと重複するのです。

その理解の上でパウロが書いた書簡を読めば見えてきます。

 

パウロの書簡を理解する上で大事なことはパウロが

100%トラーを支持し、人種により神の教えが変わったなどと言ってはいない事、神のトラーは永遠である事実にだけ立って

聖書を読み続ける事にあるのです。

 

道徳的教え

倫理的なことに関すること。十戒の中に書かれているもの。 

盗むな、性的な違反、殺人、偽証、権威に対する反抗など。 

 

儀式的な教え

礼拝に関して。

神の神殿の祭壇での捧げ物生贄システムに関して。

儀式的純度、純潔=きよい、きよくない。

神の記念日について。

衣の四隅、メズサ、テフィリンその他のシンボル。

食物について。

 

市民法

イスラエルの於いての一般的な法律。土地に関して。

シュミタ年=7年毎の負債清算、ヨベル年=7年を7回経た

50年目に土地が戻されるなど。

召使いに関しての法律。債務のために働く使用人に関して。

負債や、所有権、結婚や離婚に関して。契約や宣誓に関して。

 

1世紀のユダヤ人コミュニテイ、イエシュアや使徒たち含めて

3つのセクションに分断された神の教えと捉えていたのでしょうか?

神の教えが全てで1つのセットとして受け取っているなら、分断して仕分けし、削除する行為をしたら辻褄が合わなくなります。

手と指は繋がっているのに、左手切断、右手だけは残して、

しかも指三本削除しましょうと言う事と同じだからです。

手は体と繋がり、脳と繋がり、そして指は手の平に繋がって

造られているのにそれを切断するのは出来ないからです。

 

聖書を書いてある通りに読めば、どのカテゴリーに属する教えも

全部混ぜられて互いに繋がり1つの教えとして教えられているからです。

神の”愛”アハヴァは神の言葉=教えの全てを網羅するものです。

道徳的、倫理的、市民的、儀式的全て互いに重なり合い要素を

共有しているものでもあるのに、それに対してくっきり区別を

付ける方が無理です。

 

出エジプト 22:19 <道徳的>

すべて獣を犯す者は、必ず殺されなければならない。

22:20 主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。

 22:21 <ユダヤ人市民的>あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。

また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、

かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。

 

22:22 <道徳的>あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。

 22:23 もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。

 22:24 そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。

 

 22:25 <市民的>あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。

 22:26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。

22:27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである

22:28 <市民的>あなたは神をののしってはならない。また民の司をのろってはならない。

 22:29 あなたの豊かな穀物と、あふれる酒とをささげるに、ためらってはならない。あなたのういごを、わたしにささげなければならない。

 

どの教えもモラル、儀式、市民的なもの全部入り組んで教えられているので分けられるものではないのです。

 

続く