パウロはクリスチャンの世界で最大限に誤解されている使徒で
ありパウロが教えていた内容はトラー=モーセの五書を否定した
教えをしていると勘違いされた解説が長い歴史の年月で世界中の
クリスチャンの間へ流れていますが、聖書に記されている事実はパウロは100%トラーを支持して教えて生きていたのです。
いつパウロが神の教えを捨てるように教えましたか?
いつパウロが神のトラーは異邦人には関係ないと言いましたか?
又はいつパウロがトラー=モーセの五書は呪いの律法で
破棄され別の新しい教えが出現したと教えましたか?
もし教えたと言うならパウロは何の書を根拠に話しているのですか?それともパウロは自分の意見を語っているのでしょうか?
いつパウロは神の記念日を別の日に変更する様に教え、
第七日目以外の別の日にシャバットを祝い、そしてローマ帝国が4世紀に作った西洋の別の記念日を祝っていたのでしょうか?
聖書の事実からだけ考えない限り、聖書に書いてないことまでも
神の教えだと勘違いしてしまうのです。
これらがパウロの教えだと誤解する理由は、聖書に書かれている
事、パウロの書簡を誤解して読んでいるからに過ぎないのです。
聖書に書いてある内容を誤解して読めば、神の言葉、
聖書に書かれている真意が見えて来ないのです。
聖霊に導かれれば分かると言うならば、聖霊に導かれながら
どうして神の言葉の語る神の言葉の永遠の真実、神ご自身が
神の永遠の言葉、完全なるトラーと言っていてもその事実が
見えないことが起きるのでしょう?
聖霊に導かれながら、福音書〜黙示録は100%トラーが
書かれていると異邦人は気が付けないのでしょうか?
それは聖霊に導かれるための”神の言葉を正しく理解する”
そのプロセス=聖書の土台、モーセの五書に書かれている
通りを学ぶと言う事が抜けているからなのです。
それは聖書に書いてある内容を初めから誤解して解釈すれば、
聖霊が教える内容が部分的にしか見えず、真実が覆い隠されて
しまうからです。
だからまず最初に”聖書に書いてある内容を、書いてある意味
通りに把握する”と言う大前提をクリアーしなくては
ならないのです。
神の言葉は途中で終わる、異邦人とユダヤ人には別の教えである
と信じている人に取っては、神の言葉は永遠不変、神のトラーは
完全で人を生かすものであると書いてあっても、変化した教え
今は自分には関係無い教え、生きる必要も無い教えであると
人の教えを頭の中で常にリピートし続けるので、神の言葉の真実にしっかり根付くことが妨害されてしまい、
芽が出ない状態になるのです。枯れて行く植物みたいに。
詩篇1章にある水の辺り=イエシュアに植わるとは、
神の言葉=教えの中に浸って生きている状態が聖書には
書かれているのです。神=言葉=イエシュア=トラーだからです。
マタイ13章の”良い地と悪い地”のたとえ話は、神のトラーが
頭脳に根付かない話をたとえ話を通してイエシュアが教えて
いるものなのです。良い地とは、理解する頭脳=神の教え、
言葉を理解する<頭脳=地>の事をイエシュアは
話しているのです。
パウロはトラー、預言書、諸書を引用して解説しています。
預言書、諸書を引用すると言う意味は、100%トラーを
話している!と言う事実なのです。
預言書=神のトラーから外れた人へ、神のトラーの生き方に
戻る軌道修正を促すこと、それが預言書、預言者の役割であり、
諸書は、神のトラーに書かれた知恵を実際に生活の中で
生きること、そして神のトラーから外れた生き方をした
イスラエルに起きた出来事が忠告として記されているからです。
申命記の書は、古代中東の契約形式に沿って書かれた契約書です。その契約書は、”婚姻契約書”なのです。
なぜ分かるのか?契約書の中に書かれている用語が婚姻関係を
表す婚姻契約の言葉が使われているからです。
だから愛とか娶るとか、裏切るとか不貞とか姦淫と書いてあるのです。愛とは”契約関係の中”を生きる詳細なのです。
それなのに、神と婚姻関係にある人が、婚姻契約の詳細を捨てて
生きると言うことが神と繋がる恵の生き方だと言うなら
それは聖書とは全く違う思想を語ってしまっているのです。
誰かと婚姻関係に入ったら、それは聖別される事です。
自分の夫の上に分かたれて、他の関係とは区別されるその事実に
入った事なのです。
イスラエルが約束の地に入る前に神のトラー=婚姻契約の詳細をガードして生きる様に再確認されていて、”婚姻契約”の内容=
神の子らの生きる姿が書かれたものが再更新されているものが
申命記です。同じ内容です。
そして約束の地に入ったらイスラエルは神の教えを忘れて
別の神々の教えと混じり合う事を預言し警告しているのです。
ローマ10:20 イザヤも大胆に言っている、
「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、
わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
10:21 そして、イスラエルについては、
「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし
伸べていた」と言っている。
イザヤ 65:1 わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。
わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、
「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
65:2 よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、
わたしはひねもす手を伸べて招いた。
65:3 この民はまのあたり常にわたしを怒らせ
園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、
65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、
憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
65:5 言う、「あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別<聖別と言う言葉=区別=
קְדַשְׁתִּ֑יךָされたものだから」と。
これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である。
聖なるものと汚れたものの間に境界線が引かれてしまうのです。
<汚れと、どんな形であっても交わるなら神との間に隔たりの
境界線が敷かれてしまう事実がはっきりと書いてあるのです。
聖なるものと汚れは互いに交われないと神は言われました。
わたしが聖であるから、あなたも聖である状態でなければ
ならないと言われた言葉はそれを指しているのです。>
レビ記11:44、45 19:2 20:26
21:8、申命記23:14、 1ペテロ1:15−16
神の忌み嫌うもの、汚れたものを肉体の中にも、頭脳の中にも
自分のどの部分にも決して取り込む事が出来ないと神が伝えて
いる事実が聖書には書いてあります。
神の語る”汚れ”とは何なのかをまずトラーから知らないなら、
汚れを汚れとも受け取れない危機に陥るのです。
それは道徳的な事だけではないのです。
神の忌み嫌う汚れがクリアーに書かれていても自分には関係の
無い警告だと思う箇所でもあると思います。
豚の肉食らう事それが何?どうしてそんなに悪い事なの?
人の嗜好や趣味にまで神は口出しするのですか?と。
神は人が生きる全ての領域について、神に造られた人の生き方を
教えているのです。
神が人が食するに相応しい食べ物と相応しくない食べ物を
を造ったと書かれています。
相応しいもの=神の宮、神の祭壇に捧げられるものでもあります。神の宮である人は神の宮に相応しくフィットしたものを
体に取り入れる。
きよい=タホーの動物、汚れた=タメーの動物。
タホー=人が食するために造られた動物であり、
タメー=人の食べ物ではない人にフィットしない動物と
神は教えている事実があり、それは途中で変わらない。
変わったと誤解している箇所は、書いてある通りに聖書を読んで
いないからなのです。
衣食住、そして生きる領域に於いての全てを神が人に教えているのです。
最初に書いてある通り”命の木”からだけ食べてと
”食べる”と言う事が書いてあります。
食べ物=その人自身を物理的に作るものでもあるからです。
You are what you eatと言う英語のフレーズはぴったり
その性質を表しています。
口にするもの、目にするもの、頭の中に取り入れて考え続ける事それが自分の血肉になってしまう。
だから反芻する動物でも教えられている通り、五感を通して
環境から入ってくるものが、神の似姿に造られた人の性質に
属さないなら、咀嚼して、識別して、異物なら吐き出す事を
すると教えているのです。
神が最も忌み嫌うと言う強い言葉で書いてあるのか、
トラー=神の教えを知らなければ、トラーは破棄されたと
誤解している場合には神の伝える聖別の意味が神の伝える
言葉を聞いても全く理解出来ない、何も感じない内容が
書いてあります。
パウロはこの箇所を引用して、この箇所に書いてあることを
ローマ人へ警告として話している事実が書かれています。
トラーは異邦人には関係無い、自分には関係無い教えだと
聖書を読むならば神にダイレクトに言われている言葉に
全く気がつかず素通りして、イスラエルが陥った同じずれ=
罪を知らない間に生き続けてしまうのです。
続く