聖書に書かれた内容を誤解して読む理由、神の言葉が途中で
変わると思い込んでいる事、2つ別の教え、契約、福音がある
神の言葉が分断されていると考えている、人種や時代ごとに
神の教えが変わって行ったと聖書に書いてない人間の思想で
神の言葉を考えている事です。
創世記〜マラキまでに書かれている内容、教えと、福音書以降〜黙示録までに書かれている教えは、最初の70%の箇所との
意味や内容が違う、新しい教えをイエシュアやパウロがしている事が書かれているという誤解をしているのです。
その理由は、人が創作した教えの牛乳瓶の底よりブ厚い色眼鏡をかけて聖書を曲げて読んでいるからです。
聖書の最後の部分から、最初を見て読み解いたら本当に
誤解します。それ以前にも異邦人、現代人の思想の中には、
ヘブライ思索、聖書思索が初めから無い、そして、最初に
書かれている意味、意図を知らなら、自分が考える概念から
聖書を読み込んでしまうのです。
これは詳しい説明が必要な内容なのです。
例えば、エデンの園の”地を這う物”と言うのを読み、
即座にサタンと想像します。
ではサタンとは聖書にどう言う意味で書かれているのか?
黙示録の最後の”竜”と読んでサタンであると自分の先入観で
考えてしまう。ヨハネ、古代の人は”竜”とは何を指して書いているのか、アルンム=狡猾と訳されていますが、透明な皮で
覆われた、地を這う動物とは何を意味して書いるのか?
例えば雲に乗ってやってくると読めば、”孫悟空”みたいな世界を
想像してしまいますが、それは全て異邦人だからなのです。
孫悟空を知るアジア人の思想の世界。
雲と聞いて古代のヘブライ人は何に繋げて考えるのか?
古代人が聞いて理解する内容、神が伝えた”雲”の意味は聖書の
最初に書かれている、それを知らないと空想になってしまうの
です。
その様な聖書の事実をまず知らないと聖書に書かれた内容を
自分の中に先入観で誤解して考え続けて行ってしまうのです。
聖書に書かれている事は最初の部分に書かれている意味、書かれた意味を知らないと本当に勝手に解釈出来てしまうのです。
そして聖書の最初に書かれている意味をまず知る事が
必要なのです。
殆どの場合は、聖書を逆から読み込む、途中から読んでいます。
途中=福音書以降から読んでいる。
最後を読んで最初を考えていることをしているのです。
だから聖書を最後の部分から読み、最初の部分を読み解くと、
自分の先入観をたくさん入れて読んでしまうのです。
最後の部分は、最初の部分を解説しているので、最初の部分を
まず理解しないと本当に様々な教えに変身させてしまいます。
そして、なになに神学、なになに思想哲学から聖書を読み解くと言う発想、解説自体こそが”人の教えの色眼鏡を通して聖書を
解釈、解説しています”と言う事なのです。
大事なことはヘブライ思索=聖書の思索、古代の人が理解して
いる内容で神が語って理解していた通りを、聖書に書いてある
意味通りに捉えて知ること学ぶ事が正しい理解への必須条件なのです。日本や海外の古典でも同じですよね。
現代の文学や言葉とは違うから、言葉の意味や当時の文化や
慣わしを知った上で初めて何が書かれているのか理解出来る。
聖書に登場する人達、福音書以降は1世紀の人達ですが、
誰一人、19世紀に出現した様な西洋人の神学思想、そして
1世紀以降ずっと作り出された異邦人西洋人教父達の思想で
聖書=神の言葉を考え理解してなどいないのです。
ヘブライ思想でトラー=永遠不変の神の言葉、教えとして
聞いている人達が聖書には書かれているのです。
新しい教えがイエシュア昇天以降に出現し、神がモーセの五書を破棄したと言う嘘偽りの教えを完全除去しない限り、神の言葉が変わったと言う教え、思想を少しでも取り入れて聖書を読むならグラグラ安定しないハンドルの自転車や自動車をであちらへ
こちらへ揺れながら運転している状態と同じ、
真実を捉える事からどんどん曲がって行きます。
ローマ9章でもパウロがたくさんタナックから直接引用して
解説しています。タナック=トラー、預言書、諸書です。
引用部分は鉤括弧が付いているので気が付きます。
パウロは100%トラーからそしてトラーを解説する預言書、
諸書からだけ引用して話しているのです。
パウロが直接タナックからの本文全部を引用していなくても、
イントロ的にタナックのどの箇所を話しているのか”短い言葉”を出して話しているので、それを聞く聴衆、読者はちゃんと
タナックのどこの何の教えを土台にして話しているのか
理解しているのがパウロの書簡を受け取った人達なのです。
パウロは100%トラーを話している。聖書に引用されている内容
は100%トラーに根付く教えである事実に目が開かれれば
聖書が1つで別の2つの福音や人種別、時代別の別の神の教えなどこの世に神の中に存在しない、最初から、エデンから神は同じ
教えを口頭で伝え続けていて、そしてシナイ山以降は神が文字で記して永遠に揺るがない証拠として神の言葉、教え、神の婚姻契約の中にある人の生きる詳細を世界へ伝えているのです。
ヘブル1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、
いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
<預言者達を通して神が語られた内容はイコール、トラーです。
そのトラーの解説とトラーから外れて生きている人達への神からの託宣、警告が預言書に書き記されています。
トラーはイエシュアご自身そのものであり、終わりの時に
イェシュアが地上に直接来られて預言者達が語った内容、
そして文字で書かれた神のトラーが実際にイエシュアにより
語られ、イエシュアにより実際にトラーそのものを神の意図通り生きた人であり神である姿を見たのであると、
この箇所を読む1世紀の人々は理解して聞いているのです。>
預言書、諸書、福音書〜黙示録は全て100%トラーを指して
解説している書である事実に立って聖書を読んでみれば
見えてきます。
パウロが預言書、諸書を引用すると言う意味は、
トラーに書かれた教えの解説を解き明かしていると言うことを
しているからです。
ローマ 9:24
神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、
ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも
召されたのである。
ユダヤ人も、そして異邦人も神が招き出している事実があることが書かれています。同じ神の家族で同じ神の国の実態を共に生きるそれが神の家族の1つの姿なのです。
9:25 それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
9:26 あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言った
その場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるで
あろう」。
<ホセア書から引用しています。
世界へ同じ神の言葉が伝えられる結果これが起きるのです。>
9:27 また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、
「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。
9:28 主は、御言をきびしくまたすみやかに、
地上になしとげられるであろう」。
9:29 さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主がわたし
たちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。
9:30 では、わたしたちはなんと言おうか。
義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、
信仰による義を得た。
9:31 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、
その律法に達しなかった。
<この様な箇所で、ユダヤ人は律法を生きて失敗しと言う教えが
生まれるのですね。そして律法=神の教えを生きようとする行為は神のみ旨ではないなどとの大いに誤解、逸脱した教え、解説に
飛躍しているのです。聖書には神の言葉を生きるな!などと
言う教えがどこにも書いてあるわけなど無いのです。
神は神のトラー=モーセの五書に書かれている教えの全てを寝ても覚めても何をしていても常に思い巡らし、そして子供らにも
教え続けなさい!と神が神の口から直接言って念入りに教えて
いるではありませんか。
どうしてユダヤ人は神のトラーを追い求めたのに神のトラーに
達しなかったのかその理由が次の節32に書かれています。
これはクリスチャンでもやっている同じ思考回路だと思います。
全てのユダヤ人が行いにより義とされ様などと考えていたのでも
無いのです。パウロが書いている相手は、ある一部のズレた
思考回路の人達に向けて警告しているだけなのです。
それをイエシュアが来られるまでの全てのユダヤ人は行いで
義を獲得しようとしていたと勘違いしてしまったら本当に、神の教えとは違う性質の、別の宗教の教えに発展させてしまいます。
続く