神が神の言葉を塗り替えるのは不可能 あり得ない パウロの語る真実は何? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ちょっと横道に逸れますが、ガラテヤへの手紙でもノモスと言う

ギリシャ語の翻訳が不適切で誤解された解釈で語られています。

同じ様な誤解なので書いてみます。

 

ガラテヤ 5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、

律法=ノモスの下にはいない。
 
この箇所の律法=ノモスを神の言葉=トラーであると誤解して、御霊に導かれるなら神の言葉=ノモス=律法の下に居ないと
解釈し、だから霊に導かれれば神の言葉を知る必要も生きる
必要も無いと言う教えが出現したのです。
 
でもここで書いてある意味は何ですか?
18節の律法とは明らかに”罪の法則”罪に束縛された状態の下
には居ない。なぜ?贖われて救われた人は神の義を生きる自由に移行したと書かれているからです。
 
自由=神の似姿=神の義の実態の中に生きる自由と聖書には
書かれており、救われたらなんでも好き勝手に生きる自由が
キリストにより与えられたのだ〜なんて教えは聖書には
書かれてはいないのです。
”自由”の意味を完全にはき違えるどころか、
聖書に書かれた自由の意味を完全に誤解しているのです。

 

19節以降でも肉=罪の奴隷、罪の法則に縛られていた罪の奴隷状態であった時と、神の似姿=義を与えられた人の状態が違う事が書いてあります。

義とされても、以前と同じ生き方を選択して、肉のまま生きるなら、それはパン種取り入れ罪と言う姿に膨れ上がるのです。

自動的に全てが変化するのでは無いのです。

この違いを区別すれば分かると思います。

新しくされている=義とされている事実がある。

でも肉のままで生き続ける、何も学ばないまま自分の感覚で自分流の解釈で神の教えを聞かずに生きるなら、それは以前のままの

状態、成長も変化も何も無い状態に留まる。

 

詩篇1章にある通り、神の言葉=水のほとりに植わり神の教えを

ガードして自分の命の成長を育むなら1年を巡る季節ごとに=

モアデイム=神の定めの時=神の記念日ごとに御霊の実がなる

事実を得るとヘブライ語では書いてあるのです。

 

本物の人間=マッツア=純粋な小麦にイエシュアと言うパン種が入れられた。それが私達救われた人達の事実なのです。

偽物=以前の自分のまま、パン種=罪を取り入れて生き続ける

この違いに気が付いたらパウロの話している内容が見えてきます。

 

ガラテヤ5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、

汚れ、好色、

l 5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、

 5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。

わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。

このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。

 

<救われた後もなおも肉のままの生き方を続ける状態が書かれています。ズレ=罪の性質を生きる選択をし続ける場合、神の国を継ぐ事が出来ませんよね。神の国を生きる人達は神の性質=

神のトラー=教え、インストラクションを生きる人達です。

神の性質を地上でそっくりそのまま映し出す鏡の人達、

世界へ向けて地の塩、世の光である人達で神の国は構成され、

大事な仕事=神の国を神の意図通りに治める人達に

神から、神の国を正しく治める役割を託されているからです。

 

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、

善意、忠実、

5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法<ノモス=

神の教え>はない。

 

義とされた人=神の言葉に植わり生きる人は御霊の実を

モアデイムごとに実らせる。

 

<そう、神の性質を生きる事を神は否定する訳が無い!

クリアーに分かる内容ですね。神の似姿を実際に生きる人、

愛とは、トラーに書かれた婚姻契約の詳細の愛なのです。

人間定義の自分の想像基準、内容の愛では無い。

愛の姿の詳細=神が伝えるその事実を生きる人達には、

喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制と言う

神の性質通りを実際に生きてその実態は周りに居る人にその人の

生き様を通して伝わるのです。

 

ローマ8:3 律法が肉により無力になっているために

なし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。

すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、

肉において罪を罰せられたのである。

 

”神の言葉”=ノモス=トラーそれ自体が力であり、

トラー、預言書はイエシュアそのものなのです。

イエシュア=ノモス=トラーの実態により私達が出来ない

贖いの業=義とされている事実、罪の奴隷から解放して

下さったのです。

神=言葉=霊=力。全ては神の言葉、スピーチにより出現

しました。これこそ神の力が形となって現れた証拠なのです。

 

1コリント1:18 

十字架の言=トラー=神の教え、インストラクションは、

滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、

神の力である。<言葉=トラー=神の教え=力=聖霊。

一体の事実があるのです。

どれも切り離して別物と考えてはならないのです。>

1:19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、

賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

 

パウロやイエシュアその他全て引用している箇所は、

トラー、それに付随する預言書、諸書からなのです。

この19節の箇所もパウロが引用しているのはイザヤ書です。

西洋人、異邦人が語るトラーが古い律法なので終わったと言う

教えは、同時にトラー、預言書、諸書、福音書〜黙示録は全部

終わったと言う事を主張している事に気が付いて下さい。

トラーが終われば、聖書の全ては崩壊するのです。

なぜなら聖書は100%どの書もトラーを指して語っているから。

 

なぜなら、聖書は全てどの箇所も100%トラーに基づいて

語っているからなのです。

そう考えて行くと神の言葉を仕分けて、つぎはぎの切りはり

又は人の教えの付け足しをし、時代により人種によりバラバラの別種の神の教えであると言う聖書概念は、神の言葉の中身を誤解して解釈し、人に伝えてしまっている事であり、神からの言葉、

メッセージ真理では無い教えであると理解出来るのです。

 

イザヤ29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。

 

ローマ8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって

歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

 

ギリシャ語、ノモス=律法の要求と言う意味は、

”神の義のトラー”=神の性質=義の実態が<キリストにより>が私達の中に満たされているから、肉によって歩まず、

御霊によって歩むのであると書かれています。

 

8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、

霊に従う者は霊のことを思うからである。

<以前の自分=肉=神の教えとはずれた事を考えて生きる、

イエシュアに繋がる人はイエシュアの性質=

霊に従うと言う言葉は、神の言葉に聞いて生きる事を考え

そして願うと言う意味なのです。

従う=聞くです。霊=神の言葉に聞く、神の教えに聞く。

 

8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、

いのちと平安とである。

<肉に属する思考回路、行動は死=神の命から切り離された姿。

霊=神に属するものは、命とシャローム=欠けの無い状態。

神の言葉=実態に根付いて実際に生きる事。

 

関連している箇所を繋げて見て見ます。

そうするとパウロが一貫して同じ事を話していることに

気が付きます。

 

神=言葉=霊=力と神が人に伝えている事実だけに基づいて

考えれば、神の言葉を生きることと霊に導かれる事が

全く同等の意味であり、神の言葉を生きる=律法主義、虚しい

古い惨めな生き方、恵を無駄にする生き方である???

そして霊に導かれて生きるのは昇天以降の力あるパワフルな

生き方ペンテコステ的な恵の生き方だ〜と言う、

聖書とは違う教えになってしまうのです。

霊に導かれるとは、神の教え=言葉=神の実態通りを生きる事

なのです。恵により生きる=神に与えられた義の実態=トラーの詳細神の創造した本来の人の姿=神の似姿を生きると言うのが

恵により生きると言う神が定義する内容なのです。

そして、ペンテコステ=シャヴオートは、永遠のトラーを神から受けた記念の祭り=ペンテコステなのです。使徒2章以前に生きていた人達も神を信じて、同じ義を受け取り、聖霊を内側に

住まう事実を知っていたのです。

 

注意して聖書に書いてある事、そして西洋人人間至上主義思想を捨てて聖書に書かれたヘブライ思索のヘブライの書を古代当時の

人達が聞いていた通りに聞く事に戻る。

 

1コリント4:18

しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることは

あるまいとみて、高ぶっているということである。

4:19 しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、

その力を見せてもらおう。

 4:20 神の国は言葉ではなく、力である。

 

19、20節を読んで、言葉=神の教え=トラーであると勘違いして教えられていると思いますが、読んでも分かる通り、

言葉=ロゴス=人の口が唱えるウンチクや思想ではなく、

実際に神の言葉=性質を生きる事=力と書いてあるのです。

 

 

 

続く