ローマ5章 同じ救い 贖い 同じ福音 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書、神の言葉、福音を誤解する数々の要因があると思います。

 

その1つに時代により人種により別種の神の救い、業、許し

etc etc があったのだと言う思想です。

同じ福音、同じイエシュア=救い、同じイエシュアの業、

永遠の中に完了されているものなのに、時系列上に神は救いや

贖いや教えを小出しにして、種類別の神の業が提供されたと

考えている西洋宗教思想。

 

そして、救い主が地上に来られる迄は、イエシュアが示したのと同じ性質の”救い” ”恵” ”祝福” ”許し”は無かった。

又は聖霊が人の内側に住まわれなかったと教えられた事が

あると思います。

詩篇読めば分かると思うのですが。詩篇の著者は100%

トラーを語って書いているのです。

トラー以外の神の書=教えはこの世に存在しない。

トラー以外の全ての書、預言書、諸書、〜黙示録は全て100%トラーを語っているのです。永遠不変の同じ1つの神の言葉。

 

救い主が地上に来られて実際にトラーに書かれた”贖い”を

木にかけられて2000年前に地上で成し遂げるまでは、

”仮の”助け、救い、許ししかなかったと考えていると思います。

 

”見ずに信じるものは幸い!” 古代の人は未来にまだ見ない

実際に地上で誰も体験しない、イエシュアの生き方=トラーを

実際に完全に生きることを示した事。

そしてイエシュアのされた業は、永遠の中から既に存在し

どの時代でもどの人種でも同じ贖い、救いを得ている事実。

過去の人は、未来に来られるものを見ないでも信じることは

幸いと言う事実に繋がるものです。

アヴラハムに関しても同じ事が書かれています。

まだ見ぬ救い=イエシュアを未来に見て喜んだと書いてあります。

 

ヨハネ8:55 あなたがたはその神を知っていないが、

わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。

しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。

<イエシュアは父と特別な関係=一体=知り、父の言葉=

神のトラーをガードして生きていると話しているのです。>

 

8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を

見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

 

8:57 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、

「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを

見たのか」。

 

8:58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに

言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、

いるのである」。

 

創世記 22:18 

また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を
得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。
<わたしの声=トラー、 従った=聞いてその通りに生きた>
と書いてあります。アヴラハムも神のトラーを聞いて理解し
生きていたと書かれているのです。
 
聖書は初めから”同じ福音!” 同じ救い=イエシュアがどの時代にも永遠から居られて、そして同じ性質の救い、贖い、恵、
祝福、許しetc etc etc が信仰により神の提供する
 

全てを受け入れる人に同等に同じものを神はどの時代にも

与えている。

そしてその中身、内容、実質は変化しない、別物では無い。

聖霊は人の内側にどの時代にも住まわれている事実が、

聖書にはクリアーに書かれているのです。

特にモーセの五書を読めばそれが分かるのです。

 

子羊の血は何を指して言っているのですか?

”過越”の鴨居に塗られた子羊の血でまだ人が地上で見ない

子羊イエシュアの贖いの血を表しているものです。

本体と影。天にある目には見えない実態を地上に映し出すもの

それが影。

 

神は神ご自身が創造された時や空間に制限されないお方である

事実を知って、西洋哲学思想の時系列上、線上に全てを見ることをやめて、神の目=永遠の中から全てを見る事、ヘブライ思想=聖書の思想で神の言葉を読み直せば神の語る真実、

事実が見えてきます。

 

そして、イエシュア=救いが地上に来られたら、神が教えて

来られた人間の性質、生き方がそれ以降変わると言う幻想の教えは聖書では無い!と知らない限り、別の教えが出現し、救い主が

全部何もかも帳消しにするので、ズレ、罪を犯し放題、やり放題だと考えてしまう教えがありますが、それは神の教えでは無い

人間が主張する教えであるのです。

ずれたら必ず傷つくし、他者も傷つける。そして刈り取る結末があります。要らない痛い目に合う事を避けるのは賢明な事です。

 

中世ローマ教の免罪符思想の様に、このお札させえあれば

”一言謝ればそれで済む!”2000年以降は簡易式許しになったのだと言う許しの思想、やり放題大丈夫などと考える事自体が

神の教えとはズレている思想です。

 

ローマ5:10 

もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって

神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、

なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

 

 5:11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を

得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストに

よって、神を喜ぶのである。

 

 5:12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、

すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

<神に造られた人間が1体として繋がっているので、最初の人が

ずれた行為=神の目から見ることとは違うこと、善悪の木から

食べた代償が全人類のDNAに浸透し、死を免れない影響を

与えてしまった。>

 

5:13 というのは、トラー以前にも罪は世にあったが、

トラーがなければ、罪は罪として認められないのである。

 

<トラー=神の教え、インストラクションは初めから存在して

いたけれど、それを聞いた事が無い人が居たら、神の語る罪

ずれとは何か知るよしが無いですよね。

ズレ=罪とは、神の定義する神の意図通りとは違うものと言う

意味です。それは道徳的なこと、道徳的な事でなくても含めて

人の生きる領域全てに渡り神が人にトラーの中で教えているの

です。神の意図からずれた全て=的外れ=罪なのです。

 

だから、神の定義する”ズレ”罪=ハターとは何かが分からなければ、人それぞれが考えるところのズレを想像するだけになり

絶対的基準が無いと言う事です。

 

どうして同性同士、兄弟姉妹同士で婚姻は出来ないのか?

などと言われても神の教えを知らない人には、はっきり神の教えによりそれは神が造られた人間の婚姻の形態のデザイン、性質

では無いとはっきり根処に基づくことが言えないからです。

絶対的基準=神の言葉に照らし合わせて初めて人は

神の解説する意図、デザインが分かるからです。

 

5:14 しかし、アダムからモーセまでの間においても、

アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、

死の支配を免れなかった。

このアダムは、きたるべき者の型である。

 

”善悪の知識の木から食べたら死ぬと言われた通り、その影響は

それ以降の人々のにも遺伝子の中に伝達されてしまったのです。

しかもアダムの違反をしない人も居たと書かれていますね。

腹に書かれたトラーを生きた人も居たと言う事実があるのです。

 

 5:15 しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。

すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。

 

 5:16 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、

罪に定めることになったが、恵みの場合には、

多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。

 

<神の恵、哀れみがなければ罪の状態からの解放も無いのですが、代価を払ってあがない出して下さったことで、神から遠く

離れた状態から、神の義を得る状態に戻されたこと、

それが神の恵です。人が何をしても受けるに値するものでは

ないことを与えられる、それが恵の定義。>

 

続く